京都・清水寺(泰産寺)「子安の塔」【重要文化財】
創建年
- 不明
※伝:718年(養老2年)以前
※1260年(鎌倉時代)以前には建っていたものとされる。
再建年
- 1500年(明応9年/室町時代)
- 1624年(寛永元年)から1643年(寛永20年)/江戸時代
- 1911年(明治44年)※移築
- 2013年(平成25年)
建築様式(造り)
- 三重塔婆
- 方形造り
屋根の造り
- 檜皮葺
大きさ
- 四辺三間(四辺:初重の一辺が約2.5m)
- 高さ:約15m
重要文化財指定年月日
- 1966年(昭和41年)6月11日
御本尊
- 子安観音(千手観音)
ご利益
「子授け」「安産」「子の育成」
※子安塔を管理する泰産寺の「泰産(たいさん)」とは「安産」と同義語。
清水寺・子安塔の読み方
子安塔は「こやすのとう」と読みます。
子安塔の別名
「児安の塔(こやすのとう)」
清水寺境内に三重塔は2つある!ドッチが子安の塔??
境内入口にも三重塔があるが、子安の塔は奥の院付近の小峰に建つ。
なお、子安塔は正式には清水寺の塔頭(支院)である泰産寺(たいさんじ)の仏塔になる。
子安の塔の歴史
子安の塔の詳しい創建年代は不明。
奈良時代、聖武天皇(しょうむてんのう)と光明皇后(こうみょうこうごう)が、御子を授かるために清水観音へ祈願し、見事、安産にて御子(史上6人目の女帝である孝謙天皇(こうけんてんのう))を授かった霊験から、光明皇后がその謝礼に創建したのが現在の子安の塔の起源とされる。
以来、「子授け・安産=子安」のご利益があると信仰され、尊崇が寄せられるようになった。
もし、この話を正史とするならば、孝謙天皇は718年(養老2年)に誕生していることから、それ以前に子安塔が建てられたことになる。
つまり、奈良時代に建立されたということ。
現在見ることのできる子安塔の姿は1500年(明応9年/室町時代)に再建された時のものを基本とし、2013年(平成25年)に修復されたもの。
子安塔はその昔、境内入口に建っていた?
現在の子安の塔は奥の院の奥にそびえる小峰に建っているが、往時の子安の塔は、仁王門を向かい見て右手前に建っていた。
現在の例えで分かりやすく云うと、仁王門前の駐在所(警備室)の場所が相当する。
子安塔趾の石標(石碑)
⬆️現在の門前にある警備室の敷地内にある「旧子安の塔跡地」の石碑(奥に見える建物が噂の警備室)
石標(石碑)正面に「念持観音」「光明皇后」「子安塔趾」と刻字された陰刻が見える。
右側側面に陰刻があるのが視認できるが、風蝕作用のため見辛い。『當(当)山 志 ○産○趾』とわずかに見える。(推測:「当山(清水寺の)支院 泰産寺趾」)
明治初期から中頃に撮影された子安の塔の写真(門前の写真)
この古写真は明治中頃に撮影されたものとみられている。子安の塔の後方に木々が繁茂している様子がうかがえるが、これは竹藪。この頃清水寺周辺は‥というより東山一帯は竹藪が多かった。(写真は清水寺でいただいた冊子より)
⬆️現在のほぼ同じ場所の写真。スッキリきりきり高坂桐乃‥的なほどスッキリとしている。….どゆ意味や
しかし、1911年(明治44年)に上記、奥の院の奥の小峰(現在地)へ移建されている。
仁王門の左手前に子安の塔が建っていた事実は、1548年(天文17年/室町時代)に描かれた古絵図・「清水寺参詣曼荼羅」や「洛中洛外図屏風」、室町時代の歌舞伎役者「世阿弥(ぜあみ)」の代表的な謡曲「熊野(ゆや)」などに見られる。
熊野では『子安の塔を過ぎれば程なく”車宿り(荷馬車置き場)”と”馬留め(馬をつなぐ場所)”がある。これよりは降りて本堂の千手観音へ参る』と記されてい‥‥‥申す。ギャシシャっ
鎌倉時代の古文書である「園太暦(えんたいりゃく)」によれば、「塔が2つ」と記載されており、つまりこれは現在の三重塔と子安塔が仁王門の裏手に2基ならぶ形で並存していたことを意味し‥‥申す。グフェっ …「し‥申す」は反応せんでエエよ
清水寺境内に子安塔は2基あった?
