ちょぃと轟門を通る時にそのまま間口を通行するのではなく、その手前にある手水鉢の前で立ち止まって、まぁとりあえずは手でも洗っていただきたぃ。
この手水鉢は「梟の手水鉢」と呼ばれる清水寺の七不思議にも数えられるような、ちょぃとした由緒のあるものだが、その左側には屋根と柱だけの建物見える。
⬆️写真中央の轟門の手前に柱が2本、瓦屋根の建物が見えるだろぅか?
⬆️石柱に『天保十一年(1840年) 子庚 二月 造立』の刻銘が見える。
この建物、ほとんどの人は特に意識しないのか目もくれず、そのまま轟門へ向かってしまぅのだが、実はちょっとした由緒があって現今、清水寺の七不思議の1つに数えられてい‥‥‥申す。スルメ ハ ヨッチャンっ
轟門の前の屋根と柱だけの謎の建物の正体とは?
この建物の正体とは‥なんとぉぅ!『江戸時代の手布巾掛け』。現代風に言うとハンカチ掛けや、タオル掛けといった方が伝わりやすい。
手順としては先に自らが愛用する手ぬぐいをこの物体へ掛けておき、洗い終わるとあらかじめ掛けておいた手ぬぐいで手を拭く。
これ現代の手水舎でもぜひ、見習って設置して欲しいのだが、今の手水舎にはこのようなタオルを掛けるような場所がないので、ハンカチを口でくわえ込みながら手を洗う‥‥‥でもこれだと口がすすげ無い。
でもハンカチを口にくわえなければ、洗い終わった直後の濡れたお手ぇ手ぇでズボンのポケットをまさぐって、ハンカチを取り出さなければならぬぅぁぃので、ズボンが濡れちまぅ。
そんな時にこういぅ一時的に吊るしておける場所があれば便利‥‥‥なのだが、置いたらおいたでまた色々と別の問題が出てくるんだろぅねぇ‥‥。
なお、現在のこの手布巾掛けには、あったであろぅハズの掛けるための棒材が撤去されていて、本当に何の目的でこの場所にあるのかが分からない状況になっている。
⬆️正面から見た手布巾掛け。おそらく往時は柱上部に見える肘木。もしくは双方の柱の間に棒のようなものが通されていたハズ。
手布巾掛けが作られたのはいつ?
この手布巾掛けが奉納されたのは、1840年(天保11年)とされる。奉納者は増田氏と栂尾氏という敬虔な信者によるもの。
江戸時代でもハンカチやタオルのようなものを常時携帯していた?
実は江戸時代になると綿花の栽培方法が確立し、木綿の織物とともに普及した。
特に1642年(寛永19年)を初例とした贅沢を禁止する「奢侈禁止令」が発令されると、高価で希少な絹(シルク)の使用ができなくなり、一方で銭湯の一般化が著しくなるにつれ、身体を拭くために欠かせ無い木綿の需要率が急速に増した。
ハギレ(あまり布)もちょっとしたモノを拭き取るために活用されはじめると、やがて庶民層の間で「手ぬぐい」という言葉が用いられるようになり、これが定着していった。
このような手ぬぐいを用いる文化が広まると、銭湯のみで使用する「湯手(ゆて)」などと呼ばれた手ぬぐいも登場するなど、より一層、生活する上で欠かすことのできなぃ庶民にとっては身近な存在になっていった。
以上、おそらく他の寺社ではなかなかお目にかけることのできなぃ、手布巾掛けが置かれた背景や、その理由を述べてみた。
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