京都・清水寺「本堂」【世界文化遺産】【国宝】【西国三十三所観音霊場第十六番札所】【洛陽三十三所観音霊場第十二番札所】

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京都・清水寺「本堂」【世界文化遺産】【国宝】【西国三十三所観音霊場第十六番札所】【洛陽三十三所観音霊場第十二番札所】

 

創建年

不明
推定:798年(延暦17年)

再建年

1482年(文明14年)
1633年(寛永10年/江戸時代)
2017年(平成28年)※屋根葺き替え

大きさ

  • 本堂
    桁行(奥行き):九間(約16m)
    梁間(横幅):七間(約12.6m)
  • 全体(裳階・翼廊含める)
    正面約36m
    側面約30m
    棟高18m
建築様式(造り)

  • 一重・入母屋造・妻入※左右、翼廊
  • 本堂:寄棟造り
  • 舞台:懸造り(舞台造り)
  • 内陣左右(東西)・局:裳階(もこし)付
  • 正面:左右(東西)両翼廊付

※庇(ひさし)付き

屋根の造り

  • 総檜皮葺
清水寺 舞台の柱の数・素材・広さなど

  • 6本柱・懸造り(かけづくり)
  • 柱の数:約78本(舞台)全体172本
  • 柱の長さ:約12m
  • 柱の直径:約80cmから2メートル
  • 柱の形:平面十六角形
  • 材質(舞台):ヒノキ(約420枚)
  • 材質(柱):ケヤキ(樹齢約400年)
  • 面積:約190㎡(1辺・約19m)
御本尊

清水型千手観音像

脇侍

地蔵菩薩(現世を釈迦に成り代わり見守る菩薩さま)
毘沙門天(二十八部衆の一尊・七福神の一尊)

重要文化財指定年月日

1897年(明治30年)12月28日

国宝指定年月日

1952年(昭和27年)11月22日

世界文化遺産登録年月日

1994年(平成6年)12月17日

発願者

坂上田村麻呂※創建
賢心※創建
徳川家光※再建

清水寺・本堂の読み方

清水寺の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前の仏像や堂舎が存在しますが、本堂はそのまま「ほんどう」と読みます。

京都・清水寺「本堂」の歴史・由来

清水寺の本堂は寺伝によると、798年(延暦17年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、自らの邸宅を賢心へ寄進し、さらに金色の十一面千手観音像と脇侍となる地蔵菩薩像、毘沙門天像を造立・祭祀して「清水寺」を号し、創建に至っています。

創建当初の清水寺は、現在のような舞台付きの巨大な本堂ではなく、敷地面積も狭く、とても境内と呼べるものではなかったと伝わっています。

清水寺が本格的に寺院として始動しはじめたのが、805年(延暦24年)に坂上田村麻呂が朝廷より「国家鎮護のご利益をもつ寺院」のとしてのお墨付きをもらい、天皇の御願寺として「北観音寺」という名前を下賜されてからです。

この後、単立した寺院として歩みはじめますが、近隣にあるかつての祇園社(ぎおんしゃ)、つまり現在の八坂神社や叡山(比叡山延暦寺)との間に抗争が絶えず、焼失や破壊される度に再建するといった歴史を歩むことになります。

現在の清水寺は広大な伽藍を誇り、威容感に満ちた寺観が備わっていますが、現在のような伽藍と寺観が成立したのは1264年~1278年(鎌倉時代)の頃と云われています。

戦国時代には織田信長、安土桃山時代には豊臣秀吉などがスポンサーとなって清水寺に資金提供をしてきましたが、双方がこの世を去った後は再び戦乱の時代に戻り、資金集めもままならず、次第に荒廃していくことになります。

その後、清水寺が日の目を見ることになったのが江戸時代前期に徳川家光公による莫大な援助金の寄進があった後になります。

現在みることのできる清水寺の伽藍の寺観は、この家光公による再建後の姿です。

明治時代に再び荒廃した清水寺

江戸幕府が倒れ明治時代に入ると、それまで清水寺のスポンサーであった幕府の庇護がなくなったばかりではなく、さらに神仏分離令が政府より出されこれにより「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の動きが活発になります。