鎌倉時代に編纂された平家物語にも「児安の塔(こやすのとう)」と記されており、実はこの時代、清水寺境内には子安の塔が2基あった。
ちょぃと下掲画像をご覧くだせぇ。
この画像は1574年頃に狩野派絵師(狩野元信とも)によって描かれたもので、俗に『上杉家本・洛中洛外図屏風』と呼ばれるもの。うきゃ
この屏風絵の左側、西門(さいもん)の隣に背の高い塔が描かれているが、よく見るとその下にも背の低い塔が描かれているのが分かる。
実はこの背の低い塔の下に見づらいのだが、その下に「こやすのとう」と書かれており、この背の低い塔こそが、古今、変わらず、この子安塔とされている。
なぜ2基あった子安塔が名称を変えて分けられた?
名称が変えられた‥というより、片方はただの三重塔になってしまったといえる。
現在では片方が三重塔と呼ばれて名称が分けられた形式になっているが、便宜上、見分けを付ける意味合いがあってのことだろぅか。
確かに観光などでガイドが説明する時、まさか世界遺産登録の構成資産を子安塔AとB、α(アルファ)やβ(ベータ)などと説明はできない。
明治時代、子安の塔は売りに出された?
清水寺は元来、御願寺だったので資金は寺領や布施などの収入のみだった。
明治時代に入ると、政府の上知令によって清水寺の寺領(土地)の大部分が没収されることになり、これまで檀家をもたなかった清水寺は困窮した。
背に腹は変えられず、そこで止む無く、子安塔を売り払うため、境内の「地主神社」を現在の子安塔が建つ場所へ移建する計画が浮上することになる。
そこで1911年(明治44年)に現在地となる奥の院の奥の小峰に移建されることになる。
平成時代には大改修が実施される!
この子安塔は、数十年に一度の規模とも云われる平成の大改修にて復原工事など大掛かりな工事が施工されてい‥‥‥申す。クポっ …ん?これは‥FFか?
工事期間
2009年(平成21年)2月~2013年(平成25年)8月
工事内容:「解体修理」
- 後世の改造部分の痕跡をもとに以前の姿に戻す修理(復原補修)
- 塗装が剥げ落ちた箇所の塗り直し(彩色の補修)
- 暴風対策として建築構造全体の見直し・補強
子安塔は平成の大修理によって極彩色が施された!
1984年(昭和59年)〜1987年(昭和62年)に鐘楼の後ろに立つ、三重塔の解体修理が実施された折、一部の部材に極彩色が見つかり、江戸寛永期の再建後は境内の堂塔に彩色&丹塗りが施されていたことが明らかにされた。
この三重塔の工事がキッカケとなって境内の建造物群の調査が実施され、続く平成の大修理ではこの経堂を含め、以下の建造物群が江戸寛永期再建後の極彩色かつ、丹塗りを施した姿で復元される運びとなった。
【補足】平成の大修理によって江戸再建時の姿に戻された御堂一覧
- 1994年(平成6年):西門
- 1996年(平成8年):阿弥陀堂
- 1999年(平成11年):鐘楼
- 2000年(平成12年):経堂
- 2003年(平成15年):仁王門
- 2005年(平成17年):田村堂
- 2013年(平成25年):子安塔
- 2017年(平成29年):奥の院
この平成の大改修は総工期11年、総工費約40億円を要する一大プロジェクトだった。
ところで‥‥泰産寺とは?
