京都 清水寺・成就院「信海上人像」

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京都 清水寺・成就院「信海上人像」

  • 像高:約25㎝
  • 造立年代:明治時代
  • 安置場所:成就院院内

信海上人とは?

信海上人は大坂の町医者「玉井宗江」の次男として讃岐吉原(現在の善通寺市)に生を得る。当初は「長丸(おさまる)」といった。ちなみに兄は「宗久」と云い、後の清水寺成就院第24世・住職の月照上人その人。オホっ

実はこの玉井宗江の弟こそが、月照を次代の成就院(清水寺)住職へ推した清水寺成就院第23世・住職の「蔵海上人」その人であり、つまりは信海上人からすれば伯父にあたる人物となる。

信海上人は兄・月照上人に続き、1016年(平安時代)に創建と伝わる真言宗・牛額寺(ぎゅうかくじ/香川県善通寺市)の住職だった蔵海上人の弟子になり、以後は師である蔵海の宿望によって高野山に上り、万勝寺の霊明に学んだ。

さらに東大寺では竜肝に灌頂(かんじょう)を受けるなどし、南都仏教・子島流の再興にも励む日々を送った。

しクぁし!兄の月照上人が突如、寺を出奔し隠居すると、兄に代わって清水寺成就院の住職に就任する。信海上人も兄・月照同様に歌に非凡な才があり、兄同様に近衛公はじめ、青蓮院尊融(そんゆう)法親王の覚えめでたいところとなり、やがて申し出により、攘夷と国家安寧の祈祷修法を執り行うが、幕吏(ばくり/幕府の役人)に倒幕の嫌疑(けんぎ)をかけられ捕縛される。

その後、江戸・伝馬町の牢獄(現・中央区日本橋小伝馬町3)へブチ込まれ、臭いメシを味わう間も無く、小塚原(現・荒川区南千住2-34‐5)へ移送され、1859年(安政6年)3月18日、同監獄で散り果てた。時は。享年39歳。


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蔵海上人が成就院へ入った理由

蔵海上人は1016年(平安時代)に創建と伝わる牛額寺(ぎゅうかくじ)に在籍した僧侶であり、当時10歳だった宗久ならびに、自身を弟子にとった後、清水寺成就院へ住職として入山することになる。

蔵海上人は当代では高名の高僧だったようで、諸寺から困窮する清水寺を救済して欲しいと云われたことや、何よりも興福寺・一乗院の伏見宮家出身・宮尊誠法親王たっての特別の思し召しということもあった。

蔵海上人の頃の清水寺の惨状

元禄期は町人文化が華やいだ時代だと云われるが、貨幣経済が急激に発展するとデフレに陥り、経済は混乱。中でも清水寺は中小封建領主という立場の寺院であったため、旧来の流儀を時代の波に合わせて容易く変えることができず、気づけば借金まみれで、銀預かり(ぎんあずかり/高利貸し金融業者)の意のままに操られるようになっていった。

挙句、六坊を始めとした子院の中には無住職の寺も出始め、指を加えて眺めているだけだった。

しクぁし!事態はそれだけで収まらずに、清水寺の本願職(庶務や財務)を担った成就院でさえ、5年間もの間、無住職という有り様だった。

そんな清水寺の惨状に手を差し伸べたのが、清水寺の本寺・興福寺の一乗院「尊誠(そんじょう)法親王であり、法親王は清水寺を立て直すべく、当時、清廉律僧、和歌に秀でた蔵海上人に白羽の矢を当て、成就院へ入るように特命を下した。

成就院へ入った後、蔵海上人が掲げた改革案

  • 院の古文書・記録の整理(歴史の認識を行う)
  • 甥の玉井久丸(月照上人)と長丸(信海上人)兄弟および、役人である「栗山瀬平」の三男・「金弥(のちの近藤正慎)」を弟子に取り、後継者を育成する。
  • 歌人でかかりつけ銀預りの西井政永を帰依・出家させて親交を深める。
  • 境内に植樹し、そのほか全体的に風致に努める。

‥‥‥etc

蔵海は住職という立場を利用し、有名な歌人や歌僧たちとの社交を広げつつ、やがて「上人号」を勅許されるも他の子院の陰謀や反対意見が多く、なかなか改革は実現しなかった。

それから程なく、蔵海は身体を病魔に蝕まれ、病床と闘いながらも改革成就に向けて奮戦するも、寿命には抗えず、成就院にて露と消える。

その後、蔵海上人の志を引き継ぎ、改革を成し得たのが、愛弟子の月照上人だった。うきゃ

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