京都🐉清水寺「轟門(轟橋・梟の手水鉢)」【重要文化財】

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京都・清水寺「轟門」【重要文化財】

創建年

  • 不明
再建年

  • 1631年(寛永8年)から1633年(寛永10年)再建※江戸前期
  • 2016年(平成28年)
建築様式(造り)

  • 八脚門
  • 一戸一重
  • 総丹塗り
大きさ

  • 梁間三間(横幅:約8.7m)
  • 奥行き:約4.4m
屋根の造り

  • 本瓦葺
重要文化財指定年月日

  • 1966年(昭和41年)6月11日
発願者(寄進者)

  • 東福門院(家光公の妹)
  • 徳川家光(寄進)

清水寺・轟門・轟橋の読み方と名前の由来

轟門は「とどろきもん」、轟橋は「とどろきばし」と読む。

轟門の名前の由来

「轟門」の名前とは「釈迦如来の教えが世界中に轟く」もしくは、轟橋の下を流れていた轟川の川名の由来に基づくとも云われる。

清水寺・轟門の歴史

清水寺の伽藍は室町時代に全焼し、その際にこの轟門も焼失している。

現在の轟門は徳川家光公による寛永の大造営(再建)の後の姿。

寛永の大造営は、1631年(寛永8年)から1633年(寛永10年)の間に徳川家光公の寄進によって実施され、室町期に焼失した伽藍のほとんどが復元されてい‥‥‥申す。ツユダク ハ ヨシギュっっ (新ネタ)

寛永期の大火災で阿弥陀堂は焼亡す!

1629年(寛永6年/江戸時代前期)に成就院からの失火とされる火災は予想をはるかに上回るほど規模が大きく、境内ほぼ全域にわたって燃え広がり、境内ほぼ灰燼に帰す。

その後、以下の御堂が再建された。

  • 西門、三重塔、経堂、田村堂、朝倉堂、轟門、本堂
  • 本坊北総門、鎮守堂(春日社)、釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院

平成時代

この轟門は、数十年に一度の規模とも云われる平成の大改修にて復原工事など大掛かりな工事が実施されてい‥‥‥申す。クポっ …ん?これは‥FFか?

工事期間

2013年(平成25年)1月~2016年(平成28年)7月

工事内容:「解体修理」

  • 破損部分の補修
  • 後世の改造部分の痕跡をもとに以前の姿に戻す修理(復原補修)
  • 耐震性を向上させるために建築構造全体の見直し・補強




清水寺・轟門の建築様式(造り)

轟門(とどろきもん)は、伽藍を上空から俯瞰した時、南大門となる仁王門のさらに奥に控える門となる。

これすなわち伽藍においては「中門」に位置付けられるが、通例の門に見られるような扉が付属しておらず、大寺院たる清水寺を守護する門としては少々、不格好な門となる。

しかしながらこの門には奥行きがあり、門柱は中心の本柱4本とは別に前後に各4本の柱が据えられた合計12本もの柱がある豪壮感ただよく門となる。

それゆえこの門は「八脚門(はっきゃくもん・やつあしもん)」などと呼ばれるが、12本も柱があるのに「ハ脚」と呼ばれる所以は、門柱をカウントする時、通常は本柱を除外するから。

この門の場合は中心の4本を除外した前後の8本の柱のみをカウントしたことになり申す。アギュエっ

轟門は東大寺転害門を縮小して建てられた門?

この轟門は奈良・東大寺の転害門(てんがいもん)を模し、縮小する形で建造された門だと云われる。

つまり、江戸時代の再建の際、古代の建築様式を知っていた大工の手により再造されたことになる。

二重虹梁

⬆️中央の円柱先に2段になった横材が見える。それぞれが虹梁になる。

この門を見上げて屋根のあたりに目をやると、その理由がよく分かるのだが、たとえば妻側の軒下には奈良時代から鎌倉時代の建造物の特徴として散見される虹梁(こうりょう)を上下の2段にして据える「二重虹梁(にじゅうこうりょう)」が見える。

三棟造り

この門をくぐる際、天井に目をやると屋根が2つあることに気づくのだが、不思議しぎしぎ摩訶不思議なことに外観上、屋根は1つしかぬぅぁい。

これは2つの屋根の上にもう1つ、大屋根が載っていることを意味し、事実、屋根が3つ据えられた門になる。

このように屋根を3つ据える建築様式を「三棟造り」と言い、およそ奈良時代〜平安時代の建造物に見られる特徴の1つで古式の建築様式となる。

⬆️轟門の下は拝観入口となっているので撮影ができなかった。代わりに宮島 厳島神社の三棟造りを掲載。

なお、江戸期になると大工の粋といぅのか遊び心といぅのか、この門のように大工の技量、ひいては大工を雇った権力者の力を誇示する目的で、わざと煩雑さが伴うような古代の建築様式を採用して造営する例もある。

