京都🐉清水寺「奥の院」【重要文化財】【洛陽三十三所観音霊場】

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京都・清水寺「奥の院」【重要文化財】

創建年

不明
推定:778年(宝亀9年)※草庵時代
推定:平安中期から鎌倉時代※奥の院

再建年

1633年(寛永10年/江戸時代)
1925年(大正14年)

2013年(平成25年) ※半解体修理・塗り直しなど

建築様式(造り)

懸造り
寄棟造
一重

大きさ

四辺五間(一辺:約12m)
※南北両外側に幅2m余の廊下附属

屋根の造り

檜皮葺

御本尊

三面千手観音像

脇侍

地蔵菩薩(現世を釈迦に成り代わり見守る菩薩さま)
毘沙門天(二十八部衆の一尊・七福神の一尊)
二十八部衆(千手観音の眷属・配下)
風神
雷神
弘法大師像(真言宗の開基)

重要文化財指定年月日

1966年(昭和41年)6月11日

洛陽三十三所観音霊場番号

第十一番札所

発願者(寄進者)

東福門院(発願者)※徳川家光の妹
徳川家光(寄進者)

清水寺・奥の院の読み方

奥の院は「おくのいん」と読む。

奥の院の別名

清水寺の奥の院は別名で「奥の千手堂」または「奥千手院」他に「多宝寺」とも呼ばれる。

平安の頃、真言宗に属するようになってから後は弘法大師の尊像を奉斎したことから、「真言院」とも呼ばれた。

「奥の院」の名前の由来とは?「奥の院の意味」

奥の院とは、通常であれば寺院の境内・本堂の後方の山内などに位置する堂舎のことで、本堂と同等と言えるほどの重要な堂舎になります。

大抵の場合、奥の院には「その寺院の創建に携わった人物」や、「寺のために功績を残した人物」、「代々の住職」などが祭祀されています。

この他、秘仏の仏像も安置されていることがあります。

また、現代風な例えとして「奥の院」を少し捩って(もじって)使用する場合があります。

例えば、社長を後方から操る「会長」のことを指したり、はたまた、その影でトップを操る人物のことや機関のことを「奥の院」と呼んだりします。

清水寺・奥の院の歴史

この奥の院の歴史は古く、清水寺の創建以前から存在していたと云われる。

それもそのハズ。なんと!清水寺を創建した行叡居士(ぎょうえいこじ)と、開山延鎮上人(えんちんしょうにん)が修行を重ねた際、草庵(そまつな建物)として使用していたのがこの奥の院の起源と伝えられている。

以降、法相宗(ほっそうしゅう)であった清水寺が真言宗にも属することになり、兼学兼宗の寺院となった平安時代中期から鎌倉時代の間に現在の奥の院が創建されたとみられてい‥‥‥申す。パフォっ

しかし残念なことに、以降、この京都・清水寺は記録に残っているだけでも、1063年(康平6年)から1629年(寛永6年)の間に9回も焼失しています。

1629年の火災も応仁の乱の時と同様に被害が大きく、境内の中心部から離れた場所に建っていた仁王門などを残し、ほとんどが焼失しています。

【補足】1629年(寛永6年)の成就院の失火の大火災により再建された堂舎群

  • 西門、三重塔、経堂、田村堂、朝倉堂、轟門、本堂
  • 本坊北総門、鎮守堂(春日社)、釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院

その後、1633年(寛永10年/江戸時代前期)に3代目将軍・徳川家光の寄進(発願は妹・東福門院)によって伽藍全体が再建されており、現在見ることのできる清水寺のほとんどの寺観は、この再建時の姿です。

「清水寺参詣曼荼羅(室町時代)」に描かれる奥の院の姿

⬆️1548年(天文17年)に描かれたとされる「清水寺参詣曼荼羅」

この絵図の右端に奥の院が描かれてい申すが、この絵図が正史とするならば、室町時代にはすでに張り出した舞台が存在したとになる。

「清水寺遊楽図屏風(江戸時代)」に描かれる奥の院の姿

⬆️「清水寺遊楽図屏風(江戸時代)」に描かれる奥の院と舞台(右端) (清水寺でいただいた冊子より)

清水寺・奥の院の建築様式(造り)

現在の奥の院は平成の大改修にて塗り直しが実施され、例えば舞台正面の礼堂を見上げるとその正面には「繧繝彩色(うんげんさいしき)」と呼ばれる彩色技法を用いて塗り込められた極彩色の組物が視界に入る。

⬆️舞台から見た奥の院・礼堂(外陣)。極彩色の組物と丹塗り(朱色)が映える

極彩色の組物の周り(軒周り)などは、目がくらみそうなほど朱色が映える丹塗りが施されてい申すが、以前の奥の院の姿を知っている人であれば二度見するほど、さぞかし驚くことだろぅ。ふぉっ、ふぉっ…

奥の院は平成の大修理によって極彩色が施された!

