【👻清水寺の七不思議💀】京都・清水寺には平景清伝説が存在した!!【景清に由来する遺物一覧】

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平景清とは?

「平景清(たいらのかげきよ)」とは、名門・藤原氏の一族であり、「藤原景清」とも呼ばれた人物。

後に平家の武将として功名を立て、平性を名乗ることを許され「平景清」と名乗っている。

景清の父親は藤原南家の出身の「藤原秀郷(ふじわらのひでさと)」と言い、後に伊藤氏を名乗ったことから、別名で「伊藤景清」とも呼ばれている。

しかし上述した以外で景清の別名でもっとも有名な別名があるのだが、これこそが悪七兵衛(あくしちびょうえ)」。

「悪七兵衛」の意味

悪七兵衛とは、「悪人」や「悪党」と言う意味ではなく、残忍な悪党も逃げ出すくらいの「剛の者」であることを意味するとのこと。うきゃ

しかし腕の立つ景清も源平合戦では義経率いる源氏軍に連敗を期し、ついに壇ノ浦で主家の滅亡を目の当たりにすることになる。キャキャキャキャっ

主家滅亡後の景清の軌跡として次のような説が語り継がれている‥。

  1. 壇ノ浦の戦いで捕縛され、清水寺近くの鳥辺山の「牢の谷の監獄」にブチ込まれてそのまま生涯を終えた。
  2. 壇ノ浦の戦いで捕縛され、清水寺近くの鳥辺山の「牢の谷の監獄」にブチ込まれた際に観音像を造り、脱獄した後に清水寺へ奉納した。
  3. 壇ノ浦の戦いで捕縛され、清水寺近くの鳥辺山の「牢の谷の監獄」にブチ込まれたが脱獄し、「源氏の世は見られぬ」と言い、自らの目ン玉を指でくり抜いて清水寺へ奉納した。その後、盲目の物乞いになったが、哀れに感じた清水寺御本尊のお慈悲で目が見えるようになった。
  4. 壇ノ浦の戦いで逃げ延び、清水寺や東大寺に潜んで頼朝暗殺を企てるが失敗して捕縛され、上記の牢の谷の監獄へブチ込まれて獄死した。
  5. 壇ノ浦の戦いで捕縛され、後の鎌倉幕府13人衆の1人となる「八田知家(はったともいえ)」の邸宅に預けられ、飲まず食わずの末に餓死した。

以上の中でも現在までの景清の軌跡として世に広く知られているのが、「壇ノ浦の戦いで逃れて清水寺や東大寺へ潜んで頼朝暗殺を企てた」という説。

源頼朝は熱心な神仏の崇敬者であったために、度々、寺社へ参拝しては多額の奉納を行ったりしている。

なお、実際に清水寺の他、東大寺(東大寺・転害門)にも、景清が頼朝を狙って門近くに潜んで命を狙った‥‥という話も残されている。


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平景清に由来する遺物一覧

景清の爪彫り観音像

清水寺の拝観受付の手前、入口近くの三重塔or随求堂(ずいぐいどう)の手前には小さな石碑群がある。….1,2,3🔽

その石碑群の右端には「かげきよつめがたくわんぜおん」と刻字された石碑がある。

この石碑の文字は”ひらがな”で刻字されているのだが、これを漢字にすると「景清爪型観音(かげきよつめがたかんのん)」となる。

この石碑の左に目をやると五輪塔があるのだが、上から順に見ていくと「宝珠」→「笠」→「火袋(ひぶくろ)」→「中台」とつづくことから、これは五輪塔でありながら、灯籠としての機能を有することが分かる。

火袋の部分に注目すると、通例の灯籠の火袋とは大きく異なり、横長の穴が空いているのだが、中央に仕切りがある。

ちなみに火袋とは灯りとなるロウソク火を入れる部分のこと。

火袋の中には平景清の手彫りの念持仏がある?