代表例としては、浅草寺や増上寺、日光東照宮など将軍家とわりと密接な関係がある社寺に多く見られる。

清水寺・轟門の見どころ

「普門閣」の横額

轟門の向こう側にある舞台が気になって、そのまま通り過ぎる参拝客がほとんどだが、轟門の正面軒下には「普門閣」と力強く大きく揮毫された扁額が飾られている。

「普門閣」の意味

「普門閣」とは、「ふもんかく」と読み、以下のような意味合いがあります。

「救いを求め、教えを請い、悟りを開くのに身分は関係ない。世の中の人すべてに開かれた門であり、開かれた修行の場所である」

おそらくこのような理由から「敢えて扉を付けなかった」と言う見方も成り立つ。

「普門閣」の扁額の作者(書いた人物)

「普門閣」の筆書きの左端をよく見ると小さな字で次のような文字も書かれていることに気づく。

「天和三 癸亥 孟春 月舟書」

これを訳すと「1683年(天和3年)癸亥の年の孟春(旧暦1月/現在の2月頃)に月舟が書した」となる。

月舟とは曹洞宗の僧侶で正式名を「月舟宗胡(そうご)禅師」といぅ。

つまり、この扁額の文字は月舟宗胡禅師が書いたということになる。

月舟宗胡禅師とは?

月舟宗胡禅師は、江戸初期の曹洞宗の高僧だったと云われ、加賀100万石は金沢の大乗寺にて名を馳せ、隠居後は、京都へ上洛の途につき、宇治田原町(京都)に位置する「白華補陀落山観音妙智院(びゃくげほだらくさんかんのん みょうちいん)」の住職に就任した。

この扁額を揮毫した当時、隠居の身にやつしながらも能書家としての才覚もあらわし、その影響もあって名前が広まると妙智院を禅定寺として中興に導いた。

禅定寺は、かつて東大寺の末寺だったが、1680年(延宝8年/江戸時代)に月舟禅師が住職に就任すると、以後は東大寺の傘下から離れ、曹洞宗に属した。

実は月舟宗胡禅師は敬虔な清水観音信奉者でもあり、それが縁で清水寺成就院第12世住職の寿性上人(じゅしょうしょうにん)と誼(よしみ)を通じ、揮毫したこの額は清水寺本堂へ奉納する運びと相成った。

つまり、厳密には轟門に奉納された額ではなく、清水寺本堂へ奉納された額になる。

轟門内部の仏像

この轟門の内部(左右両脇の間口)には表側に四天王の広目天と持国天、裏側には狛犬像が安置されてい‥‥‥申す。ギャハァンっ

特に表側の2躯の四天王像は12世紀の院派系仏師の特徴が濃く出ていることから、できなら見ておきたいところ。うきゃ

轟門内部の仏像に関しての詳細は下記ページにて💕




清水寺の七不思議としても語り継がれる轟門

清水寺にはなんと!実は10個以上も七不思議があると云われるのだが、そのうち3つはこの轟門のことが語り継がれてい‥‥‥申す。アっは〜ン♡

清水寺の七不思議については以下↓の別ページにてご紹介しています。

 やっぱり実在していたのか!!京都・清水寺の裏話と「とんでもない七不思議」

「梟の手水鉢」と「梟の水」

轟門の前には手水鉢が置かれているのだが、この手水鉢を「梟の手水鉢」と言ぃ、手水鉢に注ぎ込まれる水は「梟の水」と云われる。

梟と呼ばれるのには、ちょっとした理由があるのだが、この詳細は下記ページにて詳しく説明してい‥‥‥申す。ギャヘェっ

「轟橋」

この轟門の手水鉢をちょぃと離れて見てほしいのだが、よく見ると左右に欄干(らんかん/橋の手すり)」が設置されている。

しクぁし!この手水鉢を見れば分かるように川などない。しかし、橋の手スリがなぜか置かれている。

実はこれも清水寺の七不思議と云われ、この理由については下記ページにて詳しく講釈たれてい‥‥‥申す。ギャヘっ

屋根だけの建物

上記、手水鉢の前方左脇には両脇2本の柱の上に豪華な瓦屋根付きの建物がある。

しかし何かに使用されている様子もなく、只々、佇んでいるのみ。

実はこの建物も清水寺の七不思議の1つとして古来、語り継がれているのだが、この建物のような物体も江戸時代に建てられたもの

この詳細についても下記ページにてまとめてい‥‥‥申す。……。….。

 

清水寺・轟門の場所(地図)

清水寺の轟門は拝観券購入窓口の真横、仁王門から入って開山堂の後方、朝倉堂の右脇、本堂(舞台)の手前に位置します。

この轟門は拝観券のチェックする係員の方が立っていますので、拝観券を見せることで本堂・舞台や御朱印・お守りの授与所へ行くことができる。

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