京都・清水寺「朝倉堂」【重要文化財】【洛陽三十三所観音霊場第13番札所】

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京都・清水寺「朝倉堂」【重要文化財】【洛陽三十三所観音霊場第13番札所】

創建年

  • 1510年(永正7年/室町時代)
再建年

  • 1633年(寛永10年)
  • 2013年(平成25年)
建築様式(造り)

  • 入母屋造
  • 全面白木造
  • 一重
大きさ

  • 桁行五間(奥行:約13.5m)
  • 梁間三間(横幅:約7.6m)
屋根の造り

  • 本瓦葺
重要文化財指定年月日

  • 1966年(昭和41年)6月11日
御本尊

  • 十一面千手千眼観音菩薩像
脇侍

  • 毘沙門天像
  • 地蔵菩薩像
発願者(寄進者)

  • 朝倉貞景(越前国守護大名)

清水寺・朝倉堂の読み方

朝倉堂は「あらくらどう」と読みます。

「朝倉堂」の名前の由来

「朝倉堂」の名前の由来は越前の戦国大名である「朝倉貞景(あさくらさだかげ)」に因んむもの。オホっ

清水寺・朝倉堂の歴史

応仁の乱後の1510年(永正7年)当時、復興中であった清水寺へ、越前(現在の福井県の一部)の大名・朝倉貞景が多額の金銭の奉納を行っています。

その金銭をもとに朝倉堂はの前身となる「法華三昧堂(ほっけざんまいどう)」が造営される。

「法華三昧」とは、読誦・三昧(一心不乱に経を読み上げる)の上、懺悔滅罪し、現し身(うつしみ)のままに菩薩の位に入ることを祈念ながら勤修する行法のことをいう。

朝倉貞景とは?

朝倉貞景とは、戦乱続きでまとまりがなかった越前国を1つにして、朝倉氏繁栄の礎を築いた人物です。

父親を早くに亡くしてわずか13歳か14歳で9代当主に着任し、着任した時から頭角をあらわし家臣団をまとめ上げ、越前を平定しています。

朝倉貞景は中世最大の清水寺のパトロンだった!

貞景は清水観音の信奉者だった人物で、応仁・文明の乱にて京の都から逃げ落ちた公家や名僧を庇護し、清水寺へも多額の奉納している。また金子以外でも、清水寺境内に法華三昧堂を造営している。

そのほか、自国領においては越前国の「一乗谷(いちのたに)」に建つ寺院へも、多額の金銭を奉納し、造営・再建を行っている。




朝倉貞景が清水寺へ寄進した金額とは?

上述した朝倉貞景が清水寺へ奉納した金銭とは、いったいいくらぐらいだったのか?お分かりになりますかぃ?

ぬぅあんと!約3800貫文(推定:約3億8000万円~4億5000万円ほど)だと云われまする。

この金額は1510年(永正7年)当時、清水寺へ奉納された金額の総計の約半分にあたる。

当時、清水寺へ奉納された金額と用材

  • 金子:6535貫文
  • 材木:362本
朝倉貞景が清水寺へ多額の金銭を奉納した理由

  • 仏道への信仰心の篤さ
  • 貞景の人徳
  • 清水寺の「勧進聖(かんじんひじり)」であった「時宗の僧侶・願阿弥(がんあみ)」による「浄財集め」の働きかけがあった
  • 貞景の父親や叔父などが応仁の乱へ加担しており、清水寺を全焼させてしまったことへの申し訳なさからの謝罪の意味

また、これ以外にも「父・朝倉氏景」と共に、清水寺本堂の柱の用材約50本、自らの「息子・朝倉孝景」と共に用材25本を寄進している。

平成時代には大改修が実施される!

この朝倉堂は、数十年に一度の規模とも云われる平成の大改修にて復原工事など大掛かりな工事が施工されてい‥‥‥申す。クポっ …ん?これは‥FFか?

例えば、軸部を残した半解体修理が行われ、軒先の乱れを整え、傾きをなおし、建具などの修復。

工事期間

2010年(平成22年)3月~2013年(平成25年)8月

工事内容:「半解体修理」

  • 後世の改造部分の痕跡をもとに以前の姿に戻す修理(復原補修)
  • 耐震性を向上させるために建築構造全体の見直し・補強

清水寺・朝倉堂の建築様式(造り)

朝倉堂は、本堂の手前に隣接する形で造営されています。

現在の朝倉堂の姿は1629年(寛永6年)に再建された時の姿だが、下掲の参詣曼荼羅図を見るかぎり、朝倉貞景が建てた当初の堂をある程度、踏襲して建てたことが分かる。

堂の四辺には蔀戸(しとみど)を据え、柱はすべて円柱、軒下には出組を用いるなど和様と禅宗様を採り入れた様式がうかがえる。

貞景の頃は朱塗りに白漆喰の壁が張られていたが、現在の朝倉堂は黒を基調とし、組物の木口(外面)に白色で塗装を施すなど、黒と白のコントラストが映える重厚かつ落ち着いた佇まいを見せている。

この堂が特徴的なのは観音開きの折れ戸が正面を除いた左右後部に据え付けられているという点。

後部に扉を据える例は、日光の本宮神社や滝尾神社で山を御神体として遥拝する目的で取り付けられたというものがあるが、この堂に関しては判然としない。

朝倉堂の部材には樹齢100年以上の高級木材が使用されていた!

