狛犬が2体とも口を開けている理由その1
仁王門の両脇には、通常、他のお寺や神社でもよく見かける、大きな狛犬が鎮座しているのですが、この狛犬がまた変わっているのです。
この狛犬は1944年(昭和19年)に清水寺の崇敬団体や男性信者のみで構成される普門会(ふもんかい)、音羽婦人会などの発願によって造立され奉納された狛犬だと云われています。
通常、狛犬と言えば仏教の教理により一方は口を大きく開けている「阿形(あぎょう)」の形で「物事の始まり」を表し、もう一方は、口を閉じた「吽形(うんぎょう)」の形で「物事の終わり」を意味しているものです。
ところが、この清水寺の狛犬は両方とも「阿形」になっています。
清水寺・仁王門前の狛犬は東大寺・南大門に倣って造立されたもの?
実のところ、清水寺・仁王門前の狛犬像は奈良・東大寺の南大門の左右の間口(仁王像の裏側の間口)に奉安されている狛犬と同形をしており、これは東大寺・南大門の狛犬をモデルにして造立し、明治時代に寄進されたと云ぅ。
なぜ、このように口が大きく開いたような形になったのか?‥‥と言うと、お釈迦様が仏教を説く際の姿を獅子に見立てて「獅子吼(ししく)」として、お釈迦様の教えを大声で世に知らしめる意味合いで造立されたという説があるようです。
しかしまだこの狛犬は次のようなエピソードも伝わっています。
狛犬が2体とも口を開けている理由その2
清水寺周辺には「清水坂」や「産寧坂」など急な坂が多く、一昔前は坂がそれほど整備されておらず、もう少し傾斜があったようです。
往時の清水寺参拝客たちは、これらの坂を登るのに大変苦労して登ったようで、山門(仁王門)に到着する頃、みんな疲れきった表情をしていたそうな。
そこで清水寺にやってくる参拝客は、どうか笑顔で訪れてほしいと言う説なる願いを込め、口を開けてまるで大笑いしたかのような表情にしたと云われる。
ちなみに仁王門の両脇には高さ365㎝の仁王像が立っているのだが、仁王像は「左側が阿形」であるのに対し「右側は吽形」の形をしてい‥‥‥申す。パリャっ
‥‥‥なぜ?
えぇっ?!初期の狛犬像は阿吽だった?現在の狛犬は「2代目の狛犬」??
一説にはこれらの狛犬は当初、阿吽の形で造立され、材質も石ではなく金属でできていたとのこと。
しクぁし!太平洋戦争の折、他の金属製の仏像とともに供出(きょうしゅつ/政府に強制的に没収されること))され、武器などの材料にされてしまった。
そこで石ならいくら戦争になったとしても持ってかれるようなことはないだろうとの考えから、石材を加工して造立した狛犬が造られたと云ぅ。
この大きな狛犬の裏には、そんな人々の様々な思いや計り知れない歴史が秘められていたということ。
えぇっ?!正式には狛犬像ではなく「獅子像」だった?!
実はこの狛犬像は正式には”!狛犬”ではなくこれは「獅子像」になる。
1944年(昭和19年)の造立で、正式には清水寺境内に建つ、地主神社に属する獅子像になるようです。
仁王門の狛犬は実は銅像だった?!
実はこの仁王門の狛犬が造立された当初はなんとぉぅ!「銅製の阿・吽の狛犬」だったそうな。
しかし、第二次世界大戦の時に武器の材料調達のために政府に供出されてしまう。
現在の狛犬は大阪平野区在住の実業家「竹原友三郎」という人物が1911年(明治44年)に寄進した銅像であり、高さ約1.5m、重さ約1000kg(1トン)もの「狛犬像」だったと伝わる。
しかし、1942年(昭和17年)に政府に武器製造の材料とするために没収されてしまい、それから戦後となる1944年(昭和19年)、以下の清水寺へ深い信仰を寄せる団体によって石像として再造され、奉献されてい‥‥‥申す。ギャヒョっ
- 清水寺普門会(ふもんかい)が向かって右側の狛犬像
- 音羽婦人会が向かって左側の狛犬像
仁王門の狛犬像が石像で寄進された理由
実は、再造した狛犬は当時、清水寺貫主であった「大西良慶和上(おおにしりょうけいわじょう)」直々の発願で造立され、発願の際、「次は持っていかれへんように石像でお願いしたいな」とのお言葉が発端となったようです。
⬆東大寺南大門の仁王像の裏面左右に安置される狛犬像
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