京都・清水寺「阿弥陀堂」【重要文化財】【法然上人二十五霊場・第13番札所】【洛陽六阿弥陀】
創建年
- 不明
再建年
- 1631年(寛永8年)から1633年(寛永10年)再建※江戸前期
- 1884年(明治17年)※大改修
- 1996年(平成8年)
- 2017年(平成29年)6月 ※平成の大改修
建築様式(造り)
- 入母屋造
- 背面一間通り庇付
- 鏡天井
- 一重
大きさ
- 桁行三間(横幅:約10m)
- 梁間三間(奥行き:約10.4m※さらに1間突き出ている)
屋根の造り
桟瓦葺→ 平成の大改修にて檜皮葺(ヒノキ)へ葺き替え
重要文化財指定年月日
- 1966年(昭和41年)6月11日
御本尊
- 阿弥陀如来坐像
発願者(寄進者)
- 東福門院(発願者)※徳川家光の妹
- 徳川家光(寄進者)
清水寺・阿弥陀堂の読み方
阿弥陀堂は「あみだどう」と読みます。
阿弥陀堂には別名があった?!
鎌倉時代初頭、阿弥陀堂は音羽の滝の上(山手)に建つことから、滝上の山の寺と書いて「滝山寺(りょうせんじ/orたきやまでら)」とも呼ばれた。
この証拠を示す1つとして、お隣、釈迦堂の向かって左端に立つ、宝塔(宝篋印塔)の下段の礎石に「滝山寺」と刻まれた刻銘が現存してい‥‥‥申す。パキュゥォっ
阿弥陀堂の名前の由来
御本尊に阿弥陀如来を奉斎することにちなんだもの。
清水寺・阿弥陀堂の歴史
阿弥陀堂の創建年は不明とされる。
清水寺は現在に至るまでの歴史の中で幾度も火災に見舞われたことから、燃えてしまったか消失したかで清水寺の歴史を記した文献が数えるほどしか存在しない。
鎌倉時代
この阿弥陀堂は「浄土宗の開祖・法然上人(ほうねんしょうにん)」が1188年(文治4年/鎌倉時代)に修行した後、僧尼たちを堂内に集めて念仏・常行三昧(じょうぎようざんまい)の修法を説いたことから、日本で最初の「常行念仏の修行道場」として定められてい‥‥‥申す。ポニョっ …ん?どっかで
後世においては「法然上人二十五霊場」の1つとして「法然上人二十五霊場の13番(円光大師二十五霊場第十三番)」に指定される。
「念仏・常行三昧」とは、90日間に渡り「阿弥陀像」の周りを歩きながら仏の名を唱え続ける修法のこと。
江戸時代
1717年(享保2年/江戸時代中期)には、京都に6か所ある「洛陽六阿弥陀(らくようろくあみだめぐり)」の1つとしても指定を受けるに至る。
「洛陽六阿弥陀」とは❓
「洛陽六阿弥陀(らくようろくあみだ)」とは、「木食正禅上人(もくじき しょうぜん しょうにん)」の発願により始まった巡礼。
京都市内の阿弥陀如来像を奉斎する6つの霊場(寺院)を巡拝することを云ぅ。
この巡拝を3年3ヶ月続けると祈願成就、無病息災、一族繁栄、健康長寿などのご利益を授かることができると云われる。
【補足】京都・洛陽六阿弥陀 一覧
- 1番「真如堂」
- 2番「永観堂」
- 3番「清水寺・阿弥陀堂」
- 4番「安祥院(日限さん)」
- 5番「安養寺」
- 6番「誓願寺」
洛陽六阿弥陀参りの縁日(法要)一覧
1月15日、2月8日、3月14日、4月15日、5月18日、6月19日、7月14日、8月15日、9月18日、10月8日、11月24日、12月24日
上記の日(阿弥陀如来の縁日とされる)に巡礼すると、古来、より良き霊験が得られると云われる。(本来は3年3ヶ月巡拝する行)
寛永期の大火災で阿弥陀堂は焼亡す!
