京都・清水寺には弁慶伝説や平景清伝説が存在した!!「弁慶・景清に由来する物・一覧」

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京都・清水寺には弁慶伝説や平景清伝説が存在した!!「弁慶・景清に由来する物・一覧」

この京都・清水寺に伝わる伝説では、なんと!あの義経と弁慶の戦いが同じ京都の五条橋だけではなく、清水寺の舞台でも繰り広げられたと伝えられています。

そして清水寺の境内には、弁慶が残したとされる物が随所にありますので、参拝の折には是非!見つけてみてください。

また、平景清(たいらのかげきよ)通称、悪七兵衛(あくしちびょうえ)なる人物の伝説も残されていますので、こちらも合わせてご紹介しています。

清水寺の弁慶伝説と弁慶に由来するモノ・一覧

まず、弁慶とは?

弁慶とは正式には「武蔵坊弁慶」と書いて「むさしぼうべんけい」と読みます。

出自は比叡山の僧兵でかなりガタイが良く、怪力の持ち主であったと伝えられています。

また気性もかなり荒い性格であったとされ、後に仲間内でイザコザを起こして叡山を追い出されています。

追い出された後は、五条橋に立ち、橋を通行する侍にケンカをけしかけて、所持していた刀を1000本集めるという目標を立てます。

有名な「弁慶の刀狩り」です。

刀狩りは順調に進み、999本まで集めた所で「とある強者」に出会うことになり、負けてしまうことになります。

その弁慶を負かした相手こそが源氏のスーパーヒーロ源義経(当時は牛若丸)です。

後に弁慶は義経の力を心底認めて命果てるまで義経を主君と仰ぐことを誓います。そして最後は義経を守るために命を散らすことになります。

尚、この2人の決闘は五条橋で行われたとする説が一般的ですが、清水寺の寺伝では本堂の舞台で最終決戦が行われたと伝わっています。

その最終決闘の際、弁慶が清水寺に留まったとされることから、以下でご紹介するような弁慶にまつわる数々の品々が境内に残されているといったことになります。

弁慶の錫杖

小さい方

長さ:176㎝
重さ:17㎏

大きい方

長さ:2.6メートル
重さ:96㎏

錫杖は2つあり、いずれも弁慶が残したものと伝えらえていますが、大きい方の錫杖は願掛けに清水寺に訪れた鍛冶職人が願いが成就したので奉納したと伝えられています。

錫杖をよく見ると奉納者の名前がズラっと刻まれており、共同で出資して奉納したのが分かります。

錫杖を持ち上げると・・こんなご利益が!

2つの錫杖を持ち上げることで、なんでも、願いが1つ叶うと云われています。

小さい方はなんとかなっても、さすがに大きい方を持ち上げるのは男性でも至難の業だと言えます。

錫杖持ち上げを挑戦される方は、くれぐれもギックリ腰にならないように注意してください!

また持ち上げる際に腹に力が入り過ぎてケツ穴の筋力が緩み、クソをパンツに炸裂させないように注意してください。

弁慶の鉄下駄

長さ:約30㎝
重さ:12㎏

錫杖と同じ木組みの台には巨大な鉄下駄が置かれています。

この鉄下駄はよく見ると左右で大きさが微妙に異なりますが、本来は同寸であったと云われています。

たくさんの参拝者が連日、触れることですり減ってしまったと云われています。

まさに清水寺の歴史を感じることができる下駄であり、同時にたくさんの人々から篤い崇敬が寄せられていることを物語る下駄とも言えます。

この鉄下駄は武蔵坊弁慶が履いていたと伝わる鉄下駄で、触れるだけで浮気をしなくなると云われています。

おイタが過ぎて困った旦那や彼氏を持つ女子諸君は是非!旦那や彼氏に首輪をして無理矢理にでもこの鉄下駄を触らせてみてください。

尚、浮気がなくなるとされる理由は諸説あるようですが、一説では弁慶の魂がこの鉄下駄にも宿っていて、触れることで弁慶の男気がある律儀な性格が身体に移り込むと云われています。

弁慶の爪痕(指跡)