この時の神仏分離令や廃仏毀釈によって清水寺の寺領が一部、没収となり、檀家(だんか)を持たない清水寺は資金を得ることができなくなり、境内の堂舎や仏像を売り払うなどして資金を得ることになります。

こうして次第に廃れていくことになりますが、当時の住職・大西良慶(おおにしりょうけい)の勧進活動や多面的な活動によって窮地を脱し、現在見ることできるような威容に満ちた寺観の回復に成功しています。

清水寺は創建当初は長野善光寺と同じく「無宗派」だった?!

実は清水寺は創建当初、長野善光寺と同じく「無宗派」だったと云われています。

しかし、清水寺と同様に仏教道場として力を付け始めた比叡山延暦寺が清水寺を傘下に組み入れる動きが活発になったため、清水寺は回避策として奈良・興福寺の庇護のもと、あくまでも単立の寺院としての立場を貫きながら興福寺と同じ「法相宗」の寺院として歩みはじめることになります。

清水寺・本堂の御本尊「清水型千手観音菩薩」とは??

「清水型千手観音菩薩」とは、清水寺・本堂の御本尊になり、つまりは清水寺の御本尊となります。

「清水型千手観音菩薩」は、通常時は拝観することは叶わず、本堂・内々陣の最奥の須弥壇中央に置かれる厨子(ずし)と呼ばれる箱の中で安置されています。

須弥壇は横幅約16メートル、奥行き3.3メートル、ものクソデカイ須弥壇であり、中央に置かれる厨子は国宝の指定を受けています。

しかし御本尊を拝めないので、少しガッカリした気分になるのは否めないのですが、その代わりの代打として御本尊を忠実に模して造立された御前立(おまえだち)と呼ばれる仏像が御本尊の前に立っていますので、御本尊に成り代わって拝むことができます。

尚、御前立でも真摯に拝することで享受されるご利益や功徳は御本尊と同じとされています。

「清水型千手観音菩薩」が「清水型」と呼ばれる理由に関しては当サイトの以下の別ページにてご紹介しております。

えぇっ?!京都・清水寺には1000年以上前から伝わる「秘仏」がある?!

えぇっ?!御開帳は清水寺が起源だった?!

清水寺は家光公が再建を手がける少し前の寛永期に1度、伽藍が焼失していますが、この時に伽藍再建資金を得るために、苦し紛れに思いついた必勝策として絶対秘仏の御本尊を人々に公開するということを行っています。

これは現在で言うところの御開帳となり、3日間限定で拝観料をとって御開帳しています。

この御開帳では想定外に参拝者が押し寄せ、莫大な資金が集まったことから、以降、清水寺で周期的に御開帳が行わることになります。

また、この時、清水寺が行った御開帳が日本全国の寺院に伝播し、以降、日本全国の寺院においても御開帳が盛んに行われるようになったと云われています。

そのため清水寺で行われる御開帳を「居開帳(いがいちょう)」と呼称し、他所で行われた御開帳を出開帳(でがいちょう)と呼称されたようです。

この説が正しいとするのであれば、この時清水寺が行った出開帳の風習が現在まで受け継がれていることになります。

その後の清水寺では上述の3日限定で行われた御開帳を皮切りに以降、御本尊・千手観音に通じる観音経の「三十三の教理」に基づき、33年周期で御開帳されることになっています。

観音経の三十三の教理とは、千手観音を含めた観音菩薩は三十三もの姿に変身することができ、救済する者の姿に合わせて容姿を变化させて救済すると云われています。変っ身っ!とぅ!

【補足】清水寺・本堂の次回の御開帳はいつ??

