【夕日スポット&日想観の道場】京都🐲清水寺「西門」【重要文化財】

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京都・清水寺「西門」【重要文化財】

創建年

  • 不明
  • 推定:平安時代末期
再建年

  • 1631年(寛永8年)
  • 1994年(平成6年)
建築様式(造り)

  • 切妻造
  • 三間一戸八脚門
  • 正面向拝一間
  • 背面軒唐破風付
屋根の造り

  • 檜皮葺
大きさ

  • 奥行:約3.9m
  • 横幅:約8.7m
  • 棟高:約4m
前面の向拝の大きさ

  • 奥行:約2.1m
  • 横幅:約3.9m
  • 軒の出:約1.6m
重要文化財指定年月日

  • 1908年(明治41年)4月23日

清水寺・西門の読み方

西門は「さいもん」と読みます。

「犀門」?

この西門は、「犀門(さいもん)」とも呼ばれるが、言葉の由来と目される動物の犀のレリーフや彫像はなく、絵図にも描かれていない。

これはおそらく西門の組物の先に見える木鼻の彫像を犀と間違えたのだと思われる。

西門の別名

現在の西門は手前に柵が置かれ、後方にも柵が置かれるなど通行できなくなっているので、西門から迂回する形で三重塔の背面を通って西門の裏側へと至る。

ところが、江戸時代後期は一般参拝客が西門が通り抜けて本堂舞台まで歩けた。

ただ、現在までの通説では、天皇の勅使(ちょくし)だけが通行できた時代があったことから「勅使門(ちょくしもん)」とも呼ばれていたとされる。

清水寺・西門の歴史・由来

西門がいつ頃、建造されたのかは判然としないが、後述の鎌倉時代に編纂された中園相国記(園太歴)にも記述がみられるように鎌倉時代にはすでに境内に存在したと云われる。

現在までの通説では平安時代末期だと推定されてい‥‥‥申す。ゴボビャっ

応仁の乱で焼失後、続く1629年に起こった火災でも焼失。

1629年の火災は応仁の乱ほどの類焼はなかったものの馬駐仁王門鐘楼以外の諸堂はすべて焼亡す。

1631年(寛永8年/江戸時代前期)に東福門院(家光公の母ジャ)が造営発願し、3代将軍・徳川家光公(幕府)によって清水寺伽藍の再建が実施される。

この寛永期の大造営によって再建された西門が現在見ることのできる姿となる。

1994年(平成6年)に修繕されていることから、創建当初の極彩色が蘇ってい‥‥‥申す。ボギャゴェっ




清水寺・西門の建築様式(造り)

表側

向拝部の屋根の裏側に見える垂木組は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)。

正面には春日造りを彷彿とさせる緩やかなカーブを描く「向拝(こうはい)」が延びる。

向拝の下には、7段の木階段を設ける。

向拝下の木床の周囲には朱色・丹塗りの高欄(こうらん=手すり)を回す。

正面の向拝を支える柱上部の極彩色は見事と言う他なく、その柱の間の横木である水引虹梁の端の木鼻は「象」の彫刻を用いる。

獏と象の彫刻の違い

この西門の隣に建つ、鐘楼(鐘)には、「象」の他に「獏(ばく)」の彫刻も見られた。

ここで「象さん」と「獏」の彫刻を見分け方を解説しておくと、獏は室町時代後期から安土桃山時代以降の建造物に多く見られる特徴とされる。

代表的な建造物に江戸期の建築である「栃木県・日光東照宮」が列挙される。

「獏と象の違い」は「耳が立っている」か「耳が垂れている」かがもっとも分かり易い違いになる。

  • 耳が立っている方が「獏」。
  • 耳が垂れている方が「象」。

‥‥‥で、ちょぃと再度、上掲画像をご覧になってみてくだせぇ。

‥‥‥いかがですかぃ?お分かりになりやしたかぃ?

象の彫刻は一般的に「大仏様」と呼称される様式で「日本独自の様式」と伝わっているが、本来は大仏様も大陸から伝来した文化(建築技法)なので「唐様(現在の禅宗様)」と云える。

時代を下るにつれ、異国から伝来した様式である「禅宗様」が流行し、やがて禅宗様と大仏様とが合わさり日本独自の彫り物が誕生する。

その日本独自の彫り物となる代表例が上記の「獏」となる。

他に「獅子」などもこれに当てハマる。

これから清水寺へ訪れる予定の方は、ぜひ、建造物の木鼻もジックリとご覧くだせぇ。

ところで‥‥‥この当時の日本人は象さんを知ってたの?

ちなみに日本人が象さんをはじめて見たのは、1729年(享保14年)のこととされる。じゃぁ‥‥どうやって象さんの彫刻作ったの?

