京都・清水寺「🐤千体石仏(千体地蔵)🐤」

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「千体石仏」とは?

千体石仏とは、その名の通り、石仏が千体あることに因んで「千体石仏」と命名されている。

本当に千体もあるのか?

戦隊石仏とは、レッドを中心とした‥‥あ、イヤイヤではなく、千体キッチリあるから「千体」と付されるのではなく、『数えきれないほど多くの仏像』という解釈。松坂桃李‥‥実はシンケンレッド

人々はそれを誇大化して「千体」などと付した。

ちなみに千体仏は別名で「賢劫(けんごう)千仏」と呼ばれる。

大乗仏教の「賢劫経(げんごうきょう)」という経典には賢劫に現出する千仏の名前が記されてい‥‥‥申す。天下御免の侍戦隊っ(シンケン松坂のセリフ)

賢劫経によれば、最初に現出した仏は過去七仏(釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀のこと)の4番目にあたる「拘留孫如来(クラクッチャンダ)」とされ、将来には弥勒菩薩以下に996の仏が現出するとされる。

千体もの仏を集めると仏力を強めることができ、その力を以ってすれば、そぅ!まるで女性を”口説く”かの如く、激しく”功徳”を積めるとされる。”激しく積める”? …意味不明 (そろそろこのネタも‥)

千体仏の起源

現在、明らかにされているものでは650年(白雉元年)に「山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)」という仏師が、千仏像を彫像したとされる記録が残る。

法隆寺金堂に現存する四天王像のうち、広目天像に同氏の銘が見られることから、法隆寺・玉虫厨子内面に見られる千体押出仏も同氏の作ではないかと見られている。…ピクっ

また、平安時代末期には数多の千体阿弥陀や千体薬師が造られたと云われる。

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石仏とは?

石仏とは、平易に石コロや岩肌に彫りつけた彫像のこと。

石を用いての彫刻の仕方は様々あるが主に以下の通り。

  • 丸彫り
  • 浮き彫り
  • 半肉彫り
  • 透かし彫り
  • 沈み彫り
  • 線彫り

石仏は地域によって造立されることが多い種類があるが、清水寺が位置する京都では次のような種類の石仏が主に散見される。ウフ(久しぶりの”ウフ”)

  • 釈迦如来、大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、観音菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、不動明王など

中でも特に観音像に関しては、およそ平安期に密教が伝来すると聖観音、千手、馬頭、十一面などの変化観音の造立が盛んになる。

地蔵菩薩像に関しては、水子地蔵、子安地蔵や6体セットの六地蔵など、立ち姿で造立されるケースが散見される。

石仏のご利益から考察する意義とは?

たとえば石仏と堂内にて奉斎される仏像と比較してみた場合、面白いことに次のような違いが生じることが分かる。

堂内の仏像

本堂の中には、何故かゼカゼカ摩訶不思議なことに石仏が少ない。これは本堂(堂内)にて奉斎される像は衆生を救済するという大願を主眼において発願・造立されたとみられるからである。

堂内の仏像は、本尊のほか、脇侍、眷属も安置され、それらすべての総力で以って遍く世界を見渡し、遍く衆生を救済しようとする目的意識が見て取れる。

安置される空間にしても、折り上げ天井や丸柱、来迎壁、須弥壇、厨子などを用いるなど、荘厳さも兼ね添えて奉斎される。

お外の仏像

一方、お外(野外)に奉斎される像は雨風に晒されることを加味してか、木造の尊像は希少。あっても辻堂や覆屋などの雨除けの中に奉置されるケースがほとんど。

石仏を用いた例では、道祖神などの道中安全や、子の成長・安全を見守る地蔵菩薩など、現世利益が強く、わりと生活に密接したような願意のもとに発願・造立されるケースが散見される。

以上、このような石仏が目立ち始めたのが鎌倉時代以降とされる。

石仏の起源

鎌倉時代、いわゆる武家が統治する時代を迎えると、それまでの貴族中心の文化が終焉を迎え、民間の隅々にまで恩恵が行き渡るようになり、生活水準が向上する。

生活にゆとりを持てるようになると庶民が信仰心を顕にし、それを具現化することも夢ではなくなった。

特に平安後期に末法思想が広まると浄土信仰が一斉を風靡し、閻魔(冥府)に通じ六道を旅する地蔵菩薩へ拝すれば、死後は極楽浄土へ行けるとされたことも信仰を後押ししたと思われる。

石仏が多く造立されたのは江戸時代?

鎌倉時代を経て室町中期を迎える頃、徐々に足利将軍家の政務がおろそかになり始めると、家臣団の間で紛争が激化するようになり、やがて洛中を中心とした応仁の乱が勃発する。

応仁の乱は京都を中心とし、全国に争いの火種が振りまかれ、各地に戦国大名が誕生した。以後は戦乱の時代へと突入する。

長らく続いた戦乱の世も終焉を迎え、天下が1つに収まった江戸時代を迎えると、法の整備も整い始め、人々は毎日の生活が豊かになり、ゆとりが生まれると様々な信仰が生まれた。

信仰が加速すると「講」などの所謂、一種の教団が誕生し、石仏も盛んに社寺へ奉納されはじめるようになる。

近年、全国に存在する石仏の年代別調査が実施されたところ、驚くことに江戸時代のものが80%に近くにものぼるという統計も発表されてい‥‥‥申す。ジャホギャヘっ

なお、現代でも現在進行形で石仏が発願・造立されている。例を挙げるならば、悲惨な事故や災害があった現場には、鎮魂の意味合いを込めて地蔵菩薩像を発願・造立して奉置されることも珍しくない。

しかしながら、星霜経て姿形を為さない石仏が普請のために用いられたケースも見過ごすことはできない。つまり、江戸時代以前に造立された石仏が星霜経て、姿形を変えてしまったがため、石仏とは気づかれずに普請の用材として利用されるようになったとも考えられるということ。

特に明治初頭の廃仏毀釈の影響は大きく、道端に奉置されていた姿形ある石仏を破壊したり、移動したり、普請に利用するケースも珍しくなかった。


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清水寺の千体石仏の歴史「いつからココにある?」

これらの石仏を1躰々々、じっくりクリリン気円斬なほどにジックリ見ていると大日、釈迦、阿弥陀、如意輪など多種の石仏が見られ、一貫性がないことに気づく。それどゆ意味や ….そろそろこのクダリもサブぃ

どうやらこれらの石仏は当初から当地に存在したわけではなく、明治初頭に明治政府より発令された神仏分離令・廃仏毀釈によって当地に集められて来たと伝わる。

なんでも京都市民の中でも地蔵信仰の信奉者たちが寄り集い、破壊・廃棄される様を見るに絶えず、付近の石仏を当地へ運びこんだとのこと。古いもので鎌倉時代の石仏もあるとのこと。オホ

なお、石仏1躰々々に付けられているヨダレ掛けは毎年、春秋になると付近の地蔵講の人々が奉納する形で交換をしているとのこと。

千体石仏の場所(地図)

成就院の手前。北総門をくぐって月照・信海上人の石碑の後方に位置。(繁茂する木々の後ろ)

清水寺には他にも阿弥陀堂の裏側に百体地蔵堂、音羽の滝手前の茶屋(音羽茶屋)付近にも石仏が数体、奉置される。

清水寺境内・周辺の観光スポット一覧

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