「茶わん坂」とは?
茶わん坂とは清水寺のメイン参道ともなる五条坂を少し上がった地点から分岐する形で右方へ延びる比較的、新しい坂道となる。(かつては清水道(清水坂)がメインだった)
⬆️横断歩道を渡る時、未だ律儀に手をあげて渡る奴がおる事を知った愛国精神ほど噂の‥‥「茶わん坂入口」と「茶わん坂繁栄会」の看板
茶わん坂はいつ頃できたのか?名前の由来とは?
茶わん坂は1922年(大正十一年)に人間国宝の近藤悠三(1902年〜1985年)が命名したと伝わる。
大正時代に入ると人口増加に伴い、清水寺への参拝者が急増し、その門前街となる商店街を盛り上げるための運動が起こった。
その運動の1つが商店街に名前を付けることだった。
1922年以前の「茶わん坂」は何と呼ばれていた?
大正時代以前までは、ごく普通に「清水新道一丁目」などと呼ばれていたが、昭和に入ると日中戦争や太平洋戦争などの影響もあって参拝どころではなくなり、必然的に参拝客も激減した。
この状況を一新すべく、当時の清水寺の貫主・大西良慶和上が立ち上がり、徐々に以前の殷賑さを取り戻していった。
なお、それより以前の茶わん坂が何と呼ばれていたのかは、つまびらかではないが、元来、このあたりは清水寺の門前町として雑踏を極めていたこともあり、単に「清水寺門前町」などと呼ばれていたと推考される。
(門前町とは、寺院を中心として付近周辺に広がった町のこと)
殷賑極まった清水寺の門前町
今も昔も変わらず、有名寺院には参拝客が多く、人が群集するところには金と物が動く‥‥といぅわけで商売を営むコノヤロー共も群集し、さらに雑踏極まる。
清水寺の場合、戦国時代(室町時代末期)あたりにかけて茶処(ちゃどころ/=茶屋)が諸処にあったらしく、最盛期には100店を数えたらしい。現在の清水寺境内にも茶屋が数店あるが、これも往時の名残ともいえる。
門前町の代表例
- おかげ横丁・おはらい町(山田門前町)※伊勢
- ならまち・きたまち(元興寺門前町)※奈良
- 仲見世商店街※東京浅草
- 仲見世通り※長野・善光寺
「茶わん坂」の歴史
奈良時代より清水新道一丁目を含めた清水坂周辺には「窯元(かまもと/陶磁器を作る工房)」が軒を連ねいたと伝わる。
1629年(寛永六年)、清水寺境内は大火事で灰燼に帰し、辛くも復興に到ったたが、客足は戻らなかった。
ところが1633年(慶長年間/江戸時代)に江戸幕府の普請(当代将軍は三代・徳川家光公)によって再建されると以前にも増して参拝客が訪れるようになり、商売人たちも戻ってきたが、中には製陶して陶磁器を販売する者も出始めた。
清水焼を生み出した茶碗屋久兵衛が「茶わん坂」の名付け親だった?!
やがて清水土産として陶磁器を買う参拝客が増えると、商人の中には一財を築き上げる者も現れるようになったが、中でも茶碗屋久兵衛という人物は、その先駆者として知られた。
久兵衛は、わざと目を惹く色鮮やかな金・赤・青の染め付け(色)をほどこした茶碗や陶磁器を製陶し、五条坂を中心に周辺に構えた数店舗にてそれを販売した。
久兵衛の計画は見事に的中し、物珍しさに久兵衛の茶碗や陶磁器は参拝客の間で話題となり、飛びように売れた。
やがて、久兵衛の陶磁器は「清水焼」と呼ばれるまでに清水寺門前土産として有名になり、定着していくことになる。
以上、すでに察しととおり、「茶わん坂」の名前は人間国宝の近藤悠三が命名したとされるが、その発想のもととなったのは茶碗屋久兵衛の「茶碗」が由来になっていることを忘れてはならぬぅあぃ。
京焼は行基(僧侶)が伝えた?
清水焼のルーツをたどると、それは「京焼」に行きいつくのだが、茶わん坂に立つ看板の中には京焼の紹介として次のように記されるものもある。
「清水一帯に開窯を見るに到ったのは伝へによると、聖武天皇(734年〜743年/奈良時代)の頃、行基菩薩によって清閑寺村 茶碗坂で製陶されたのが起源といわれる」
ただ、この看板に書かれていることはあくまでも俗説であり、現在までの通説では粟田口周辺で焼かれ始めたのが起源だと云われる。
清水焼の詳細については下記ページを要チェック❤️
茶わん坂の場所(ドコからドコまでが茶わん坂??)
茶わん坂の入口
冒頭で述べたよぅに、茶わん坂とは清水五条交差点脇の五条坂を少しあがった先に見える分岐点から右奥へ延びる坂道となる。
つまり、五条坂の当該、分岐点が入口に相当する。
⬆️五条坂をあがってくると上掲写真のような場所がある。右側に延びる道路が「茶わん坂」
茶わん坂の出口
茶わん坂は約500メートルほどの坂であり、現在の仁王門前のように数多の店が軒を連ねているような殷賑さはなく、ヒッソリそりそり髭剃り深剃っちまったぜぃ!‥級にヒッソリとしてい‥申す。が!
往時の名残を偲ばせるが如くに清水焼などの焼き物を販売する店舗もわずかながら姿を見せる。
このように清水焼が廃れた大きな理由の一つに販売コストが嵩むのか、販売価格が高騰したことが大きい。
昭和の初め頃の修学旅行のお土産といえば、清水焼が定番であり、皆々、清水焼を持ち帰った。
ところが現今の清水焼といえば、すでに修学旅行生が手持ちの小遣いで購入できる金額ではなく、高級品として認知されはじめたことがその足枷(あしかせ)ともなっているのだろぅ。
高級品の陶磁器となると他にもライバルがいて、それらと競合していくことになる。
これからも完全に廃れることなく、発展していって欲しいとは願いつつも、現今の物に満たされた時代にドコまでその価値観を消費者層に意識づけることができるのかも、大きなターニングポイントとなってこよぅ。
関連記事一覧
スポンサードリンク -Sponsored Link-
当サイトの内容には一部、専門性のある掲載がありますが、これらは信頼できる情報源を複数参照して掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。