また朝倉堂の2013年(平成25年)の再建では、樹齢が100年以上の巨木が使用されていたことが明らかにされています。

現在でも樹齢100年以上の巨木を入手するのは困難を伴うことから、寛永の大造営とはまさに幕府の威信をかけた大事業であった背景がうかがえる。

この当時、樹齢100年以上の巨木がたやすく手に入る場所といえば、全国広しといえどまず名前が上がるのが木曽‥‥。はてさて。

扁額「補陀殿」

堂舎中央の出入り口部分上部には「補陀殿」と揮毫された横額が掲げられています。

これは「補陀落山(ふだらくさん)」にあるとされる「観音菩薩が座する宝殿」という意味合いが込められた扁額であると伝えられています。

朝倉堂が古来、仏教における道場であることを知らしめる横額とも言えます。

ちなみに補陀落山とは、インドの遥か南の海上にあるとされる天を貫くほどの高い山のことで、観音菩薩が住むとされる神聖な山のことです。




えぇっ?!朝倉堂にも舞台があった?!

清水寺に伝わる「清水寺参詣曼荼羅」によれば、往時の朝倉堂(法華三昧堂)には、なんとぉぅっ!本堂と同様の懸造り(かけづくり)の舞台が存在していたと云われる。

「清水寺参詣曼荼羅」とは、室町時代に流行した絵図のことであり、応仁の乱後の1548年(天文17年/室町時代)に清水寺が再建された時の伽藍の様子が描かれている。

⬆️噂の朝倉堂に付属していたとされる舞台

上掲、曼荼羅の画像を見れば手前に見えるのはこれは現在の轟門とそこから本堂へ伸びる廊下。クソ坊主が友達のお誕生日会に持っていくようなケーキを大事そぅに両手で持っている。

なお、クソ坊主とは少し失言だったが、それにしても思わず下から突き上げて落としたくなる。‥‥おっと。

この舞台の左上に見える階段のようなものは地主権現(現在の地主神社)だろぅ。その地主神社が建つ丘の西南の傾斜面に本堂に倣い、本堂を縮小する形で舞台が建てられている。

内部の様式も本堂に倣い、左右最上手を挙げ小さな化仏を頂戴した清水型十一面千手観音像を本尊とし、左右の脇侍に地蔵菩薩、毘沙門天を奉斎していた。

また、貞景の命日には追善法要が催されたとのこと。オホっ

1692年に焼失す

1692年(寛永6年/江戸時代)に発生した大火事にて清水寺境内は灰燼に帰し、この時に法華三昧堂(朝倉堂)も焼失してい‥‥‥申す。ガヒャっ

翌年、焼け跡整地が行われた際、現在見られるような平地へと整地され、平屋建ての建造物として再建された。

建造当初は朱塗りだった

この朝倉堂は創建当初は朱塗りだったようだが、再建後は彩色を施さない「素木造り」へと改められている。

清水寺・朝倉堂の内部

朝倉堂の内部は通常一般非公開だが、内部の正面中央後方には来迎柱(らいごうはしら)を立て、その前に須弥壇を設け、その上に重要文化財指定にもなっている板葺き宝形造りの唐様の厨子(ずし/主に仏像を収めておく入れ物)を置いている。

柱上には出組を用い、天井は格式高い折り上げ小組み格天井を据える。

須弥壇のある中央分は他よりも一段高くして、同様に折り上げ小組み格天井を据える。

天井全体は二重の折り上げ小組み格天井が張られている。

唐様厨子【重要文化財】

上述の御本尊「十一面千手千眼観音菩薩像」と脇侍の2尊「毘沙門天像」「地蔵菩薩像」は方形造りの唐様(からよう/禅宗様)の厨子の中に安置されています。

この唐様厨子は重要文化財に指定されている。

京都・清水寺「朝倉堂の御本尊および脇侍」

御本尊

「十一面千手千眼観音菩薩像」

脇侍の2尊

毘沙門天像

地蔵菩薩像

朝倉堂の御本尊が成就院の御本尊?!

上述した1629年(寛永6年)の大火事にて朝倉堂は焼亡し、翌年、焼け跡整地が行われた際、石函(せっかん)が出土している。

この石函の中から約22㎝(約7寸)の金色の清水型千手観音像が見つかり、以来、現今に至るまで成就院の本尊として成就院内部の持仏堂に奉安されている。

えぇっ?!朝倉堂には絶対秘仏の仏像が安置されている?