本堂の東西の床にある横材(腰長押/こしなげし)には、何かで引っ掻いたような尾を引いたようなキズが付けられています。

このキズは太くて深いので、古来、怪力の持ち主であった弁慶が指で引っ掻いた痕だと云われています。

本当の話かどうかは定かではありませんが、時代関係を考えると辻褄が合わないことが分かります。

例えば、弁慶が生きたのは平安時代であり、現在の本堂が造営されたのが江戸時代初期になるので、仮に弁慶の爪痕とするのであれば平安時代の木材が現在の本堂に据えられているのは辻褄が合いません。

一説では、「堂々めぐり」というものが江戸時代に流行した時に、本堂の周りを堂々めぐりしながら「お百度参り」をする人が増えて、その人々が木串や木の枝を手に持って本堂の壁面に当てて何度も回ったために、このようなキズが付いたと云われております。

木串や木の枝を持って壁面に当てながらグルグル回った理由は、お百度参りともなれば昼夜問わずに連日祈りながら回ることになり、真っ暗な夜でも迷わないようするためです。

尚、この弁慶の爪痕(指跡)は、現在、舞台を越えた先の地主神社の入り口付近の本堂壁面で見ることができます。

 

「弁慶の爪痕(指跡)」の詳細については以下の別ページでもご紹介しています。

京都・清水寺で「堂々巡り」をすれば願いが1つ叶う?!

弁慶の足跡(仏足石)

同じく境内・朝倉堂の近くには幅約1メートル、高さが約50㎝ほどの扇形の石が置かれています。

そしてこの石をよく見ると、なんと!巨人の足跡のようなクソでかい足跡になります。

実はこの足跡も巨体の持ち主であった弁慶の足跡と云われているからです。

またその他、後述する「平景清(たいらのかげきよ)の足跡」だとも伝えられているようです。

しかし弁慶の足跡だとすると、上述した鉄下駄とこの足跡の大きさを比べると足跡の方が大きいことになり、辻褄が合わなくなります。

実はこれは弁慶の足跡でもなければ景清の足跡でもなく、「仏足石(ぶっそくせき)」と呼ばれるものになります。

仏足石とは、この清水寺にだけにある特別なものではなく、日本全国の至る場所で見ることができ、これは「お釈迦様の足跡」だと云われるものです。

大抵の仏足石にはお釈迦様の足の指紋が刻まれているのですが、清水寺の仏足石はその指紋が薄れて消えかかっているので足跡に見えます。

消えかかった理由とは、カンの良い方ならお分かりかと思いますが、たくさんの参拝者が手で擦る(さする)ためです。

手で擦る理由とは、なんでも仏足石に触ることで足腰の病が平癒に至り、足の病気をしなくなると云われています。

 

「仏足石」の詳細については以下の別ページでもご紹介しています。

えぇっ?!京都・清水寺には「仏足石」という仏様の足跡が本当にあった!?

京都・清水寺「朝倉堂」【重要文化財】【洛陽三十三所観音霊場第13番札所】

やっぱり実在していたのか!!京都・清水寺の裏話と「とんでもない七不思議」

平景清に由来するモノ・一覧

平景清とは?

「平景清」とは「たいらのかげきよ」と読み、もとは名門・藤原氏の一族であることから藤原景清とも呼ばれています。

後に平家の武将として仕えたことで功名を立て、平性を名乗ることを許されて「平景清」と名乗っています。

また、父親である藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が藤原南家の出自であり、後に伊藤氏を名乗った経緯から、別名で「伊藤景清」とも呼ばれています。

しかし上述した以外で景清の別名でもっとも有名な別名があります。

どのような別名かお分かりになりますでしょうか?

ちょっと考えてみてください。

・・

・・

惜しい!残念無念!

