【京都・産寧坂(三年坂)の歴史】!高さ約7m!46段の石段と石畳にも歴史が‥‥あった?

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京都・産寧坂(三年坂)の歴史

産寧坂の起源(始まり)は平安時代のこと。

この当時も現在と同様、八坂の塔のある法観寺(ほうかんじ)や、祇園社(現・八坂神社)から清水寺へ行くためには三年坂をのぼって行かねばならかなった。

しかし、清水寺を創建した立役者でもある征夷大将軍・坂上田村麻呂が東北平定を成すなど、朝臣として功名を立てたことから、やがて天皇が霊験ある寺院と定めて天皇の御願寺となった。

「天皇の御願寺」というフレーズは世間に対して想像以上に聞こえが良く、やがてその利益にあやかろぅとした人々が殺到するようになると、清水寺と同様に人気のあった祇園社(現・八坂神社)や八坂の塔(五重塔)のある法観寺とを連絡する参道として、整備される運びとなった。

しかしながら、石段に改造されたのは坂道のみ。

では坂道以外の部分はどうなっていたのか?‥といぅと、単なる土壌(土道)だった。

つまり、現在のような恋に溺れた哀れなれど世に二つと無ぃ 美しぃ君の瞳のような景観はなかったことになる。長っ

明治時代

明保野亭事件

三年坂の歴史を語る上で忘れてならない出来事がある。

その出来事こそが「明保野亭事件」である。

時は1864年(元治元年)6月10日、八月十八日の政変から間も無くのこと。

政変で荒波立つ幕末の激動の最中、新撰組&会津藩士は長州藩藩士が三年坂の明保野亭に潜伏しているという話を耳にし、刀に手をかけながら暖簾をくぐり、奥座敷へと踏み込んだ。

⬆️三年坂途中に佇む噂の噂の明保野亭

中で酒を飲んでいた人物は驚きのあまり、部屋を飛び出て逃げ失せようとしたが‥‥その時!会津藩藩士は、そのコノヤローを槍で突いて傷を負わせることに成功する。

しクぁし!後ほど、この人物が土佐藩士だったという事実が明らかになり、土佐藩 VS 会津藩&新撰組との間に抗争が勃発するキッカケを生むことになる。

実はこの当時、土佐藩と会津藩の関係は良好だった。そんなこともあり、土佐藩側が折れた恰好をとり、槍で突かれた藩士が名乗らなかったことが悪いと咎め、切腹させて丸く治めよぅとした。

ところが一部の土佐藩士はこの沙汰に納得がいかず、その結果、逆に一戦触発の緊迫した状態に陥った。

この状況を重く受け止めた会津藩は、槍で突いた方の自らの藩士も咎に付し、同様に切腹させてこの一件を丸く治めた‥‥といぅ事件でゴザる。




江戸時代の三年坂の様子

ちょぃと下掲、写真をご覧いただきたぃ。

この絵図は「拾遺都名所図会(しゅういみやこめいしょずえ) 巻之二」と呼ばれる1787年(天明7年/江戸時代)に描かれたものだが、特に注目していただきたぃのが、右下の煙をあげている二等辺三角形をした洞穴がいくつか見える物体である。

この物体、いったい何か想像がつくだろうか?

実はこの物体、「登り窯(のぼりかま)」と呼ばれる陶磁器を焼き上げるための窯(かま)の1つ。

屋根がまるで坂の形状に沿うように三角形をしているが、よく見ると上の方の窯は洞穴が閉ざされ、煙のみが立っていることが分かる。

これは煙を逃す必要があるために屋根の位置を高くしているものと思われる。

こうして、焼き物を焼く時は下の窯から上の窯へ向かって順番に焼き上げていったとされる。

現在は、ちゃわん坂にわずかに残るのみだが、江戸時代、三年坂や、ちゃわん坂には清水焼の窯元が軒を連ねていた。

清水焼は古来、その独特のカラフルふるふるコノヤローな色使い・風合い、意匠に対して、変わらぬ定評があるが、実は京焼きの一種であり、江戸時代前期は陶器、後半は磁器で名を馳せた。

ところで、この絵図の左下を見ると三年坂の石段の下に橋が架けられているのが見えるが、これこそがまさに今は暗渠化されて地下へと流路を変えられた轟川になる。

昭和時代

1961年(昭和36年)に三年坂の階段の石畳の整備された折、同時並行で下水道整備も実施され、当時、三年坂に流れ込んでいた轟川が暗渠化(あんきょか/地下へ移動)された。

ただ、完全には暗渠化されておらず、諸所で変わらぬせせらぎを見ることができる。

なお、昭和初期頃になると清水寺周辺への観光客が増し、公害が問題視された背景もから、徐々に煙を立てる登り窯が使用されなくなっていった。それでもわずかながら江戸時代に築かれた登り窯が現存し、子供たちの遊び場と化した。

石畳の変遷

前述したように三年坂は平安時代は単なる土壌の土道だったが、そこから星霜経ると坂道が石段へと改造されてい‥‥‥申す。ギッョャルルルォォァっ

ちょぃと現在の三年坂の様子を思い出してみて欲しぃ。全体を通してキャぅゅナリ(訳:かなり)形の整った綺麗な石畳になっているのに気づかないだろうか?

