清水寺の境内の西側にある「六花亭」と言うお茶屋。
みたらし団子や、わらび餅、「ところてん」などが評判で、とても人気があるのだが、その右側にはかつて「毛朱一竹塚(もうしゅいちちくつか)」と言う謎に満ちた塚があったそうな。
別名で「鵺(ぬえ)の塚」とも呼ばれ、「源平盛衰記」や「閑田次筆」などの旧記によれば、ここに「鵺の遺骸」が埋められていたらっしぅぃ〜。ヌエっ(”ヌエ”だけに)
ところで・・「鵺」とは?
鵺とは古来、日本に伝承される妖怪のこと。
その姿には諸説あるものの特徴を挙げると次の通り。
- 顔は猿
- 胴体はタヌキ
- 手足は虎
- 尾っぽは蛇
‥‥‥などなど、およそ何種もの動物が合わさっているような複雑な事情を抱えた妖怪といえる。…複雑な事情? どんな事情や
【補足】源平盛衰記に記される鵺の姿
鎌倉時代中期から南北朝期に成立した平家物語の異本の1つである「源平盛衰記(げんぺいせいすいき/作者は不明)」にも次のような鵺の姿が記されてい‥‥‥申す。ヌエっ(さっきの”ヌエっと”はまた違う”ヌエっ”)
- 顔は猿
- 背中は虎
- 足はタヌキ
- 尾っぽはキツネ
鵺と京都・清水寺との想像を絶する過去
これは平安時代末期のお話。
当代の天皇である二条天皇の住む場所は京都御所の中の「清涼殿」と呼ばれる建物だった。
実は、この清涼殿は毎晩、黒煙に包まれ、その黒煙の中から不気味な鳴き声が周囲に響き渡っていたそうな。
その清涼殿で暮らす二条天皇は、この不気味で少しセクシぅぃ~💕な鳴き声に悩殺されてしまい、病気になって伏せってしまいました。ホンマかぃ ..悩殺されたぃ💋
そこで天皇は弓の達人として知られた源頼政にこの怪物退治を下命し、頼政は家来の猪早太(いの はやた)を随伴して清涼殿へと赴く。
清涼殿に到着した頼政は、さっそうと黒煙の中に入るが、突如、上空に怪物が現れ、頼政に襲いかかってきた。
だグぁしクぁし!
歴戦のツワモノ(兵)だった頼政は物怖じせず、武神として天下にその名が聞こえた源頼光より代々受け継がれる弓矢を引きつがえ、矢を放った。
頼政が放った矢は見事に鵺へ命中し、鵺は悲鳴をあげるとともに急に全身の力が抜けたように清涼殿へ急落下し、猪早太は落ちてくる鵺を見ながら走り込み、鵺にトドメを刺すことに成功する。
鵺の死骸は現在の六花亭付近(清水寺境内)へ埋められ、その上には塚が築かれた。
現今の六花亭周辺は、平穏に満ちた落ち着いた場所ではあるが、かつてはこんなにも恐ろしいものが埋められていたということを考えるだけでもゾッとす‥‥るの❓ どっちや
トドメを刺された鵺のその後
なお、猪早太にトドメを刺された鵺のその後については諸説あり、たとえば‥‥
- 祟り(タタり)を恐れて鵺の遺骸を鴨川に流した。
- 鵺の死霊が馬となり、源頼政に飼われていた。
- 塚を三年坂に築いて鵺を葬った(三年坂の途中にも毛朱一竹塚があったとされる)
などが語り継がれてい‥‥‥申す。きゃ
⬆️新形三十六怪撰「猪早太と鵺(月岡芳年画)」※ウィキペディアよりttps://ja.wikipedia.org/
京都・清水寺の鵺の正体は源頼政の母親だった⁉️
愛媛県の「久万高原町(くまこうげん まち)」では、鵺の正体が鵺を射落とした源頼政の母親であるといぅ嘘のような言い伝えがある。
なんでも、当時、愛媛県に隠れ住んでいたとされる源頼政の母親は、愛息・頼政の武運長久と衰微した源氏再興を日々、龍神に祈願していたいたそうな。
だグぁしクぁし!
頼政への思いと平家への溢れ出る憎悪が、頼政母の身体をむしばみ、やがて鵺へと変化させた。
‥‥という話。
その後、頼政母が変化した鵺がどぅなったかは、これまでで語ったとおり。
ハッキリとしない人は鵺と呼ばれる?
正体そのものも謎で、トドメを刺された後のエピソードについても謎まみれの鵺。
今では正体がつかめなかったり、不思議チャン系なハッキリしない人のことを「鵺」と呼ぶこともあるそぅなのだが、鵺の起源とは、まさにこのようなことが由来になっているとも考えられる。
「和漢三才図絵」に記される鵺の正体とは?
