京都・清水寺「田村堂(開山堂)」【重要文化財】

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京都・清水寺「田村堂(開山堂)」【重要文化財】

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創建年

  • 不明
再建年

  • 1633年(寛永10年)
  • 2006年(平成18年)

建築様式(造り)


  • 入母屋造
  • 一重
屋根の造り

  • 檜皮葺
大きさ

  • 桁行三間(奥行:約6m)
  • 梁間三間(横幅:約6m)
重要文化財指定年月日

  • 1966年(昭和41年)6月11日
御本尊

  • 坂上田村麻呂像
  • 三善高子夫人像
  • 行叡居士像
  • 延鎮上人像
発願者(寄進者)

  • 徳川家光

清水寺・田村堂(開山堂)の読み方

清水寺の境内には難しい漢字の表記のお堂や御本尊がありますが、田村堂は「たむらどう」、開山堂は「かいざんどう」と読みます。

清水寺・田村堂(開山堂)の歴史・由来

清水寺の田村堂(開山堂)は清水寺を開山した「延鎮上人(えんちんしょうにん)」と清水寺を創建した「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」とその妻である「三善高子(みよしたかこ)夫人」、「行叡(ぎょうえい)」を祭祀しています。

堂内にはこれら4方の人物の像が安置されており、坂上田村麻呂の像は予想外に衣冠束帯(いかんしょうぞく=麻呂の服)姿の像となります。

田村堂や開山堂の名前の由来とは、先述した坂上田村麻呂の「田村」と清水寺を「開山」した延鎮上人のことを指しています。

清水寺の境内は室町時代に仁王門とその周辺を残して全焼し、後の1633年(寛永10年)に境内の伽藍のほぼすべてが再建されています。

従って現在のお堂の姿は1633年(寛永10年)の再建時のものですが、田村堂は2006年(平成18年)に修繕されており、正式には2006年の修善後の姿です。

清水寺・田村堂(開山堂)の建築様式(造り)と見所(見どころ)


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堂舎入口の黒色の「蔀戸(しとみど)」と、板張りの壁面は上から白く塗装が施されており、堂宇全体の配色として朱色が映え、特に目を惹きます。

壁面の組物である「出組(でぐみ)」の彩色は同じ境内に位置する「阿弥陀堂」と同様に極彩色で彩れています。

ちなみに、このような清水寺で見れるような極彩色を「繧繝彩色(うんげんさいしき)」と呼称し、白を基調としながら他の色を塗り重ねるようにして塗装が施されています。

屋根は、本堂や奥の院と同じ檜皮葺(ひわだぶき=ヒノキ葺きの屋根)で葺かれています。

清水寺・田村堂(開山堂)の特別公開について

清水寺の田村堂(開山堂)は普段は非公開ですが、上述した4方の人物に関連した縁日には特別公開されることがあります。

そして特別公開の日のみ一般の参拝客が堂内に入って4方の像を拝観することができます。

近年における有名な例を挙げますと「坂上田村麻呂一千二百年御遠忌」の折に特別公開されています。

  • 特別拝観の料金:拝観無料
    ※内部の撮影は禁止

【補足】行叡居士と延鎮上人

「清水寺縁起」などで伝わっている話によると、778年、後に延鎮上人となる賢心(けんしん)が、夢のお告げにより清泉(せいせん=清く澄んだ泉)を求めて出かけたところ「音羽の滝」に辿り着きます。

その後、音羽の滝の辺(ほとり)に「小さな小屋」を建て、長年修業をしている「白衣姿の修行僧」に出会いました。

この「白衣姿の修行僧」こそが行叡居士であり、年齢はなんと!200歳だったようです。

行叡居士は賢心にこう言います。

「私はあなたが来るのを待っていた。これで千手観音像を造って祀り、神聖な音羽山をお守りするように」

そうして、なんと!「観音像を彫るための木」を賢心に授けてスっと消えてしまいます。

その神秘的な光景を顧みた賢心は行叡居士が観音菩薩の化身だと悟り、その後は千手観音像と行叡居士がいた小屋、そして音羽山を守り続けました。

そして、この小さな小屋こそが清水寺の起源であり、開山堂に行叡居士と延鎮上人が祭祀されている理由となります。

【補足】坂上田村麻呂

開山堂には他にも、重要文化財の厨子の中に、清水寺を創建したことで知られる「坂上田村麻呂」とその妻「三善高子夫人」が安置されています。

坂上田村麻呂とは「征夷大将軍」となって蝦夷(現在の北海道)を平定した人物で身長が2mもあった大柄な人物です。

西暦780年(宝亀9年)、征夷大将軍になる前の坂上田村麻呂は、京都の山奥で「鹿」を狩るために山に入り、偶然にも賢心(後の延鎮上人)の小屋にたどり着きました。

そこで賢心によって鹿に対する殺生を止めるによう命の大切さを諭され、観世音菩薩の功徳や音羽の滝の霊験を説かれました。

賢心の説法に感銘を受けた田村麻呂は嫁ハンの「高子夫人」にも語り伝え、その後2人とも仏の教えに帰依(信仰)することになります。

さらに自分たちの邸宅までもを賢心に譲り渡し、賢心は「千手観音」を貰い受けた「田村麻呂の邸宅」に祀りました。

この田村麻呂の邸宅こそが現在の清水寺本堂の前身であり、清水寺本堂の起源となります。

後に征夷大将軍として、東国・蝦夷平定の戦いに勝利した坂上田村麻呂は、この戦に仏の加護があったと信じ、急ぎ都へ馬を返します。

都へ着いた後は、延鎮上人となった賢心と共に「本堂を改築」と「本尊の脇侍を造立」を行い、本堂へ安置します。

以上のような伝承から清水寺では、行叡居士と延鎮上人をそれぞれ「開基」、「開祖(開山)」と呼称し、本堂を創建した坂上田村麻呂と嫁の三善高子夫人を「大勧進」として共に「田村堂(開山堂)」に祀られるようになっています。

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【補足】三善高子夫人

三善高子夫人は文献に記述がないことから不鮮明な部分が多く、略歴すらも不明となっており、清水寺に伝わる「清水寺縁起」に少し名前が出てくるのみです。

ただ、三善清継と呼称される人物が父親であり、つまりは娘と言うことになります。

しかし一説では三善清継の「養女となって坂上田村麻呂に嫁いだ」と言う説もあります。

そうなると「三善氏の一族ではない」と言うことになり、さらに迷宮入りすることになります。

三善氏に関しても確かなことは分かりかねますが、渡来系の一族である「百済(くだら=朝鮮)の速古大王の末裔」とも云われております。

朝鮮から日本に渡って来た後、頭角を表し朝廷に功績が認められ、805年頃(平安時代)に朝廷の臣として正式に抜擢され、以後、三善一族は朝廷に仕える家柄になっています。

但し、この当時、三善氏と言う氏族はまだ存在しておらず「錦部氏」と言う名前の氏族であったようです。

従って高子夫人も三善高子ではなく、正式には「錦部高子」であった可能性が示唆されます。

清水寺・開山堂(田村堂)の場所

清水寺の開山堂(田村堂)は仁王門から進み三重塔の裏側、経堂の後方に位置します。

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