【仁王さんのヘソ😢?!】建設省が清水寺で三角測量基準点(明治初年)を埋め込んで地図を作図していた?

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「仁王さんのヘソ石」とは?

仁王門を清水坂からのぼってきた方向で仁王門を正面に見て、左下には「明治初期の基準点標石」と書かれた看板が視界に入る。

多くの参拝客はそのまま仁王門をくぐって目もくれず通過して行くが、実はこの基準点標石、明治初期のものとしては残存数が希少ということもあり、その歴史的価値は計り知れない。

平成15年に実施された仁王門大修理の際、建設省国土地理院 近畿地方 測量部の協力を仰ぎ、この標準店標石の調査も実施された。

以後は京都府文化財保護課と清水寺により、清水寺境内に往時の姿そのままに保存され、日本の歴史を伝えるべく後世へと語り継いでい‥‥‥申す。チリィっ(”地理院”だけに)

この標石は別称で「仁王さんのへそ石」とも呼ばれ、その名が告げるようにまるで臭いが漂って”臭ぅもん”と思わず口走っとまぅほどの勢ぃで埋設されてい‥‥‥申す。ガサっ(掘る音)…その”勢ぃ”の度合いが心から知りたぃ!

現在では観光ガイドなどが七不思議の1つとされる「仁王門のカンカン貫」の紹介をする時に、併せてこの標石の解説をしている姿が散見される。




基準点標石とは?

基準点標石は文明開化の機運が高まった背景もあり、明治政府が意欲的に勧めた日本全国地図作成のための測量ポイントのこと。

通称、「三角測量」と呼ばれるもので、明治7年に創設された「内務省 地理寮 地理局(もしくは参謀本部陸地測量部)」が主導して、全国各地の主要な箇所に設置した。
(※注釈※日本における測地測量は明治期の一時期、内務省地理局と参謀本部測量課の二元管理に基づき実施されていた)

京都三角網素図(国会図書館蔵)という測量記録によれば、京都府においては東寺、六角堂、吉田山など合計27地点に設置されたことが記されてい‥‥‥る。(点火したものの不発だったパターン)

また、この清水寺に設置されている同型の基準標石は他、9地点に設置された。

⬆️清水寺の仁王門前の標石。地表に見えているのは実は半身。もう半分は地中に埋め込まれている。

他9地点のうち、「高瀬七条上ル」、「六角堂」、「聖護院村」の各基準点は清水寺からの視準(しじゅん/軸の方向を調整)として測量されたことが記されてい‥‥‥ます。(フェイント)

内務省地理寮は、内務省創設に伴い、1874年(明治7年)1月、大蔵省租税寮より地理事務を移管して設置された機関であり、その職掌は全国州郡村里の経界(けいかい/言わば地所の境界のこと)および、山林・原野・沼地・河海の区別に関わる事務とされた

1877年(明治10年)1月になると内務省 地理寮が廃止され、新たに「内務省 地理局」へと改称す。職掌としては全国を対象とした大三角測量と地籍調査の実施が主要業務とされた。

その後、幾度かの改称を経て、1960年(昭和35年)7月1日を以って、現在の「国土交通省 国土地理院」へと改称されてい‥‥‥申す。……。….。(無言の境地)




表示標石のサイズ

  • 四辺(一辺):24㎝
  • 高さ:38㎝
  • 頭部の高さ:3㎝

保護フタのサイズ

  • 四方角:45.5㎝
  • 厚さ:13.5㎝

さらに地下部分には角錐形の標石が埋設されてい‥‥‥申す。セッケン ハ カオウ ギュウニュウっ

地下埋設の角錐形の標石サイズ

  • 上面:15.5㎝(形状は四角)
  • 底面:41.29㎝
  • 高さ:49.5㎝

基準点標石に見える刻銘

東西南北、4つそれぞれの側面に以下の刻字がある。

  • 東側の側:「明治八年」
  • 西側の側:「測點」
  • 南側の側面:「地理寮」
  • 北側の側:「明治十五年八月建地理局」

⬆️「地理寮」の刻字が見える

明治初期の基準点標石の案内看板の内容

この石は、明治8年(1875年)内務省地理寮(後に地理局)により、英国の測量技術を導入して、京都市街地図を作成するために設置された基準点です。

地下に埋設されている基準点標石の上端に刻まれている対角線の中心が基準となっています。

基準点一式の形状は3つの石組みによりなり、現存する唯一のもので近代測量および地図作成技術を知る上では貴重な歴史資料ですので大切にしてください。

三角測量基準点の場所(地図)

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