この秘密は下記ページにて💘

背面

背面には弓なり形状の屋根「唐破風(からはふ)」が乗る。屋根はヒノキ材を用いた桧皮葺(ひわだぶき)。

門の側面

目を惹くのがやはり、極彩色の「蟇股(かえるまた)」や組物の極彩色。

向拝を支える両柱の金襴巻きの飾り金具や、水引虹梁に見える装飾は日光東照宮にも見られるような緻密な装飾が見られ、江戸期の特徴を色濃く示す。

⬆️極彩色の金襴巻き

前面半分の吹き放ち部分は牡丹模様が描かれた格天井が用いられているが、何も使用用途の無い間口に牡丹の装飾を用いて格天井を張るのは少し違和感がある。

有識者の間ではこの間口で何かが行われていた可能性が指摘されてい‥‥‥申す。ギャホェっ  ….久しぶりのギャホェ  …ギャホェ大好き

門の内部

⬆️四半敷の床に左右間口に菱欄間。そして何より‥見よ!この絶景!京都市街が一望できる!往時はさぞかし‥‥‥ハラヘッタ

この門の最大の特徴と言えるのが、門扉が設けられていないこと。藁座(わらざ)の痕跡すら見当たらないので、設計段階からこの門には扉を用いる意匠が存在しなかったことになる。

門の内部の天井は格天井が張られ、書院様式の「折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)」を営む。

門全体の極彩色や格式高い折上小組格天井を大胆にも用いる意匠など、異国文化に華やぎ、数寄の文化が花開いた安土桃山時代の様式を伝えることから、貴重とされているが、佇まいを見るかぎり、江戸時代の特徴の方が濃いとみる。

西門は平成の大修理によって極彩色が施された!

1984年(昭和59年)〜1987年(昭和62年)に鐘楼の後ろ、西門の後方に立つ、三重塔の解体修理が実施された折、一部の部材に極彩色が見つかり、江戸寛永期の再建後は境内の堂塔に彩色&丹塗りが施されていたことが明らかにされた。

この三重塔の工事がキッカケとなって境内の建造物群の調査が実施され、続く平成の大修理ではこの西門を含め、以下の建造物群が江戸寛永期再建後の極彩色かつ、丹塗りを施した姿で復元される運びとなった。

【補足】平成の大修理によって江戸再建時の姿に戻された御堂一覧

  • 1994年(平成6年):西門
  • 1996年(平成8年):阿弥陀堂
  • 1999年(平成11年):鐘楼
  • 2000年(平成12年):経堂
  • 2003年(平成15年):仁王門
  • 2005年(平成17年):田村堂
  • 2013年(平成25年):子安塔
  • 2017年(平成29年):奥の院

この平成の大改修は総工期11年、総工費約40億円を要する一大プロジェクトだった。




清水寺・西門に奉安される仏像

ザイオンには以下の‥‥おっと、西門!には以下の四天王像のうち、二天像が収められてい‥‥‥申す。パピァグフィヘっ ザイオン?….なんでこのタイミングでマトリックス??

増長天立像(向かって右側)

造立年:不明(推定:鎌倉時代)
像高:215㎝
造立方法:寄木造り
材質:ヒノキ材
作者:不明(推定:慶派仏師)

増長天とは?

「増長天(ぞうちょうてん)は持物として「棒(ぼう)」や「戟(げき)」を持つ。

子分には「鳩槃荼(くばんだ)」と「薛茘多(へいれいた)」と呼ばれる魔神を従え、南の方角を守護する。

須弥壇においては南西の方角に置かれることが多い。

持国天立像(向かって左側)

造立年:不明(推定:鎌倉時代)
像高:220㎝
造立方法:寄木造り
材質:ヒノキ材
作者:不明(推定:慶派仏師)

持国天とは?

「持国天(じこくてん)」は持物に「剣」と「矛」を持つ。

「乾闥婆(けんだっぱ)」と「畢舎遮(びしゃしゃ)」と呼ばれる子分(インドの魔神)を従え、東の方角を守護する天部の守護神。

これらの子分は「四天王八部衆」とも呼ばれる。

なお、持国天は須弥壇(しゅみだん/=仏壇)では、東南の方角に置かれること多い。

二天だけを置く例は珍っしぅぃ!

門には通常、上記の持国天と増長天に「多聞天」と「毘沙門天」を加えた「四天王像」を門の裏と表に安置することが多い。

造立年は不詳とされているが、鼻を起点とした顔、力強さが込められた像容からして、鎌倉時代の慶派仏師の造立とみられており、これはつまり、現在の西門よりも以前に造立された像ということになる。

西門は日想観を行うために造られた?

