京都清水寺・奥の院「二十八部衆像」と「風神・雷神像」
奥の院の内陣の様は本堂と類似した仕様になっており、本堂に倣い、千手観音の眷属(けんぞく/守護する家来)として二十八部衆と風神・雷神を本尊が奉安される厨子(ずし)の左右に奉安しています。
⬆️写真は本堂の内陣のもの。小規模だがこれとほぼ同形式のものが奥の院の内陣にある
歴史
1989年(昭和64年/平成元年)に実施された修理の際、28部衆のうちの1尊である「満善車王(まんぜんしゃおう)」の胎内から次のような墨書(書状)が発見されています。
「寛永八年 十一月十八日」
「四条東洞院大仏師 大蔵卿康胤 造立」
「施主 周庵」
「御奉行 竹中筑後守重信 小野宗左衛門尉貞則」
この事実は28部衆の造立年を示す1つの証拠となるものであり、1631年(寛永8年/江戸時代)に完成した仏像であることが分かります。
この刻銘によれば「周庵」という人物が「施主」となって仏像造立を発願し、「寛永8年11月18日」に「四条東洞院(ひがしのとういん/地名)大仏師」の「大蔵卿(おおくらきょう/官職名)康胤(やすたね?)」という人物が完成させたことになる。
ただ、「御奉行」「竹中筑後守重信」「小野宗左衛門尉貞則」と記されていることから、数人の奉行の指揮のもと、現在の京都の四条東洞院の仏師・大蔵卿康胤という人物が造立したことが想像につきます。
つまり、徳川家光公の寛永年間の大造営(再建)の際に同時に造立された仏像であると考えることができます。
本堂と奥の院の二十八部衆像の違いとは?
奥の院にも本堂と同じく28体の仏像が安置されますが、本堂と決定的な違いは像高と造立年代です。
これらの奥の院の二十八部衆の仏像は本堂の二十八部衆を忠実に模造したものとなり、奥の院の二十八部衆像は江戸時代。本堂のものは応仁以前(応仁の乱の類焼で焼損)。
「七条仏所」の墨書が胎内から見つかる
奥の院の二十八部衆像の像の中からは、「七条仏所(しちじょうぶっしょ)」と書かれた墨書が見つかっているとのことです。
「七条仏所」とは、別名で「七条大仏所」とも呼称し、かつては現在の京都駅と七条駅の間に存在した場所で、早い話が仏像を造立(制作)した場所です。
七条仏所には平安時代中頃の慶派の仏師たちが、自らの家族たちも呼び寄せて集まって共同生活を送った場所であり、一種の仏師集落であったと云われます。
七条仏所跡地の地図と場所
現在の七条仏所はどうなっているのかと言いますと、残念ながら「七条仏所跡地」としてだけ残っています。
七条仏所跡地の周辺には由緒書きが記された看板が立てられているのみで民家が建っています。
ご興味のある方は訪れてみてください。京都駅から徒歩約5分ほどの距離です。