1984年(昭和59年)〜1987年(昭和62年)に鐘楼の後ろ、経堂の手前に立つ、三重塔の解体修理が実施された折、一部の部材に極彩色が見つかり、江戸寛永期の再建後は境内の堂塔に彩色&丹塗りが施されていたことが明らかにされた。

これらの彩色は安土桃山時代から江戸時代前期の頃の特色を色濃く残すもので、この三重塔の工事がキッカケとなって境内の建造物群の調査が実施された。

その後、平成の大修理が実施されることになり、この奥の院を含め、以下の建造物群が江戸寛永期の再建後の姿に復原されることに決定した。

【補足】平成の大修理によって江戸再建時の姿に戻された御堂一覧

  • 1994年(平成6年):西門
  • 1996年(平成8年):阿弥陀堂
  • 1999年(平成11年):鐘楼
  • 2000年(平成12年):経堂
  • 2003年(平成15年):仁王門
  • 2005年(平成17年):田村堂
  • 2013年(平成25年):子安塔
  • 2017年(平成29年):奥の院

この平成の大改修は総工期11年、総工費約40億円を要する一大プロジェクトだった。

平成の大改修における奥の院の工事期間と工事内容

工事期間

2011年(平成23年)3月~2017年(平成29年)6月

工事内容:「半解体修理」

  • 後世の改造部分の痕跡をもとに以前の姿に戻す修理(復原補修)
  • 建物の外側上半分を中心とした彩色の塗り直し




奥の院は塗装されていない箇所がある!なぜ?

例えば、奥の院の礼堂、賽銭箱の周辺の長押などの塗装は剥落したようなっていて、ひし形の模様だけが残されているのみ。

舞台側の柱を見ても丹塗りが施されない素木状態のままになっているが、実はこれらは「平成の大修理」に向けて行われた事前調査の結果、塗装を加えない方向で話がまとまったから。

⬆️下半分の柱には隣の阿弥陀堂で見られるような丹塗りが施されない

そこにどのような塗装がされていたのか?もしくは塗装が有ったのか?‥‥などが判然とせず、平成の大修理では敢えて、彩色塗装がされなかった。

次回の修理では塗装される‥?

⬆️礼堂横からのアングル端の柱上の出組のみに彩色が施され、他の組物には触れない

以前の奥の院の姿

ところで以前の奥の院の姿はというと、彩色がまったく施されず、禅宗寺院の堂宇によく見られるような白木を活かした質素な佇まいを見せていた。

修理・塗り直し前の奥の院

言い換えると江戸時代よりの堂が、修繕のみを重ねてそのまま近代まで使用されていたことになる。

奥の院の内部構成

  • 外陣(礼堂)(前方二間)
  • 中陣(中央一間)
  • 内陣(後方二間)

外陣(礼堂)

  • 外陣は前方二間が外陣の礼堂(らいどう)
礼堂前面(舞台側)

頭貫・長押を用い、柱上に出組(出三斗)を乗せ、その間(中備)に間斗束(けんとづか)を配す。いずれも組物は極彩色を施す。

上述したようにした半分の柱に丹塗りがされなかったのは、以前に彩色があったのかがハッキリとしないため。

礼堂内部(外陣)

礼堂は三方が吹き放ち、前方の舞台側に白木の円柱を6本据え、中央4本のみの後方に大虹梁(こうりょう)をかけ渡す。

天井は前方に化粧屋根裏天井、後方(内陣側)に組み入れ天井をはめ込み、これは隣地に建つ阿弥陀堂の礼堂(外陣)と同様の様式を採る。

化粧屋根裏天井から吊り灯篭をぶら下げる。

中陣と外陣の間の取り持ちには天井際に菱欄間をはめ込み、その下に内法長押と柱を立て、その柱間に蔀(しとみ)と吊る。

菱欄間の手前には鰐口(わにぐち)を吊り、床は板張り。

⬆️外陣(礼堂)正面の様子

最外側には本堂に倣う形式で舞台を附属し、堂を大きく前方に張り出している。‥‥ん?なんか違和感が。。おっと、忘れとった!『い‥‥‥申す。』ギェフェっ

中陣(ちゅうじん)