清水寺は東山の崖に面して建つことから、古来、寺そのものが仙境や極楽浄土に例えられる風潮があり、事実、平安時代の平安京で屍人が出れば、清水寺付近にかつて存在した鳥辺野(とりべの)という場所に葬送したと云われる。

ちなみに鳥辺野の「鳥」とは、かつて「鳥葬(ちょうそう)」と言って鳥に屍を食べさせる葬送を行なった場所とされることから、この名が付されたとされる説がある。

なお、鳥葬は仏教の本場インドやチベットなどでは現在進行形で盛んに行われており、毎日、多くの生き物の命を平然と奪っている人間は、せめて死後はその身体を自然に還そぅという思想に基づいたものである。

話は少し逸れ申したが、清水寺境内はこの西門のあたりから傾斜が付いて高台になっており、西門から見る洛中の眺めは極楽浄土を彷彿とさせるほど美しく、特に夕日の見栄えが見事だったとのこと。

⬆️西門からは夕日や夕景が抜群に映える。(夕景を撮影しに訪れるカメラマンも多い)

夕日は西へ沈み、その西と言えば阿弥陀如来の座す極楽浄土がある。夕日が落ちる瞬間、その極楽浄土とつながるという俗信もあり、人々はそこに信仰の髄を見出した。

そこで沈みゆく夕日を見ながら静かに瞑想するという「日想観(にっそうかん)」と呼ばれる修法も新たに登場した。

そぅ、この西門はその日想観を行って阿弥陀如来の悟りを得るための修験場とも成り得る場所(日想観の聖地)として活用されきた歴史を有するということ。

西の山に沈む夕日を遥拝して阿弥陀西方浄土を観想し、観想することによって阿弥陀仏の真理と通じ合うことができ、悟りをひらくことができるとも云われる。




室町時代の西門の様子

西門の建っている場所を考察すると高台に面した絶妙の場所に建てられているともいえる。

ちょいと下掲画像をご覧くだせぇ。

この絵図は「清水寺参詣曼荼羅(1548年(天文17年/室町時代 成立)」に描かれる西門の姿。

右上に描かれる轟門は現在の向きのまま。対して西門は現在とは方向が異なり、手前側を向いている。

中に見える”扇子”を”センス”よく手持った僧侶は、この絵図が描かれた時代、まさに日想観の信仰が極まった時期でもあったことから、おそくら日想観をしていると思われる。

1259年(正元元年/鎌倉時代後期)の古書物である「帝王編年記(ていおうへんねんき)」や、洞院公賢(とういんきんかた) 著の「園太略(えんたいりゃく)」には、この西門のことが記され、また、安置される二天像(増長・持国天)は鎌倉時代の造立であることがあきらかにされている。

阿弥陀如来を崇拝する浄土信仰は平安後期あたりから増大したことから、時代的に同じ浄土信仰の一種となる日想観と重なる。

実際、1188年(文治4年/鎌倉時代)に「浄土宗の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)」が清水寺境内の阿弥陀堂にての修行後、僧尼たちを堂内に集めて念仏・常行三昧(じょうぎようざんまい)の修法を説き、日本で最初の「常行念仏の修行道場」に定めてい‥‥‥申す。パフェっ ….今 甘いの欲しい

そのような背景も重なり、この西門が応仁の乱後、日想観を修するための道場(修験場)として建立されたという推測も成り立つ。

現に西門の表側と裏側とでは間取りが異なり、裏側は二天を安置する間口を左右両脇に設け、表側(階段側)では前面半分を柱を立てるのみにして吹き放ちにしている。

江戸時代の西門の様子

下記、絵図は江戸時代後期に描かれた「都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)」の西門の姿。

この絵図を見ると、西門の両脇に設けられた茶席に腰を下ろし、眺望を楽しんでいる人々が見える。おそらく半ば物見台・展望台と化していた様子がうかがえる。

この時代のことを記した数ある書物でも、江戸寛永期の再建後の清水寺は観光客で賑わいを見せていたとされており、それがこの絵図を通して理解できる。

江戸時代になると日想観という修法が薄れ、現代のように信仰が多様化していた様子を物語っている。

ちなみに1520年(室町時代)に描かれたとされる清水寺縁起絵巻の詞書(ことばがき)に次のようなことが記されている。

「さても猶、境地は西山へ清く晴れて、日初観より地想観・水想観・宝樹観(ほうじゅ)などの観想(かんそう)に入りぬれば、十万億土(平易に極楽のこと)も遠からず、彼の浄刹(かの じょうさつ/平易に西門のこと)の色相(しきそう)は孤雲外にぞ浮かび塗る」

意味としては

『西門が観無量寿経に説かれる「十六観法(極楽往生を願う人々が行う16の方法)」の中の最初の「観」である、”西に沈む夕日を拝んで阿弥陀如来の西方極楽浄土を想念する日想観を修するためにはこれ以上ない場所”』

などの意味合いになる。

清水寺・西門の場所(地図)

西門は仁王門をくぐり抜け右端の方に見える高台にそびえる門となる。

ただし、門の前方(表側)と後方(裏側)には柵が立ち、進入不可となってい‥‥‥申す。ポピャパっ

西門周辺の見どころなど

石灯籠と八方睨みの虎

西門の階段下は拝観順路の出口付近にあたり、広場になっている。この広場には平べったぃ奇石が置かれているが、名前を「八方睨みの虎」と言ぅ。

この奇石についての詳細は下記ページにて💘

石灯籠(八方睨みの虎)や清水寺の七不思議に関しての詳細は当サイトの以下↓の別ページを参照。

 関連記事:西門前の穴空き石の正体は岸駒の傑作『🐯水飲みの虎の石灯籠🐯』だった?!

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