泰産寺(たいさんじ)は子安の塔を守護し総括する寺院であり、もともと清水寺を総括していた成就院(寺務所の少し奥に建つ寺。平時は一般非公開)の支院となる。
しかし、明治以降、成就院が清水寺という宗教組織に組み込まれると、清水寺の塔頭(支院)として機能することになる。
- 御本尊:十一面観音菩薩
- 脇侍:地蔵菩薩、毘沙門天、二十八部衆
清水寺の参道「三年坂」と子安塔の意外なつながり
清水寺の参道として古くから親しまれている「三年坂」。
この子安塔の意外な繋がりがあったことはあまり知られていない事実だが、古くは「産寧坂(さんねいさか)」と呼ばれていた。
「産寧」とは「お産が寧か(やすらか)に済む=安産」の意味を指し、なんでもこの参道は子安塔の御本尊・子安観音へ参詣するための参道だった。
「産寧坂」を通り、「泰産寺」の「子安塔」の「子安観音」を詣でる‥‥名前を聞いただけでもご利益満載の雰囲気がただよぅ。
例えるなら、フンっっっ!!‥‥‥‥きゅぃぇぅぃぁぉ〜(とんでもなくキバっている様子を表現)‥‥‥ポンっ!!‥‥ふぅ。
‥‥てな感じで簡単にいともたやすく簡単に生まれてきた‥のでは、ないだろぅか。
おつかれ
やがて時代を下りながら「産寧」がにごって「三年」と呼ばれるようになり、一般的に「三年坂」の通称で知られているが、実は上記のような理由があったのだった。
なお、この三年坂には他にも由来があって、お礼参りで再度訪れることから「再念坂(さいねんざか)」とも呼ばれる。
子安塔が安産祈願で有名になった理由
子安塔が安産祈願で有名になった理由は、「聖武天皇(しょうむてんのう)」と「光明皇后(こうみょうこうごう)」が安産祈願に参詣し、無事に安産で御子(孝謙天皇)が生まれたことに因む。
そのお礼参りで奉献した仏塔がこの子安の塔であると伝えられて、いっぃ‥‥‥申す。ダハっ (新パターン”いっぃ‥申す”)
光明皇后は出産の際、天照大御神に約6㎝の子安観音を授けられたと云われ、つまりはその観音像を千手観音の胎内に入れて子安の塔へ安置したことになる。
聖武天皇とは奈良時代の天皇であり東大寺造営の発願者でもある御方。
聖武天皇は、御子が無事に生まれたお礼として、三重塔(子安塔)を造営して寄進したということは、子安塔は奈良時代に建てられた可能性が極めて高ぃとみれる。
なお、現在の仁王門裏手にそびえ立つ、三重塔は平安時代の天皇である「嵯峨天皇(さがてんのう)」が、息子の誕生を祈願して創建したとされているが、驚くことになんとぉぅ!「子安塔」と呼ばれていた歴史を有する。
子安塔は洛陽三十三所観音巡礼・第14番札所!