  • 中央一間が中陣

「中陣の間」とは平易に堂内中央部のこと。一般参拝客が坐拝するのが外陣(礼堂)、僧侶が経を唱える間が内陣、その中間にある間(ま)が中陣。

大抵、内陣の両脇には脇間が控えることが多いことから、外陣と脇間の中にある間ということで「内陣」と云ぅ。

奥の院の中陣の間は鏡天井を張り、漆塗りを施した金箔押しの丸柱を数本立て、中央三間は吹き放ちになってい‥‥‥申す。イギャォクティハっ ….もはや呪文

中陣の間は、奥の院随一ともいえるほどの煌びやかな空間が創出されてい‥‥‥ます。(フェイント)….発動くると思った?フフフ

床は外陣(礼堂)と同様、板張りなっているが、往時は石が敷き詰められた「石床」だったと云われる。

内陣

  • 内陣は後方二間(けん)

内陣も床は板張りで柱上に出組を用い、格縁天井(ごうぶちてんじょう)をはめ込み、中央の間が一段、高くした造りで創造されてい‥‥‥申す。ピプキャっ

奥の院は本堂を小さくしたお堂

奥の院はよく、本堂と似ていることから本堂を縮小した御堂だと云われることがあるように舞台が前方に、せり出し建物も造りも似ている。

奥の院は正方形の寄せ胸造・・あいやいやいや間違い!「寄棟造り(よせむねづくり)」!!の建築様式を用い、屋根の頂には甍棟(いらか むね)を据え、本堂と同じく檜皮葺(ひわだぶき/薄いヒノキ材を敷き詰めた屋根)の屋根を乗せる。

⬆️本堂と奥の院との比較

似ているのは外観だけではなく、内部(内陣)の須弥壇の配置など、奉斎形式もまるで本堂にいるかのような錯覚に陥るほど似せてい‥‥‥申す。スープ ハ クノールっ

清水寺・奥の院のご本尊と祀られている仏像・一覧

奥の院の内陣には、横幅約6メートルにもおよぶ須弥壇が設置され、この須弥壇の上に3つの厨子(ずし/豪華な入れ物)が置かれ、以下のような仏像が安置されています。

本尊

三面千手観音菩薩座像

脇侍

地蔵菩薩(現世の守護者)
毘沙門天(七福神の1尊・二十八部衆の1尊)

他に、厨子の外には以下の仏像が安置されています。

  • 二十八部衆(千手観音の眷属)
  • 風神像
  • 雷神像
  • 弘法大師像(真言宗の開基)

弘法大師像の”弘法大師”とは、真言密教を開いた大師・空海のことです。

大師が清水寺が奉祀されている理由は、平安時代の中頃、なんと!この清水寺は「真言宗」も取り入れて、従来の法相宗と兼宗する形で成り立っていたと伝えられています。

しかし明治時代初期に修験道の一派でもある「真言宗醍醐派」に属します。

1885年(明治18年)に再び法相宗に戻ることになりますが、1965年(昭和40年)に当時の住職であった大西良慶和上によって「北法相宗」と称する独自の宗派を打ち立てて独立するに至ります。

 ご本尊・「三面千手観音菩薩座像」

  • 像高63.4㎝
  • 造立年代:平安時代末期から鎌倉時代
  • 作者:慶派仏師(推定)

 

奥の院のご本尊に関しての詳細は当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。

関連記事:

関連記事: 京都・清水寺「木造・三面千手観世音菩薩像」【秘仏】【重要文化財】

 「毘沙門天像」と「地蔵菩薩像」

奥の院の御本尊の脇侍とされるのが、本堂と同じ毘沙門天像と地蔵菩薩像になります。

毘沙門天像
  • 像高(高さ):112.4㎝
  • 造立年:鎌倉時代末期
地蔵菩薩像
  • 像高(高さ):87.7㎝
  • 造立年:平安時代末期

奥の院の脇侍に関しての詳細は当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。

関連記事: 京都清水寺・奥の院「毘沙門天像」と「地蔵菩薩像」|本尊の脇侍

 「二十八部衆像」と「風神・雷神像」

二十八部衆像
  • 像高(高さ):87.7㎝
  • 造立年:江戸時代前期
風神像
  • 像高(高さ):60㎝
  • 造立年:江戸時代前期
雷神像
  • 像高(高さ):56㎝
  • 造立年:江戸時代前期

奥の院の脇侍に関しての詳細は当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。

関連記事: 京都清水寺・奥の院「二十八部衆像」と「風神・雷神像」|本尊の脇侍




清水寺・奥の院の見どころ

清水寺の奥の院は「奥の院」というだけあって、他の堂舎とは一線を画した以下のような見どころがたくさんあります。

 奥の院の舞台

奥の院は本堂を小さくした御堂と言われることがよく分かる部分の1つが、本堂と同じく「懸造りの舞台」を附属しているという点。

「懸造り」とは別名で「崖造り(がけづくり)」とも呼称されるものであり、懸造りの『懸』とは、『かける。かかる。つりさげる。ぶらさげる。』または、『物にひっかける。ぶらさがる。空中にかかる。』という意味合いがある。うきゃ