清水寺の寺伝によれば、この火袋の中には、なんと!平景清‥‥通称・悪七兵衛が「牢之谷の監獄」にブチ込まれていた時に、自らの爪で彫ったとされる念持仏(激スモールな観音さま)が収められているとのこと。

「牢之谷の監獄」とは、清水寺近くにかつて存在した「鳥辺野(とりべの)の鳥辺山(とりべのやま)」にあったとされる監獄のことであり、なんでも源平合戦の最終決戦の舞台となった壇ノ浦にて捕縛され、この監獄にブチ込まれて臭い飯を食べていたとのこと。

しかしながら、この悪七兵衛にはもう1つ異説があり、なんでも壇ノ浦で捕縛されずに逃げ落ちて、この清水寺に潜伏して頼朝の首を狙っていたといぅ。

頼朝卿は寺社に対して異常なほどの関心を寄せていたことを知っていたから、清水寺へも参詣するという情報を得ての行動だったのか。

景清の爪彫り観音像は本当に見えるのか?

景清が手彫りしたとされる観音像は爪で造立された小さな観音像であることから、火袋部分から中を覗き見ても分かりづらく、まず見えないとのこと。

数年前に境内の清掃している方に聞いた見るコツを述べておくと、晴天の午前中に訪れると見えることがあるとのこと。

しかしながら、現在もこの観音像が火袋の中に収められているのかは懐疑的である。

もし景清なる人物が手彫りした仏像が本当にあるのならば、文化財級のお宝ということになり、わざわざこのような雨風にさらされる場所に放置しておくとは考えにくいからである。

鳥辺野とは?場所はドコ?

鳥辺野とは、死者が出ると埋葬される‥‥‥というか、伝承では遺骸を荼毘(火葬)に付さず、吊るして鳥に食わせるという埋葬方法をしていたとされることから「鳥辺野」と呼ばれるようになったという話がある。

その鳥辺野の詳しい場所は現在でも明らかにはされていないが、1つだけ言えることは清水寺のすぐ近くだったということ。

ちなみに五条坂を下った先の東山五条の交差点から見える「本願寺大谷本廟」境内には、かつて鳥辺野に埋葬されたとされる人々の墓が幾つか現存しているといぅ。

これが事実であるならば、かつて鳥辺野と呼ばれた場所は大谷本廟周辺だったのかもしれない。

気になる方は‥‥要チェックやでぃ!….by.彦一

ところで‥‥景清爪型観音はいったい誰が建てた(寄進した)のか?

江戸時代になると景清が歩んだ歴史は伝説となり、歌舞伎や浄瑠璃、能などの演目でたびたび、演じられるようになった。

特に平家滅亡後、落ち武者となって源頼朝卿の暗殺を企て、結果、捕縛されて投獄される。その後、盲目の乞食となって放浪し、やがて娘の人丸が日向に尋ねる悲話が有名だった。

そうこうしているうちに景清を崇拝する人たちが出没し、景清講のようないわゆるファン倶楽部のような出来たそうな。

何が言いたいかというと、その景清を崇拝する人たちが資金を出し合って景清供養のためにこの灯籠を奉納したと伝えられてい‥‥‥申す。ガフェっ


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最後に‥‥「かげきよつめがたかんのん」の石碑の刻銘を見てみよぅかなぁ‥‥

五輪塔(石灯籠)の右に立つ「かげきよつめがたかんのん」と刻字された石碑の横面を見ると、以下のような刻字が見える‥‥。

○久院釋道誓信士‥‥ ○久院釋妙薫信女‥‥

風食のため見づらいが、どうやらこれはこの石碑を奉納した者のことを記している。浄土宗では「釋」という一文字を以って釈尊の弟子と解しているが、はてさて。

信士や信女は「位号(戒名の下に付ける尊称)」のこと。つまり釈尊に帰依した敬虔な仏教徒であることを示すもの。

清水寺境内・周辺の観光スポット一覧

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