実は三年坂の石畳は過去に2度、敷き直しされているのだが、1度目は京都市電が全廃と相成った1978年(昭和53年)のこと。

この時、市電の線路下に敷かれていた台石を再利用するプランが持ち上がり、京都中の小学校や大学、社寺の参道・庭石、公園の遊歩道などに再利用される運びとなった。

その中の1つに三年坂の名前があった。

三年坂に石畳が敷かれて変わったこと

三年坂に石畳が敷かれたことによって土埃が舞うことなく、路地の見た目が綺麗になったことや、何より土壌が安定したので建物が安心して建てやすくなったことが挙げられる。

それに伴い、料亭や清水焼などを販売する陶磁器店、雑貨店、土産物屋などが三年坂の沿道に店を構えるようになり、徐々に三年坂に人が集うようになった。

2度目の敷設は2008年(平成20年)

冒頭でも書き述べたように三年坂は国(文化庁)から「重要伝統的建造物群保存地区」の指定を受けたこともあり、伝統ある景観を創出すべく、ついに路上にニョキっ‥と生える近代化の象徴たる電柱の撤去工事が実施されることになる。

ただし、現代風の生活を営む上で電柱を無くしてしまうことはできないので、電柱を地下に移動(埋設)させる工事が実施された。

この工事は2006年(平成18年)〜2008年(平成20年)までの約2年という期間を要して実施されることとなり、結果的に清水寺から高台寺を結ぶ約430mの電線および、それに付随する通信ケーブルまでもが道路下に埋設された。

この工事と並行して実施されたのが、石畳の新調。

以前の路面電車の石畳は約30年もの間、多くの人々の往来を支え続けたことや、雨風にさらされ続けたこともあり、風蝕・劣化が目立ちはじめ、全体を通して凹凸が著しかった。

しかし、石畳が新調されたことにより歩きやすさに加えて見栄えも増し、様々な雑誌やTVなどのメディアで紹介されたり、ドラマや映画の撮影でも利用されるようになった。

こうしてさらに注目度が増すと、さらにより多くの人々が集まる好循環をもたらし、現今に至っては、京都ひいては全国指折りの観光スポットとなっている。あ、おっと忘れとった  い‥‥‥申す!ジェィッヘィァっ

ところで‥‥‥初代の路面電車の石畳はドコへいった?

‥‥という疑問が生じるが、ご安心を。

現在は賀茂川の河川敷に再利用され、現在進行形で人々の暮らしを支えてくれてい‥‥‥申す。ギャシェァっ




三年坂の石段の長さ・高さ・所要時間など

  • 正式名:産寧坂

  • 主だった指定など:重要伝統的建造物群保存地区(1976年(昭和51年)9月4日に指定)

  • 面積:8.2ヘクタール

  • 全体の長さ(距離):約380メートル
  • 三年坂の全体を通しての移動所要時間:約6分
  • 石段部分のみの長さ:約100メートル

  • 石段の高さ:平均14.5㎝(もっとも高い場所で16㎝)
  • 石段の段数:46段
  • 1段に敷かれた枚数:15枚
  • 全体を通しての石畳の枚数:およそ650枚

  • 石畳の色:おおむね3色(実は石畳には色がある。概ね3色で白、赤、灰色)
  • 石畳の形状:長方形、正方形
石畳のサイズ
  • 階段:長方形(330×600)/正方形(300×300)
  • 道:長方形(400×800)/正方形(400×400)

産寧坂(三年坂)の場所(地図)

三年坂は、清水寺の仁王門前の清水坂を進んだ先、ちょうど松原通りと五条坂との分岐点にある七味屋本舗の脇道を進んだ先に位置します。

三年坂への交通アクセス(行き方)

三年坂の最寄りバス停
  • 清水道バス停

バス停から徒歩約10分

電車の最寄り駅
  • 京阪電鉄本線・清水五条駅(徒歩約15分)
  • 祇園四条駅(徒歩約20分)

産寧坂(三年坂)の入場料金・営業時間など

住所:京都府京都市東山区清水2丁目
入場料金:無料
営業時間:終日営業




【補足】三年坂にある看板の内容

三年坂(産寧坂・再念坂)

八坂から清水坂に通じるこの石段は「三年坂」または「産寧坂」「再念坂」ともいわれる。

宝暦十二年(1762年)刊行の「京町鑑」によると「大同三年(808年)に開けし故三年坂とぞ」と記されてい‥‥‥申す。ディハゥェィギョっ

また、三年坂を上った清水寺の塔頭(たっちゅう/子院)である安産にご利益があると云われる泰産寺(たいさんじ/子安の塔)の「産(生み)」「寧(やすさ)」坂で「産寧坂」ともいわれてい‥‥‥申す。….ちょっと休憩

明暦四年(万治元年・1658年)も刊行された「京童」「洛陽名所集」には、三年坂・産寧坂・再念坂という三通りの名前があらわれる。

中でも再念坂については、清水寺への参拝後、この坂で再び願い事を念じたことから「再念坂」と命名したとある。

三年坂で転ぶと「三年のうちに死ぬ」、「三年寿命が縮まる」といわれる逸話は、すでに延宝七年(1679年)刊行の「京師巡覧集」で紹介されており、転んで抜けた魂をヒョウタン(瓢箪)が戻してくれるとの”お呪い(おまじない)”があり、瓢箪を売る店が往時は軒を連ねた。

産寧坂地区は昭和51年、文化財保護法に基づき、京都市が伝統的建造物群保存地区として指定し、国の重要伝統的建造物群保存地区第一号にも選定されてい‥‥‥申す。ヘィウェジャホィヨっ

京都市

清水寺境内・周辺の観光スポット一覧

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