清水寺・奥の院「舞台」の大きさ

  • 横幅:約12m
  • 奥行き:約8m
  • 舞台の高さ:約12m

用材

舞台を支える材木

  • 長さ:約12m
  • 材質:ヒノキ
舞台に使用されているヒノキ板のサイズ

  • 横幅:約35㎝
  • 長さ:約8m
  • 分厚さ:約10㎝
  • 材質:木曽産・高級ヒノキ
  • 使用枚数:約90枚

現在の奥の院の高欄(手スリ)の角に据えられた親柱の上の擬宝珠(ぎぼし/たまねぎ剣士)には、次のような刻銘があります。

奥千手舞台 金宝珠 寛永十癸酉歳十一月吉日

「奥千手」「舞臺(台)」

「金宝珠」

「寛永十癸酉歳十一月吉日」

これを読み解くと次のようになる。

『奥の院の舞台の宝珠は1633年(寛永10年)の癸酉の年の11月の吉日(縁起の良い日)に完成した』

これは1633年の寛永期(江戸時代)に清水寺で再建工事が実施された証拠の1つとなるもの。

高欄の擬宝珠は落慶の暁に取り付けることが多いことから1633年の11月中の完成とみてよいと考えられ申す。

 夜叉神堂

奥の院の舞台を過ぎると道なりに進み、通り過ぎてしまう方がほとんどだが、奥の院外陣の左隅の奥に切り妻造りの御堂がある。

建物をよく見ると「守夜叉神」と書かれた横額が吊られてい‥‥‥申す。ギョギャフェっ

この夜叉神堂はちょっとした曰く付きで、なんでも清水寺の東南の方向を守護するという意味合いでもう少し南側に置かれてそうな。うきゃ

南側を守護する理由は、清水寺の鬼門方角が南東であるために南側で祀られていると考えられます。




 ふれ愛観音

ふれあい観音

  • 像高:約61㎝

元清水寺信徒総代であり仏師の西村公朝氏が精魂込めて制作した仏像で、名前を「ふれ愛観音」と云ぅ。

西村氏の心情がそのまま投影されたような仏像になり、目の不自由な人でも手で触って拝めるといったことを願って発願・造立された仏像です。

仏像は通常、造像した人物の人物像や背後関係が投影されることが多いのですが、まさにその典型的な例と言えます。

 濡れ手観音


奥の院の堂舎の裏手には石製の垣で造られた大きな手水鉢のようなものがあります。

この手水鉢の中央にには観音様が立っていて、手前にある柄杓(ひしゃく)で水をすくって観音様に直接かけてお祈りする「水掛け観音様」になります。

なんでも水をかけて祈りをささげることによって水垢離行(みずごりぎょう/=水行/素っ裸になって滝などでド頭から水を浴びること)をしたことと同じだけのご利益(煩悩消除)や功徳を積むことができるというありがたい観音様です。

もし、ニックネームに「煩悩」と付いてもおかしくないような、救いがたい強欲者がいれば是非!ゲヘゲヘっ

濡れ手観音についての詳細は下記ページにて💘

 秋の紅葉シーズンに奥の院から観る「本堂・舞台の錦雲渓」

よく清水寺の写真などを見ると舞台と、その下の「錦雲渓(きんうんけい)」が写されていることが多いですが、これらの景色はこの奥の院や、その真下あたりの子安の塔へ続く、崖沿いの参道で撮影された写真になります。

秋の紅葉シーズンを迎えると、それはそれは着物姿の君のうなじから見える妖しく美しい秋の真髄をおがませてくれます。….君ネタそろそろ限界 …サブぃ

是非!カメラを持参して清水寺へ訪れてみてください。

 清水寺・奥の院の御朱印

この奥の院でも独自の御朱印を授与してい‥‥‥申す。ガヘっ

中央に「大悲閣(だいひかく)」と墨書きされた御朱印になる。

なお、「本堂」「朝倉堂」「善光寺堂」「成就院」の御朱印にも「大悲閣」と書かれる。違いは印判(朱印)のみとなるので霊場巡礼者以外は留意が必要。

  • 御朱印の授与場所:奥の院堂内
  • 御朱印の値段:300円

清水寺の御朱印の種類や詳細については以下の別ページにてご紹介しています。

関連記事: 【期間限定の御朱印ふくむ】京都・ 清水寺の御朱印の「種類・値段(料金)・場所」

「大悲閣」の言葉の意味については、下記↓の別ページにてご紹介しています。

関連記事: 京都・清水寺「成就院」

清水寺・奥の院の場所(地図)

清水寺の奥の院は「音羽の滝」の真上、阿弥陀堂の隣に建つ。

清水寺境内・周辺の観光スポット一覧

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