1629年(寛永6年/江戸時代前期)に成就院からの失火とされる火災は予想をはるかに上回るほど規模が大きく、境内ほぼ全域にわたって燃え広がり、境内ほぼ灰燼に帰す。
その後、以下の御堂が再建された。
- 西門、三重塔、経堂、田村堂、朝倉堂、轟門、本堂
- 本坊北総門、鎮守堂(春日社)、釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院
平成時代
1966年(平成8年)には彩色が復元され、その後、数十年に一度とも云われる規模の「平成の大修理」にて屋根の葺き替えなど大掛かりな工事が実施されてい‥‥‥申す。クポっ …ん?これは‥FFか?
工事期間
2011年(平成23年)3月~2017年(平成29年)6月
工事内容:「半解体修理」
- 破損部分の補修
- 後世の改造部分の痕跡をもとに以前の姿に戻す修理(復原補修)
- 屋根を桟瓦葺(さんがわら)から檜皮葺に葺き替え
阿弥陀堂は平成の大修理によって極彩色が施された!
1984年(昭和59年)〜1987年(昭和62年)に鐘楼の後ろに立つ、三重塔の解体修理が実施された折、一部の部材に極彩色が見つかり、江戸寛永期の再建後は境内の堂塔に彩色&丹塗りが施されていたことが明らかにされた。
この三重塔の工事がキッカケとなって境内の建造物群の調査が実施され、続く平成の大修理ではこの阿弥陀堂を含め、以下の建造物群が江戸寛永期再建後の極彩色かつ、丹塗りを施した姿で復元される運びとなった。
⬆️カラフルふるふるに塗装される前の阿弥陀堂の姿
【補足】平成の大修理によって江戸再建時の姿に戻された御堂一覧
- 1994年(平成6年):西門
- 1996年(平成8年):阿弥陀堂
- 1999年(平成11年):鐘楼
- 2000年(平成12年):経堂
- 2003年(平成15年):仁王門
- 2005年(平成17年):田村堂
- 2013年(平成25年):子安塔
- 2017年(平成29年):奥の院
この平成の大改修は総工期11年、総工費約40億円を要する一大プロジェクトだった。
阿弥陀堂の御詠歌
清水の滝へまいればおのづから 現世安穏後生極楽(げんせあんおんごしょうごくらく)
意味
清水寺の音羽の滝とその上の阿弥陀堂・奥の院へ参れば、生涯、安らかに健康に過ごせる。死後も極楽浄土へ導かれる。
清水寺・阿弥陀堂の建築様式・特徴
柱間が広い
阿弥陀堂の外陣部分(礼堂)、前方の柱間の距離だけが広くとられているが、これは人が頻繁に出入りすることを想定した配慮のための意匠とみられてい‥‥‥申す。パギョアヘァっ
阿弥陀堂は別名で「滝山寺」とも呼ばれるように常行念仏の道場であったことや、阿弥陀堂の奥に建つ奥の院へ行きやすくするための配慮であるとも考えることができる。
石四半敷が敷かれた床
堂内の外陣部分は菱形の平石を敷き詰めた「石四半敷き(しはんじき)」が用いられ、土間敷きの礼堂(らいどう)兼、廊下(通路)としてい‥‥‥申す。プピャっ
ちなみに、この土間には板を支えるためであろうと推定される穴ボコが現存していることから、以前は土間ではなく床板が張られていたと考えられてい‥‥‥申す。連発はねぇ…ちょぃ休憩 オホっ
外陣(礼堂)の建築様式
礼堂の天井に注目してみると、後ろ半分が組入天井、手前半分が化粧屋根裏になっているといぅ大変、珍しい意匠が光る。
平行の虹梁を前後にわたし、柱間には貫材と長押を通し、柱上に出三斗(でみつと)、その間に中備として間斗束(けんとづか)を据えた和様式の意匠。