この子安塔は「洛陽三十三所観音巡礼」の「第14番札所」の指定を受けている。
洛陽三十三所観音巡礼とは、京都の観音菩薩を祭祀する霊場(寺院)33ヶ所を巡拝することであり、この33ヶ所の霊場を「洛陽三十三所観音霊場」と総称される。
ちなみにここ京都清水寺だけで以下↓の6ヶ所も霊場が存在している。
清水寺善光寺堂(旧地蔵院)・「如意輪観音菩薩」:第10番
清水寺奥の院・「三面千手千眼観音菩薩像」:第11番
清水寺本堂・「十一面千手千眼観音菩薩」:第12番
清水寺阿弥陀堂・「法然上人第二十五霊場」第13番
清水寺朝倉堂・「十一面千手千眼観音菩薩」:第14番
清水寺泰産寺・「十一面千手千眼観音菩薩(子安観音)」:第15番
清水寺・子安塔の御本尊「十一面千手千眼観音菩薩(子安観音)」
清水寺の子安塔の御本尊である「十一面千手千眼観音菩薩(じゅういちめんせんんじゅせんがん かんのんぼさつ)」は別称で「子安観音」とも呼称される。
本像は前出の、高さわずか6㎝ほどの小さな観音像を胎内に宿らせた大変、珍しっぅぃ〜仏像になるのだが、考えてみればその像容からして、すでに安産に関してのご利益満載なのである。
そもそも「十一面千手千眼観音菩薩」とは「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」のことであり、この観世音菩薩の行う所業(誓願)の1つに「難産にならないよう安産を助ける」と云ぅものがある。
このような状況が折り重なるが故、霊験あらたかな「子安観音」と騒がれたのだろぅ。
なお、観世音菩薩は、より多くの衆生(しゅじょう/世の中のあらゆるもの)を漏らすことなく救済するために、自らの身体を変化させ千本の手を出したと云われる。
清水寺・子安塔の建築様式
子安塔の建築的特徴として特に注目したい点は、仁王門後方の三重塔とは逆に尾垂木が出ない様式の三手先、初重一辺の幅と、通例の仏塔における屋根の軒の出の長さと比較した場合、狭い。
つまり、スリムりむりむリムジンGO!‥‥てなほどスリムな外観をしている。どゆ意味や
君に一目惚れして恋が始まった瞬間のように、思わず目がクラつぃちまぅような色鮮やかな朱色の塗装、屋根は「檜皮葺(ひわだぶき)」で各層・和様平行繁垂木で組みあげられてい‥‥‥申す。プキャっ
二層三層の欄干(らんかん/飾り手すり)が朱色なのに対して、初重を取り巻く縁や欄干が、真っ黒クロ助を凌駕するほどの漆黒色をしているのが、なんとも印象深い。♪まっくろクロスケ出ておいで〜出ないと目玉を‥続きなんやった? …まぁエエわ オホ
どういう思惑があって初重のみを、まるでブラックリストに乗せるかのようにブラックに染め上げたのか。….それどゆ意味や 君の存在がすでにブラックリスト!
現在の子安の塔は創建当初を模して再建された!
以前の子安塔を知っているのであれば、塗装のない質素な素木造りの塔をイメージされるのではないだろぅか?
しかし現在の子安塔は鮮やかな朱色の塗装がされており、この姿は創建当初の姿を復元した姿とのこと。オホっ
2013年に行われた再建工事で大発見!
2013年に行われた再建工事ではなんと!一部の部材から「明応九年五月四日」と刻まれた文字(刻銘)が見つかっている。
明応9年といえば西暦1500年。‥‥といぅことは、この刻銘が正しいものだとするならば、少なくとも室町時代にはこの塔が存在していたことになる。
礎石の取り替え
冒頭でも述べたようにこの子安の塔は1911年(明治44年)に移築工事が実施されてい申すが、その折、礎石がレンガであったことが明らかにされた。
その後、2013年にも改修工事が実施されたのだが、この時にレンガより、強度のある御影石(みかげいし)へ取り替えられている。
御影石とは?
