大槻重助の石碑

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大槻重助とは?

大槻重助の出身地

大槻重助は、清水寺成就院第24世住職の月照(忍向)師の忠僕(召使い)と伝えられる。

丹波の高津村(現在の綾部市高津)の大槻(おおつき)という姓を持つ農家に生まれた。この時代、姓を持つことを認められた農家は希少で豪農だった背景がうかがえる。

清水寺成就院(月照上人)に奉仕するようになった経緯

その高津村に清水寺成就院で門番をする人物が居り、その人物を通して成就院で働くことが決まると月照の下男(召使い)になった。

やがて主人の月照が勤皇活動に加担すると自身もそれに倣って随従したが、江戸幕府が打ち出した「安政の大獄」にて月照上人が幕府から追われる身になる。

幕府に追われた主人と、主人の最大の友でもあった西郷隆盛の逃亡を手伝い、重助も大坂へ随伴する。その後、西郷隆盛の故郷である薩摩へ逃避行する運びとなり、船で薩摩を目指したが、驚いたことに薩摩藩は西郷を突っぱね月照上人の入藩を拒絶し、日向へ送ることを命じる。

感の良い月照上人は自らの命は日向で終わることを察知し、ならばということで自ら命を絶つことを決意する。

そして、重助に命じて船を沖合まで出すように命を下すと、ほどなくして厳冬の錦江湾(きんこうわん/現在の鹿児島湾)の深海へ露と消えた。西郷もこれに付き従い入水を図ったのだった‥‥。

その後、西郷隆盛は奇跡的に一命を取り留めることになるが、主人が死すその瞬間を見届けた重助は悲しみに包まれながらも、主人が失せたことで行く宛がなくった自らの身を案じなければならず、西郷を頼ろうとした。

しクぁし!

この当時の西郷は数年後の錦の御旗に包まれ、栄誉の輝きに満ちた西郷隆盛のカケラすらなく、むしろ罪人として奄美大島に何とか逃れて命をつなぐ日々を送る為体だった‥。

重助は止む無く、主人が過ごした清水寺成就院への帰路を採り京都を目指したのだったが、京都で幕府の役人に捕縛され、京都・六角の牢獄へブチ込まれて臭いメシを食うハメになる。

幕府は入水した月照の死体が見つからないことから、連日のように重助を拷問にかけ、月照が本当に死んだのかを問い詰めた‥。




やがて月照の死体が上がったこともあり、翌・1859年(安政6年)5月になって重助は釈放されることになる。

⬆️噂の噂の月照上人の尊像

釈放された後、丹波高津の自宅へ帰った重助であったが、妻子ともども政治犯という冷ややかな目で見られ、世間の目は冷たかった。

話はそれだけに留まらず、妻と離縁する運びと相成り、妻の実家からわずかな手切れ金を握らされたのだった。

その後重助は成就院へ戻り、妻の手切れ金を元手に「笹屋」という粗末な茶屋を買い取って主人の菩提を供養する傍ら、茶屋を開いた。

1864年、奇跡的に一命をとりとめた西郷隆盛と数年ぶりに会う機会に恵まれると、後任の清水寺(成就院)住職となっていた園部忍慶師(月照&信海の弟子)は、西郷隆盛の仲介もあり、重助とその子孫・遺族の生計のために茶屋の営業権利を保証した。

重助は1874年(明治7年)、月照上人の十七回忌が鹿児島で行われた折、鹿児島へ足を運び主人の供養を行なってい‥‥‥申す。ガフェっ

その際、官職を辞し下野して私学校で子弟の教育に勤しんでいた西郷より、月照の死を悼む漢詩を託され、成就院へ持ち帰った。

その漢詩は現在、かつての成就院の正門となる北総門をくぐった先に佇む月照上人の歌碑の裏側に陰刻されてい‥‥‥申す。グヒャォっ

その後の重助は茶屋を切り盛りしながら清水寺を護持し、主人(月照)の墓守する日々を送りながら生涯を閉じたと云われる。

重助が開いた茶屋についての詳細は下記ページを参照💘

大槻重助の石碑の場所(地図)

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