江戸時代に編纂された「和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)」では、驚くことになんとぉぅ!「鵺」と書いて「野鳥」のことだと紹介してい‥‥‥申す。チュンっ(野鳥だけに)
具体的にはヒタキ科のトラツグミで体長約30㎝のカラス並みのガタイを誇り、村里にほど近い森林地帯に生息すると書き記す。
トラツグミは特に京都府で見られる機会の多い鳥とされ、季節を選ばず年間を通して散見されることから、特に珍鳥の類にはされていない。
餌は落ち葉の下のミミズや昆虫を啄ばんで採餌する。春から夏に繁殖期を迎えるのだが、この間、薄気味悪い声で夜〜早朝にかけてさえずる。
トラツグミの鳴き声
※動画と画像は日本野鳥の会・京都支部より
‥確かに薄気味悪ぃ。夜にこの声を聞いたら、もぅ恐怖のあまりラリっちまって朝までハッピーになりそぅだぜぃ!ヒャッホ〜!イェぇぇ〜イ! ”ラリっちまぅ”のは君だけや
‥‥こホンっ!
とまぁ、以上のように源頼政が弓で射たのは、野鳥の鵺だったのではないかとも考えられてい‥‥‥申す。ツグミャっ(ツグミだけに)
三年坂に伝わる鵺に関する奇譚
この話は「平家物語(長門本)」にも記されているものになるが‥‥、平安末期のこと。
清水寺に参籠(千日参詣)していた平清盛はある日の深夜、ウトウトと夢まで見るほどに居眠りをこいちまったが、翌日、今まで見たこともない摩訶不思議な夢だったことから、陰陽師へ相談したところ卜占により夢は吉兆とされた。
その7日後の夜、内裏の宿直として警護にあたっていた清盛のもとへ、突如、未知の鳥が飛来し、暗闇を舞ぃ飛んで清盛に襲いかかって来た。
清盛は、上空から急襲されたため体制を崩したが、激戦の末にその鳥をなんとか捕獲する事が出来た。
そして、すぐさま評定衆を呼び集めて捕らえた鳥を見せたところ、どうやら「毛朱(もうしゅ)」と呼ばれる獣であることが分かった。(源平盛衰記には「一竹」という名前の妖怪であるとしている)
「毛朱」の意味
「毛朱」を辞書で調べると「毛朱 」と書いて「モミ」と呼ぶ事が分かった。また、妖怪ではなく「動物」とも記載される。
齧歯目の獣でムササビに似ており、モモンガの別称とも記される。(江戸時代の儒学者・朝川善庵によると毛朱はモモンガの誤記であるとする。)または「毛朱(もうしゅ)」とも呼ばれ、年老いたネズミを指すとも。
この話には続きがあって、夜が明けた翌日、陰陽寮の陰陽博士にも見せたところ、垂仁天皇(第十一代天皇)三年の2月2日にも毛朱が現れ、警護の者たちは捕獲しようしたが、力及ばずこれを取り逃がしてしまい、その後、天下は21年にわたる飢饉や兵乱に見舞われたという話を聞かされた。
また、その先例を顧みれば、先日、毛朱を捕獲できたのは実に喜ばしいことであり、逆に吉兆だとも告げられた。
そして、清盛は後日、陰陽師に言われたとおりに毛朱を竹筒にブチ入れて三年坂の途中に塚(土を盛り付けた墓)を築いて、その下に埋納した。
しばらくして、清盛は安芸守に任ぜられる幸運に見舞われ、既知のとおり、一族郎党、大いに繁栄を極めた。
やがてこの話を耳にした時の天皇たちも、自身が病気になった際、勅使を塚へ参向させて、病塚の前で病気平癒の祭祀を執り行わせたそうな。
毛朱一竹塚
この清盛が建てた塚は後世にて「毛朱一竹塚」と呼ばれるようになり、大正時代まで三年坂の途中に実在したらしい。
つまりのところ、清水寺境内に塚が築かれた説と三年坂に塚が築かれたといぅ、2つの説が存在することになるのだが、そもそもこの毛朱一竹塚の話の出どころは「坂の者」と呼ばれた人々が語り継いだとされる根拠のない噂話とされる。
「坂の者」とは?
「坂の者」とは死骸を運んだり、都や寺社の清掃の役を担った者のこと。
一説には祇園社(八坂神社)の下級神官と云われ、京都中で死人がでればその死骸を清水寺付近にあった鳥辺野(とりべの)という埋葬地へ葬送したと伝わる。
「坂の者」については詳細は下記ページを要チェックや💘
江戸後期の随筆集「閑田次筆」にも記されている
伴蒿蹊(ばん こうけい)が著した江戸後期の随筆集「閑田次筆(かんでんじひつ)」によると、寛政初頭(1789~1801年/江戸時代後期)に清水寺の六坊(支院)が修繕されることになり、門前の通りの土を掘り返したそうな。
すると、地中から石棺のようなものが見つかった‥‥のだが!
ほどなくして石棺を掘った者や、寺の僧侶たち、そしてその修繕を計画した者たちまでもが、次々と原因不明の病を患い、次々とおっ死んだそうな。
その後、奉行所によってただちに調査が開始されると、既述の源平盛衰記に記された故事奇譚が浮上し、急ぎ祠を築いて二度と石棺を堀り起こさせないように地中深くに埋納したそうな。
どうやら清盛が築いた塚は星霜経ながら人々の記憶から忘れ去られ、鵺の話など半ば伝説と化していたことになる。
ただ‥‥地中深くに埋納したという事は、まだ清水寺境内の地中深くに鵺の死骸が納められた竹筒が埋まっている事になる。
皆の衆!くれぐれも清水寺の六花亭付近で竹筒を見つけたら‥‥要注意YO💋
清水寺境内・周辺の観光スポット一覧
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