御影石の分かりやすい例となるのが墓石。ひと昔前の墓石ではなく、現在進行形の墓石を見れば分かるが、表面がツルツルツルりんっ♪とした君のうるおい成分タップり♪プリン‥な頬肉のように思わずキスしたくなるような石が使用されている。…君系のネタ、そろそろサブぃ
子安の塔の扁額
扁額の文字
『洛陽 子安 観世音菩薩』
清水寺・子安塔(泰産寺)の御朱印
- 御朱印がもらえる場所:清水寺本堂・舞台裏の納経所
- 冥加料(値段):300円
実は子安塔(泰産寺)でも独自の御朱印が用意されているが、これについて清水寺の授与所では表立って案内はしていない。
すなわち、現地まで行かないと御朱印があることが分からないようになっている。
これは参拝してから御朱印をいただくという暗黙の教理に基づいたものだと思われるが、現地に行くと塔の前に平屋の建物があって戸扉のガラスに御朱印の案内が掲載されてい‥‥‥申す。ガギャホェっ
清水寺・子安塔の場所(地図)
子安の塔への行き方
清水寺の境内は原則、一方通行なので迷うことはなぅぃ。
轟門前の拝観受付で拝観券を買って、轟門前の係員のオッちゃんにそれを見せれば門の中に入れてくれる。
門の中に入れば車寄せ(廊下)→ 舞台 → 釈迦堂→ 阿弥陀堂→ 奥の院 ‥‥という具合に前の人に追いていく形で勝手に流れていく。
奥の院を過ぎると一般参拝者はUターン(折り返し)する形で、再び舞台の方へ戻ってくることになる。(現在は清閑寺へも行ける)
子安の塔の場所は、そのUターンしたあたりにある脇道の上(小峰)にあるので、脇道を見落とすと子安の塔へはたどり着けない。
そこで子安の塔へ行きつくための脇道を案内しておこぅ。ウきょきょ
Uターンポイントと子安塔へ至る脇道への入り方
写真左端が脇道への入口となる。ほとんどの参拝客はそのまま直進して音羽の滝へ行ってしまぅので、流れに身を任せないように要注意💋
まさにぅぃ!‥『僕は自分を見失わない。それが僕の戦い方だ。』‥状態になるといぅこと。…ん?ひょっとして、東京喰種?
子安の塔へ至る脇道入口の様子
⬆️「左端の石標に「洛陽十四番 子安観世音菩薩」と刻字されてい‥‥申す。ギャギェっ
子安の塔への脇道は傾斜は緩やかだが坂道になっている。それと写真を見ても分かるように車椅子で行く場合は持ち上げてもらう人が必要になる。
【オマケ】子安の塔境内の様子
秋の子安の塔の様子
子安の塔の前は眺望が楽しめる広場になっているが、広いとはいえないものがある。
【オマケその2】子安の塔からの眺望
この子安の塔は境内の小峰に建つことから、本堂そして舞台、入口の三重塔などが一望できる。
春には桜花、秋には紅葉、冬には雪景色が見事な見栄えで観られる場所ともなる。
これらの季節にカメラ片手に訪れたのであれば、この子安の塔からの眺望はハズせない写真撮影スポットとなる。
春の子安塔と本堂(舞台)の様子
紅葉ほどではないが、舞台下には桜も自生していることから、春になるとそれなりに桜花が咲き乱れる様子が楽しめる。
秋の子安塔と本堂(舞台)の様子
写真は2021年12月11日に撮影したもの。この年の見頃は11月末あたり〜12月初週頃までだった。ちょ〜っと訪れる時期が遅かったこともあり、特に写真左側の木などはすでに葉が散ってオバァちゃんの入れ歯装着前の歯のようになってい‥‥申す。ジェヤホェァっ
冬の子安塔と本堂(舞台)の様子
京都は1月〜2月初旬頃の間で雪が降ることがある。
降雪のあった翌日は人生5番目くらいのチャンス!三重塔や本堂(舞台)の屋根には昨晩、降り積もった雪景色が観られる。
清水寺本堂の工事の際も写真のように、工事の様子が最高のインスタ映えで一望できる唯一の場所だった。
道中、奥の院を過ぎたあたりから見る錦雲渓も必見!
奥の院から子安塔へ行かれる途中、阿弥陀堂から続く山沿いの道を歩くことになるのだが、この山沿いの道ではよく旅行雑誌などで観られる清水寺舞台とその前に広がる「錦雲渓(きんうんけい)」が観られる。
錦雲渓の「錦雲」とは、朝焼けに茜色に染まった雲という意味で、つまり、錦雲渓とは舞台下に広がる木々の様子を例えた言葉。
春には桜花、秋には紅葉、冬には雪景色がこの場所からも楽しめる。お見逃しなく💕