2000年代に入って行われた御開帳がちょうど2000年(平成12年)であり、33年周期で計算すると次回、御開帳されるのは2033年になります。

清水寺・本堂の建築様式(造り)

清水寺・本堂の構成

清水寺・本堂は外側(舞台)から「礼堂廊下(南廊下)」「礼堂(外陣)」「内陣」「内々陣」と構成され、内陣と内々陣をもって正堂としています。

舞台

舞台には入母屋造りの楽舎(翼廊)が左右(東西)に設けられ、厳密にはその間の部分が舞台になります。

翼廊は部分は舞台の一部を構成していますので、一般の参拝者は翼廊の存在に気づかずに奥の院や阿弥陀堂へ進むと思われます。

内陣

創建当初の清水寺・本堂はかつて長岡京に存在したとされる紫宸殿(ししんでん)を移築し、本堂として使用していたと云われています。

本堂の内陣に見える蔀戸(しとみど)や屋根の檜皮葺(ひわだぶき)などは、まさにかつての天皇の御所を偲ばせる建造物として捉えることができます。

外陣

轟門(とどろきもん)から廊下を進むと少し広い空間が出てきますが、ここが舞台の入り口となる外陣の車寄せになります。

清水寺本堂の外陣部分は礼堂(らいどう/拝殿のようなもの)になっており、天井は格天井が張られ、天井を支える図太い柱が西端から東端までの間を等間隔で並び立っています。

外陣の見どころとなるのが「欄間に飾り立てられた大きな絵馬」と、「御正体(みしょうたい)と呼ばれる御本尊の姿を示した50センチほどの銅の円盤」です。

御正体は賽銭箱の真上に2つ取り付けられています。

御正体に関しても以下の別ページにてご紹介しております。

えぇっ?!京都・清水寺には1000年以上前から伝わる「秘仏」がある?!

尚、一般の参詣者が立ち入ることができるのはこの外陣までとなります。

内陣・内々陣

外陣から内陣が少し見えますが、内陣の奥となる内々陣には横幅16メートル、奥行き3.3メートルという巨大な須弥壇が設けられ、その上に国宝の厨子(ずし/箱)が置かれ、清水寺の御本尊「清水型千手観音」はこの厨子の中で安置されています。

内陣の東西(左右)には局(つぼね)がそれぞれ設けられ主に参籠する際に使用されます。

この局は正堂部分の両端に設けられており、局の上には裳階屋根が乗り、遠目からみると屋根が二重に据えられているのが視認できます。

ところで・・清水寺の舞台が造られたのはいつ??

清水寺の舞台は京都のことを書き記した古書物によると、平安時代後期には歴史上に登場していたことが明らかにされています。

清水寺の舞台に関しての詳細は当サイトの以下の別ページにてご紹介しております。

京都・清水寺の舞台の柱には釘が一つもない?!「建てられた理由・歴史・高さ・材木・建築造り(懸造り)」

「清水寺の舞台から飛び降りる」の意味(使い方)・由来・歴史と「飛び降りる理由と生存者数と死者の数」など

清水寺・本堂の御朱印「大悲閣」

この本堂では御朱印を授与していただくことができます。

御朱印を授与していただける場所は本堂の舞台を抜けた先の売店の隣りの授与所になります。

いただける御朱印の種類は【西国三十三所観音霊場第十六番札所】と【洛陽三十三所観音霊場第十二番札所】の2種類になります。

ただし、右上の「西国十六番」の押印が異なるだけで他はまったく同じ御朱印になります。

  • 御朱印の値段:300円

 

本堂にまつわる清水寺の取り組み

ご存知の通り、清水寺境内の堂舎の屋根は大半が檜皮葺で葺かれています。

また舞台の柱にはケヤキ材が使用されています。

一般的に建築に使用できるまでの用材になるには最低でも樹齢300年以上、適したもので400年以上の歴史が必要であると云われています。

そこで清水寺は京都府下の山々にケヤキを約3000本以上植林し、また屋根の葺き替えに使用するヒノキ材も植林しています。

清水寺・本堂の場所

清水寺の本堂は経堂前の窓口で拝観券を購入して、その付近に位置する轟門をくぐり、直進した先に位置します。

舞台の後方が本堂になります。

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