1996年(平成8年)に実施された修復工事においては、創建当初の阿弥陀堂に可能なかぎり戻すことを目的とされており、堂舎全体の造りはもちろんのこと「柱の朱色」や「堂舎の極彩色」が見事なまでに復元されています。
背面の庇付
妻には虹梁とその上に大瓶束を立てる禅宗式(唐様)の意匠がみえる。
背面には庇(ひさし)を附し、白壁を据え、高欄を用いない縁を三方へ廻す。
後柏原天皇の直筆の扁額(へんがく)
阿弥陀如来の頭上、内陣正面の額には「日本最初常行念仏道場」と書かれているが、これは後柏原天皇(ごかしわばらてんのう/1464-1526年)の勅筆によるもの。
後柏原天皇が直筆した額が阿弥陀堂に飾られている理由は、父の後土御門天皇と同様、敬虔な仏教徒だったことに因む。
後柏原天皇の御代はちょうど応仁の乱後で朝廷の財政が逼迫状態にあり、自らの行い(罪障)が原因だと考えた天皇は阿弥陀仏に帰依し、その広大無辺な慈悲に期待を寄せるようになった。
後柏原天皇は生前、次のような和歌を残している。
心だに 西に向はば 身の罪を 写すかがみは さもあらばあれ
意味
心さえ、西の浄土(阿弥陀如来が座す西方浄土のこと)を向いていれば(崇拝していれば)我は我でいられる。 鏡よ、いくらでも罪多き我が身を写せばよい
阿弥陀堂の内部の様子
法然上人像
阿弥陀堂は法然上人が開いた道場であることを誇示するかの如く、堂内の内陣左隅、本尊・阿弥陀如来坐像の脇に配置された「厨子(ずし=割と豪華な箱)」の中に「法然上人像」が安置されてい‥‥‥申す。パクォフゲェっ
法然上人は平安時代末期にこの世に生を得た僧侶で、滋賀県の「比叡山延暦寺」で修行に励み、後に浄土宗を開創した人物となる。
1188年(文治4年/鎌倉時代初頭)5月15日、この瀧山寺(阿弥陀堂)へ来山し、説戒(せっかい/受戒した者に仏教の戒律を説く)を行い、上人に魅了された清水寺・大勧進の印蔵沙弥(いんぞうしゃみ)は、上人に帰依を意を示し、以後、この阿弥陀堂を常行念仏の道場とすることを請い、日本発の不断常行念仏三昧が開始されることになった。
その後、「法然上人二十五霊場」に列せられることになる。
鏡天井の「迦陵頻伽(妙音鳥)」
堂内の床は一段上げられ、さらに中央部の天井は空間が広くとられて「鏡天井(かがみてんじょう)」となっており、「迦陵頻伽(かりょうびんが)」または「妙音鳥(みょうおんちょう)」と呼ばれる空想上の鳥が2羽、描かれてい‥‥‥申す。パッキュケホェっ
鏡天井とは格天井(ごうてんじょう)のような正方形の格縁で区切ったようなマス目状の天井ではなく、板を数枚張り巡らした「真っ平らな天井」のことを言ぅ。
「迦陵頻伽」は別名で「妙音鳥」と言ぃ、これは「美しい声で鳴く鳥」と言う意味合いになり、つまりは迦陵頻伽が描かれた絵は「仏の世界である浄土」を意味する。
また周囲の長押や貫材、柱上の斗供にも極彩色で文様があしらわれ、荘厳美麗な空間を創出してい‥‥‥申す。パキャっ
阿弥陀如来坐像
- 造立年:不明(推定:寛永期 ※江戸時代初期)
- 像高:192㎝
- 造立方法:寄木造り、玉眼、表面・漆箔塗り
- 材質:ヒノキ材
御本尊の阿弥陀如来坐像は江戸時代に僧侶の「源信(げんしん)」、通称「恵心僧都(えしんそうず)」の作によると目され、漆を塗って金箔を押した「漆箔」仕上げの、きらびやかで美しい阿弥陀如来の尊像となる。
阿弥陀堂坐像の特徴
阿弥陀堂の御本尊の像高は約192㎝もあり、これは本堂にて奉斎される御本尊に次ぐ大きさを誇る。
背中の後ろに立てられる「光背(こうはい)」は「阿弥陀浄土の世界」を表現してい‥‥‥申す。ポピーっ ..算数キラぅぇ
阿弥陀如来といえば「他力本願」の語源!