この朝倉堂には秘仏(一般公開されていない仏像)が奉安されており、その仏像というのが「文殊菩薩騎獅像(もんじゅぼさつきしぞう)」と呼ばれる像で、もとは地主神社の本地仏として地主神社の本殿にて祀られていた仏像とされる。

しかし、明治初期の神仏分離令によって地主神社が清水寺の所属から抜けて独立すると、再び清水寺に戻されることになり、現在はこの朝倉堂に安置されてい‥‥‥申す。ガギャっ

他には廃仏毀釈の騒乱の中で廃絶した支院などで奉斎されていた諸仏像や、西国三十三所観音像が安置される。

法成寺の奪衣姥像

清水寺境外に建つ「経書堂(きょうかくどう)」の向かいには、清水寺・成就院の子院であり、愛染明王を祀る「法成寺」が建っていた。

この法成寺境内の姥堂(うばどう)には、三途の川で死者の衣服を計量し、罪の重さを閻魔大王に報告する「奪衣姥(だつえば)」の尊像が安置されており、現在は朝倉堂へ移され堂内にて安置されてい‥‥‥申す。ギャホェっ

この老婆像は実に怪異な姿で造立されており、浮気後の嫁の形相よりも醜悪・恐ろしさを醸した鬼婆の姿で勧善微悪・往生極楽を教訓とする。

なお、法成寺は残念ながら明治時代に廃院となっている。




清水寺・朝倉堂の見どころ

仏足石(弁慶の足跡・景清の足跡)

朝倉堂の東側には「仏足石(ぶっそくせき)」と呼ばれる扇型をした石コロころころドコいった‥‥があり、清水寺のおける観光スポットともなっています。

えぇっ?!京都・清水寺には「仏足石」という仏様の足跡が本当にあった!?

  • 高さ約75㎝
  • 横幅約110㎝
  • 削られた断面に彫り込まれた足形(2ちゅ)の大きさ:丈52㎝

ご利益としては、なんでも拝むことにより、過去未来現在の罪障がことごとく消除されると云われる。

「仏の足の石」ですから、もともとはお釈迦さまの足跡を刻印した石なのですが、実は清水寺の仏足石について以下のような2つの言い伝えが残されています。

【その1】平景清(悪七兵衛)の足形(足跡)説

源平合戦で平氏の侍大将として活躍した「平景清(たいらのかげきよ)」にちなみ、いつからか「景清の足形」と呼ばれるようになりました。

景清と仏足石との繋がりとは、ご存知の通り源平合戦において平氏は源氏に負けてしまうことになります。

その結果、源氏が台頭する時代が到来することになり、平氏一門は散り散りとなります。

以降、生き残った平氏一門は身を潜めて再起を図ることになり、隙を見計らっては源氏一門の暗殺を企てたりしていました。

上記の景清もそのうちの1人で、景清にまつわる有名な話では清水寺や東大寺での話があります。

源氏の総大将・源頼朝は崇仏思想の持ち主で寺社へ度々、詣っては多額の資金援助をおこなっていたことで知られています。

頼朝は、この清水寺をはじめ奈良の東大寺にも参拝に訪れますが、そのことを知った景清は境内の門などに身を潜めて暗殺を企てたと云われています。

また、景清は平家一門の中でも勇猛果敢な武将として知られていることから、さぞかし見事な健脚の持ち主だったのでしょう。

そんなことから、この石を撫でた手で自分の足腰を撫でると足の病気や傷の治りが早くなるという噂が広まりました。

以後、その噂を信じて参拝に訪れた多くの人々が数百年に渡って撫で(なで)続けたおかげで、足跡に刻まれていた模様は今やほとんど見えなくなっています。

弁慶の足形(足跡)説

また、この仏足石は「弁慶の足形(べんけいのあしあと)」とも呼ばれています。

弁慶と言えば五条橋の刀狩りで有名な武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)であり、源氏の武将で有名な源義経の忠実な家臣でもあります。

しかし忠実な家臣になる前は、既にご存知かもしれませんがお互い敵同士として命を取り合った者同士です。

実は清水寺の寺伝によれば、この清水寺の舞台でも2人は命をかけて決戦をしたと言う説があり、最後には義経が勝利を手にして弁慶を降伏させたようです。

以上のようなことから、決戦の時の床に残った弁慶の足跡を足形にしたものだとも言い伝えられています。




京都・清水寺「朝倉堂」の御朱印

この朝倉堂にも御朱印があります。

中央に大きく「大悲閣」と墨書きされた御朱印になります。

  • 御朱印授与場所:境内の舞台裏の納経所(地主神社の入り口近く)
  • 御朱印の値段:300円

清水寺の御朱印の全種類に関しては当サイトの以下のページにてご紹介しております。

関連記事: 【期間限定の御朱印ふくむ】京都・ 清水寺の御朱印の「種類・値段(料金)・場所」

清水寺・朝倉堂の場所(地図)

清水寺の朝倉堂は仁王門から進み入り、境内の本殿の隣接する形で前方に位置し、田村堂の後方になります。

清水寺境内・周辺の観光スポット一覧

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