正解は「悪七兵衛」です。

「悪七兵衛」は「あくしちびょうえ」と読み、これは「悪人」や「悪党」と言った意味合いではなく、残忍な悪党も逃げ出すくらいの「剛の者」であることを意味するようです。

しかし腕の立つ景清も源平合戦では義経率いる源氏軍に連敗を期し、ついに壇ノ浦で主家が滅亡することになります。

その後の景清の足取りとしては以下のような説が述べられています。

  1. 壇ノ浦の戦いで捕縛され、清水寺近くの鳥辺山の「牢の谷の監獄」にブチ込まれてそのまま生涯を終えた。
  2. 壇ノ浦の戦いで捕縛され、清水寺近くの鳥辺山の「牢の谷の監獄」にブチ込まれた際に観音像を造り、脱獄した後に清水寺へ奉納した。
  3. 壇ノ浦の戦いで捕縛され、清水寺近くの鳥辺山の「牢の谷の監獄」にブチ込まれたが脱獄し、「源氏の世は見られぬ」と言い、自らの目ン玉を指でくり抜いて清水寺へ奉納した。
  4. 壇ノ浦の戦いで逃げ延び、清水寺や東大寺に潜んで頼朝暗殺を企てるが失敗して捕縛され、上記の牢の谷の監獄へブチ込まれて獄死した。
  5. 壇ノ浦の戦いで捕縛され、後の鎌倉幕府13人衆の1人となる「八田知家(はったともいえ)」の邸宅に預けられ、飲まず食わずの末に餓死した。

現在までの景清の足取りとして広く知られているのが、「壇ノ浦の戦いで逃れて清水寺や東大寺へ潜んで頼朝暗殺を企てた」という説です。

源頼朝は熱心な神仏の崇敬者であったために、度々、寺社へ参拝しては多額の奉納を行ったりしています。

また実際に清水寺の他、奈良・東大寺(東大寺・転害門)にも、景清が頼朝を狙って境内に潜んでいたという話も残されています。

以下でご紹介するのは清水寺に残る景清の話です。

景清の爪彫り観音像

清水寺で拝観料金を納めるまでの、入り口近くの三重塔の付近、もしくは三重塔の後方に位置する随求堂(ずいぐいどう)の前には、小さな石碑群が並んでいます。

その石碑群の1つに「かげきよつめがたくわんぜおん」と刻まれた石碑が見えます。

この石碑の文字は”ひらがな”で刻まれており、これを漢字にすると「景清爪型観音(かげきよつめがたかんのん)」となります。

この「景清爪型観音」の石碑の後ろにはもう1つお墓のような背の低い石碑があります。

このお墓のような石碑を上から順に見ていくと「宝珠」→「笠」→「火袋(ひぶくろ)」→「中台」が備わっており、これは灯籠であることが分かります。

この灯籠の傘の下にわずかですが、横長の穴が空いており、これが火袋の部分になります。ちなみに火袋とは「灯りとなる火を入れる部分」です。

そしてこの火袋の中には、なんと!平景清、通称・悪七兵衛が「牢之谷の監獄」にブチ込まれていた時に、自らの爪で彫ったとされる激スモールな観音さまが収められていると云われています。

「牢之谷の監獄」とは、清水寺近くにかつて存在した「鳥辺野(とりべの)の鳥辺山(とりべのやま)」にあったとされる監獄で、清水寺の寺伝によれば壇ノ浦の最終決戦で捕縛された後、この監獄にブチ込まれて臭い飯を食べていたようです。

ただし、この悪七兵衛に関してはもう1つ説があり、実は壇ノ浦の最終決戦で捕縛されずに逃げ落ちて、この清水寺に潜伏して頼朝の首を狙っていたという説もあります。

頼朝は寺社に対して異常なほど篤い崇敬を寄せていたことから、頼朝が来るという知らせを事前に察知しての行動だと考えられます。

「景清の爪彫り観音」・・本当に見える??

実はこの観音像は爪で刻まれた小さな観音像であることから、間近で見ても分かりません。

火袋の内部は薄暗い上に爪で彫った小さい観音像でもあり、この上、経年劣化も進行しているので分かりません。

見るコツとしては、よく晴れた日の午前中に訪れると見えることがあるようです。

どうしても見てみたい方は清水寺へ直接、問い合わせて見るコツを聞くなりしてみてください。ウフ

終わりに・・

いかがでしたか?

清水寺に今も息づく弁慶伝説をご紹介しました。

しかし実のところ、このような弁慶伝説とは日本中の至る場所に残されており、それほど弁慶という人物が庶民層の間で良き印象で受け継がれていたことを裏付ける証拠と言えます。

また弁慶については「架空の人物である」と言う説もあります。

信じる信じないは、あなた自身の御心によるものですが、清水寺へ訪れた際は是非、いつも以上に信仰心を露わにして、霊験あらたかなありがたいご利益を授かってください。

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