現代社会においても「他力本願」と言う言葉が一般的によく使用されるが、この言葉の語源となっているのが、この阿弥陀如来とされる。
他力本願の「他力」とは「阿弥陀如来が人々を救済すること」を意味すると云われりゅ。
浄土宗の教理では、死を迎えると阿弥陀如来によって存命中の「行い」や「功徳(くどく)」が「九品(くほん)」と言う9つのランクづけで評価され、その評価に応じて来迎する如来が姿形を変えると云われる。
つまり、日頃からアリんコを踏まないよぅ地面を警戒し、夏き暑に少々汗ばんだ小指に蚊がポチっと止まってチュルチュルとバキュームし始めても見逃す‥‥とまぁ、以上のようなことをしておけばSSS(トリプルS)までは行かんくても、SS(ダブルS)ぐらいは狙えるであろぅ。ホっホっ 小指は一番カユぃ!あれはたまらん なんのランクや
清水寺・阿弥陀堂の阿弥陀如来坐像には脇侍がいた!
現在は堂には無いので知らぬぅぁい方がほとんどだと思われるが、この阿弥陀様には元来、脇侍として観音菩薩・勢至菩薩が両脇に奉安されていた。
いずれも鎌倉時代の特徴が濃く表現された秀作とされ、一説には薬師如来の左右の脇侍である日光・月光菩薩にも比定されることから、現在は京都国立博物館に寄託されてい‥‥‥申す。カキョっ
(なお、京都国立博物館では「伝・観音菩薩・勢至菩薩立像」として、「伝(言い伝えの段階でまだ決まっていない)」が付されて展示リストに加えられている)
対聯(ついれん)
阿弥陀如来坐像の手前には菱欄間(ひしらんま)が嵌め込まれ、その下、左右には、縦状の看板(聯/れん)が見える。
書かれている内容は次のとおり。
むかって左「洛陽六阿弥陀如来念仏道場」
向かって右「円光大師廿五拝拾三番遺跡」
清水寺・阿弥陀堂の御朱印
円光大師二十五霊場 第十三番
阿弥陀堂は「円光大師二十五霊場 第十三番」の指定を受けることから、その霊場にちなんだ御朱印がいただける。
阿弥陀堂の御詠歌
「円光大師(えんこうだいし)」とは法然上人の死後に敬って送られた名前(大師号)。
もう1つ、「阿弥陀仏と十声唱えてまどろまん 長き眠りとなりもこそすれ」という御詠歌もあるので信奉者や霊場巡拝者は必見。
- 御朱印がもらえる場所:阿弥陀堂の納経所
- 冥加料(値段):各300円
京洛六阿弥陀
阿弥陀堂は京洛六阿弥陀の第三番札所の指定も受ける。
京洛六阿弥陀とは京都市内の阿弥陀如来を奉安する6ヶ寺を巡拝する霊場めぐりのこと。
もらえる場所
- 阿弥陀堂の納経所
清水寺の御朱印の種類や詳細については以下のページにてご紹介しています。
清水寺・阿弥陀堂の場所(地図)
本堂の奥。釈迦堂と奥の院の間にはさまったお堂。
阿弥陀堂と隣に奥の院を写した構図
阿弥陀堂周辺の見どころ
宝篋印塔
冒頭でもクっちゃべった宝塔は厳密には宝篋印塔と言い、内部に宝篋印陀羅尼という経文が収められている。
清水寺の宝篋印塔は少し他の宝篋印塔とは違ったご利益がある。
詳細は下記ページにて♡
百体地蔵堂
この阿弥陀堂とお隣の釈迦堂の間には覆屋風の百体地蔵堂がある。
現在でも物心つかない子を亡くした夫婦が参拝に訪れるなど、篤い信仰が寄せられている。
百体地蔵堂については下記ページにて♡
関連記事:京都・清水寺「百体地蔵堂」
西門
西門は阿弥陀堂が浄土宗の道場とされたことが影響して「日想観」と云ぅ、阿弥陀如来の西方浄土を観想する修法の場でもあった。
日想観や西門については下記ページにて💘
関連記事:京都・清水寺「西門」【重要文化財】
阿弥陀堂の魅力
阿弥陀堂では、毎月めぐってくる縁日になると堂内にて法要が執り行われる。
この日、特別に法話を無料りょうりょう吉沢亮‥‥てなほどに聞くことができる。どんな度合いや 青天を衝け(大河)良かった!