産寧坂(三年坂)の地下を流れる「轟川」の歴史や名前の由来‥‥んんっ⁉️

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かつて産寧坂(三年坂)の下には「轟川」という川が流れてい‥‥申した。

しかし現在の三年坂には川の姿形すら見えんせん。

ではいったぃイズコへ〜〜‥‥‥♪

⬆️三年坂の案内板の下には写真のようなジオラマが作られている。

轟川はドコにある?「轟川の歴史」

三年坂には昭和時代まで「轟川(とどろきがわ)」という人々に愛され続けた川があった。

しかし、現在の三年坂には川が見えないが、それもそのハズ。

実は1961年(昭和36年)に三年坂の階段の石段の整備が実施された折、下水道の整備も並行して行われた。

この石畳の交換工事には経緯があり、1961年(昭和36年)8月1日、京都市電の京都市電北野線(京都市電堀川線)が廃止されることが決定し、66年の歴史に幕を閉じた。

市電廃止に伴い線路下の石畳も撤去されることになったのだが、人々の暮らしを支え続けた市電に使用された石畳とだけあって形状が整えられ、尚且つ、頑強さもそなわっていたことから、京都内の諸所で再利用される話でまとまった。

その中の1つに三年坂の名前が挙がり、旧来の三年坂の石畳と交換して再利用されることが決定した。

いよいよ石畳の交換工事に際した折、どうせならということで、かつて三年坂に流れていた轟川の暗渠化工事(地下へ潜らせる)も実施されることになる。

この時に轟川は地下へと流路が変更され、現在は人々が行き交ぅ路地下を流下する。

⬆️写真内のドブ(側溝)の鉄網(グレーチング)の下に轟川が流れている

轟川を地下へと潜らせた場所は「轟小路」と呼ばれる道になっていて、この通りを進んだ先には現在でも轟川の川水が見られる箇所(ドブ)がある。

⬆️三年坂石階段下から脇道(通路)が延びる。この通路こそがかつての轟川跡だと云われる。

⬆️チューブわさびを全部吸い込んで溢れ出てきた滝涙の量と気絶具合ほど噂の‥「轟小路」




轟小路に残る「轟川跡」

 

 

江戸時代の三年坂を流れる轟川と轟橋の様子

⬆️絵図の下部に橋が見えるだろぅか?これが往時の轟橋の姿。

この絵図は「拾遺都名所図会(しゅういみやこめいしょずえ) 巻之二」と呼ばれる1787年(天明7年/江戸時代)に描かれたもの。

この絵図を見れば往時の轟川がドコにあって、どのような流路をしていたのか?

‥‥‥といったことが分かる。

轟橋

また、かつて轟川に架橋されて橋も下水道整備と並行して撤去されたが、この橋に取り付けられていた欄干(らんかん/手すり)の跡が轟小路やその先の八坂の塔付近に現存してい‥‥‥申す。ディギュァョヘっ

 

「轟川」の名前の由来

かつて京都・平安京を造営する際、発願者である桓武天皇(かんむてんのう)は古代中国で用いられた「四神(しじん)」の発想を採り入れたと云われる。

四神とは、玄武(北)・白虎(西)・朱雀(南)・青龍(東)‥‥という都を守護する霊獣のこと。

都の「朱雀大路通」や「朱雀門」というのは、この四神の発想から由来がきている。

都を上空から俯瞰すると清水寺や三年坂は東端に位置するのだが、ある時、この轟川から青龍が飛び出し、轟音を響かせながら大空の彼方へ消えていったといぅ奇譚がある。

この一件以後、この川は轟川と呼ばれるようになったと云われる。




轟川の水源と流路

古来、轟川の水源は清水寺後方にそびえる音羽山だと伝えられてい‥‥‥申す。ギャホェっ ”ギャホェっ”使用回数多いな。減らさんとアカン  ..なんの話や

そこから清水寺境内の音羽の滝を経て、轟門仁王門を向かい見て左奥にある成就院の庭園の池に流れ込み、大講堂の裏→三年坂へと流れてきている。

音羽山→ 轟門前→ 成就院(清水寺)庭園の池→大講堂の裏→ 三年坂

⬆️

なお、大講堂の裏側は古来、変わらずに成就院の庭園池からの轟川が流れ込み、楓が生い茂渓谷になっていおり、「紅葉谷」と呼ばれてい‥‥‥申す。パキャっ

音羽山とは?

音羽山(おとわやま)とは、清水寺の後方にそびえる標高242.3mの山のこと。「清水山」の別名を持つ。

清水寺境内へ流れ込む音羽の滝は、この音羽山の名前にちなむ。

付近にも音羽山がある

京都府京都市山科区と滋賀県大津市の府県境にも音羽山と呼ばれる山があってややこしぃ。

また、下掲のGoogleマップを見れば分かるが、山科の音羽山山中にも音羽の滝があることが分かる。

実は音羽の滝も清水寺にだけあるのではなく、同名の滝が京都に三ヶ所もあって、残りの1カ所は京都市左京区・比叡山西中腹を流れる音羽川にある。

ただし、現在は石積堰堤(えんてい)工事により往時の姿をとどめていない。

「下河原」の名前の由来にもなっている

清水山(音羽山)の北側に位置する「高台寺山」には「菊渓川(きくたにがわ)」という川が存在するが、音羽山から流れ込む轟川とが合流する地点には砂礫地ができた。

それゆえ、その一帯の地名は「下河原」と呼ばれるようになった。

菊渓川の場所

往時の菊渓川は高台寺山から高台寺境内の北側を西へ流れ、円徳院などの塔頭群と町家貸地の境界を南北に流れ、轟川と合流した。

合流後もさらに西へ流れ、建仁寺境内を通って鴨川に注いでいた。

出典:土木図書館

今は轟川と同様、そのほとんどが暗渠化されているため、地元でも下河原をはじめとした界隈に川があったことは知られていなぅぃ。

現在、菊渓川は高台寺の向かいにある料亭「菊乃井」の従業員駐車場付近でわずかに見られるのみで、轟川同様にほぼ暗渠化している。

往時は氾濫を起こすほど水流があったとのことだが、現在はシャ〜シャシャシャシャシャっ♬ チぅぃ〜ョロ‥チョロチョロ‥ペぅェロ💋💕ペぅェロ💋💕‥‥状態。どんな状態や




轟川に伝わる故事・伝説

三年坂は浅井了意の狂歌でも詠まれた

浅井了意(あさいりょうい)とは、江戸時代末期の著名な仮名草子(かなそうし)の作家で、晩年、京都二条の本性寺(ほんしょうじ)の住職になった折、「昭儀坊了意」と名乗った人物。

浅井了意は、かつてこの三年坂付近にあった轟橋を見て以下のような句を残してい‥‥‥申す。ギョヘィグガァァっ

われは今日、三年坂でつまづきて死ぬか、胸は轟の橋

意味

今日、私は轟橋を通りながら余生について思いふけっていたところ、その先の三年坂で転んでしまった。(三年坂で転ぶと三年以内に死ぬというジンクスのこと)

しかし三年で死ぬと考えたら、与えられた精一杯の生に興じ、悩んでいた自分がバカらしく思えた。

一寸法師

一寸法師お守り

あまり知られていないが、実は一寸法師が碗に乗って流れてきた川こそ「轟川」と云われ、その後、松原橋→六道珍皇寺→八坂の塔前→三年坂(産寧坂)→清水寺へと至ったと伝わる。

一寸法師についての詳細は下記ページにて。

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