京都・清水寺「鹿間塚」

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京都・清水寺の「鹿間塚」とは?

仁王門をくぐりぬけて三重塔の前、もしくは鐘楼をの手前に木々が生い茂る築山(つきやま)状態になったところがある。

多くの人は無関心に通り過ぎるだけだが、この場所は古くから「鹿間塚(しかまづか)」と呼ばれた神聖な場所とされる。

⬆️この繁茂した木々の中に鹿間塚がある

⬆️横(階段側)から見た鹿間塚

⬆️鐘楼の右に見えるのが鹿間塚とされる塚

⬆️鹿間塚。鉄柵が巡らされ一般参拝客は入れなくなっている。

”鹿間”と呼ばれる理由

”鹿間”と呼ばれる理由は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、狩猟で仕留めた鹿を手厚く埋葬したのがちょうどこの場所だと云われていることに因む。

田村麻呂が鹿を手厚く当地へ奉納したのには、以下のような経緯と理由がある。

780年頃(宝亀11年/奈良時代末期)のこと。

当時はまだ、征夷大将軍ではなく、宮中を警護する「近衛将藍(このえしょうげん/少将)」だった坂上田村麻呂は、夫人である高子の安産を願うべく、栄養をつけたもらおぅと云う一心にて、鹿肉を求めて音羽山(現在の清水山)へ鹿狩りに来ていた。

しかし鹿を見つけたのは良いが、いざ、仕留めるとなると、うまく行かず、鹿を逃してしまうことになる。

その鹿を追いかけた坂上田村麻呂は、偶然にも滝(音羽の滝)見つけることになり、ここで喉を潤すことになるのだが、この滝では1人の僧侶が修行に励んでいたのだった。

僧侶の名前は延鎮上人(えんちんしょうにん)。

田村麻呂は鹿がドコへ逃げていったのかを知るために延鎮上人に鹿の行方を訪ねる。

すると延鎮上人は、鹿を狩ることの虚しさと殺生禁戒の慈悲を田村麻呂へ講説した。

スッカリかりかりカリフラワー‥‥てなほど、延鎮上人に諭された田村麻呂は、鹿を仕留めようとしたことに対しての罪の意識と生命の尊さ、そして仏道を知り、観音と延鎮上人に帰依することになる。

その後、高子夫人も延鎮上人に帰依することになり、田村麻呂と築いた自らの邸宅(愛の巣💖)を延鎮上人に寄進することを決意する。

こうして田村麻呂と高子の邸宅は寺へと改造されることになり、3方の協力のもとに清水寺が創建されることになるのだが、田村麻呂はこれまでに自らが仕留めた鹿を手厚く葬った。

田村麻呂が鹿を葬った場所とされるのが、この鹿間塚となる。

現在、塚はありんせんが、当初、田村麻呂は塚を築いて丁重に鹿を葬ったとされる。

後世、成就院に入って住職となった月照も次のような句を残してい‥‥申す。プキャォェっ

『紅葉葉の色にいでては 小鹿(さほしか)の 昔を偲ぶ糸口(つま)となりけり』


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その他に鹿間と呼ばれる理由

そもそもの「鹿間」の語源は「州処間(すかま)」が転訛したとも云われる。

州処間の「州処(すか)」とは、川や海の水などで堆積(たいせき)した砂地のこと。

往時の清水寺境内には「轟川(とどろきがわ)」と呼ばれる川が流れており、その川の影響で山から運ばれてきた土砂が堆積(たいせき)した場所という見方もできるが、轟川はの流路としては轟門の前から成就院手前の池へと至り、そこから三年坂の方へと至るので、当地は関係性が薄い。

室町時代の鹿間塚の様子

ちょぃと下掲、画像をご覧くだせぇ。ゼェハァ

この絵図は「清水寺参詣曼荼羅」と呼ばれる室町時代に描かれたものだが、よ〜く見ると三重塔の前に木が生い茂った小山状に盛り上がった場所が見える。ちなみに右は桜の樹だと思われる。

これが往時の鹿間塚とされる。

室町時代から鹿間塚の位置が変わっていない理由を挙げれば、江戸時代以前は帯刀していた時代。

その奥には田村将軍が奉斎される開山堂(田村堂)が建てられているが、この位置関係を以って境内入口にて殺生禁断を強く訴えかけているようにも思える。

なお、この当時は鐘楼が現在の地主神社の奥にあったので描かれていない。

鹿間塚の詳しい場所(地図)

鹿間塚は現在、内部に立ち入ることができない。すなわち、近づいて目視することができなくなってい‥‥‥申す。ガビャっ

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