京都・ 清水寺の本当の歴史を年表で簡単に解説します
以下では、清水寺の歴史を年表でご紹介した後、その創建に至った経緯や、衰退と復興、世界遺産登録に至った経緯などについて、詳しく解説いたします。
これを読めば、あなたも今日から清水寺博士です!
項・一覧
清水寺の年表と歴史・一覧
年月日 | 内容(起こったこと) |
---|---|
778年(宝亀9年) | 子島寺(奈良)賢心が行叡居士と出会い清水寺を草創する。 |
780年(宝亀11年) | 坂上田村麻呂が賢心に出会い、嫁半と共に仏門に帰依する。 御本尊「十一面千手観音像を祀る。 |
798年(延暦17年) | 坂上田村麻呂が御本尊の脇侍として地蔵菩薩・毘沙門天像を祀り清水寺の額をかかげる。 |
810年(弘仁元年) | 時の天皇より鎮護国家の寺院として認知され「北観音寺」法号を下賜される。この年より「清水寺」の横額をかかげる。 |
811年(弘仁2年) | 坂上田村麻呂、死去。(5月23日) |
821年(弘仁12年) | 延鎮上人、死去。(6月17日) |
847年(承和14年) | 葛井親王(かどいしんのう)、三重塔を創建 |
937年(承平7年) | 轟門に多聞天と持国天が奉納される |
999年(長保1年) | この頃、真言宗と法相宗の兼宗となる |
976年(貞元元年)6月 | 三重塔、大地震で倒壊 |
1063年(康平6年) | 8月、火災により堂舎群が焼失(上記、三重塔も再び焼亡) |
1091年(寛治5年) | 本堂含め、火災により堂舎群が焼失。舞台の存在が確認される(麻呂の蹴鞠/けまり) |
1094年(嘉保元年)10月 | 奈良・興福寺の僧侶「隆禅」が導師となり、三重塔の落慶供養が執り行われる。以降、1103年までに伽藍の諸堂が再建される。 |
1113年(天永4年) | 祇園社(現・八坂神社)の神官や比叡山の僧兵が清水寺境内へ押し寄せて境内堂塔を破壊、焼き討ちにする |
1146年(久安2年) | 4月に叡山の僧兵が押し寄せて堂舎群が焼失 |
1165年(永万元年) | 8月、叡山の僧兵が再び押し寄せる。堂舎群が焼失 |
1173年(承安3年) | 11月、本堂を含め、堂舎群が焼失 |
1188年(文治4年) | 浄土宗の元祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が阿弥陀堂で参籠するために不断念仏する |
1192年(建久3年) | 鎌倉幕府が開かれる |
1193年(建久4年)4月 | 境内、諸堂のほとんどが再建され旧容が回復される。 |
1220年(承久2年) | 本堂、釈迦堂、三重塔が焼失 |
1259年(正元元年) | 4月、三重塔、子安の塔、大門、西門、地蔵堂(善光寺堂)などが焼失 |
1274年(文永11年) | 12月、三重塔、子安の塔、大門、西門、馬駐などが焼失。この頃、現在の伽藍の様相が確立される |
1333年(元弘3年) | 鎌倉幕府滅亡 |
1335年(建武2年) | 牛若丸(源義経)と弁慶が清水寺舞台で決闘する(義経記) |
1336年(建武3年) | 足利尊氏が参拝に訪れ、自らが出家するので跡継ぎの直義の守護を頼んだ願文を奉納する |
1338年(延元3年/建武5年) | 室町幕府が開かれる |
1349年(正平4年) | 2月、仁王門、本堂、など諸堂が焼失 |
1406年(応永13年) | 9月、堂塔(開山堂、西門、愛染堂)などが焼失 |
1469年(文明元年) | 応仁の乱の兵火により清水寺伽藍大炎上。仁王門、馬駐、子安塔、鐘楼、春日社以外の堂塔はすべて焼失。 |
1477年(文明9年)頃 | 「馬駐(うまとどめ)【重要文化財】」の再建が完了。 |
1478年(文明10年) | 仁王門【重要文化財】の再建が完了。 |
4月、「梵鐘(ボンカレー、間違い!ぼんしょう!=鐘)【重要文化財】」の再建が完了。 | |
1484年(文明16年) | 成就院の前進となる「本願堂」が創建。 |
1500年(明応9年) | 「子安塔(こやすのとう/泰産寺)【重要文化財】」の再建が完了。 |
1510年(永正7年) | 朝倉貞景、法華三昧堂(現・朝倉堂)を寄進。 |
1517年(永正14年) | 清水寺縁起絵巻(土佐光信作画・中御門宣胤・筆)が完成 |
1520年(永正17年) | 応仁の乱後の清水寺伽藍の様子が描かれた「清水寺参詣曼荼羅」が描かれる。 |
1573年(元亀4年) | 室町幕府滅亡 |
1582年(天正9年) | 本能寺の変が勃発、織田信長が散る |
1600年(慶長5年) | 関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康)が勝利 |
1607年(慶長12年) | 「鐘楼【重要文化財】」が再建される |
1629年(寛永6年) | 成就院の出火により再び清水寺伽藍大炎上。堂塔ことごとく焼失 |
徳川家光公および東福門院の発願により清水寺伽藍の再建工事が開始される | |
1631年(寛永8年) | 釈迦堂【重要文化財】の再建が完了。 |
西門(さいもん)【重要文化財】の再建が完了。 | |
1632年(寛永9年) | 轟門(とどろきもん)【重要文化財】の再建が完了。 |
北総門(きたそうもん)【重要文化財】の再建が完了が完成。 | |
三重塔【重要文化財】の再建が完了。 | |
阿弥陀堂【重要文化財】の再建が完了。 | |
1633年(寛永10年) | 清水寺・本堂(舞台)【国宝】の再建が完了。 |
成就院【国指定史跡名勝天然記念物】の再建が完了。 | |
開山堂(田村堂)が完成。重要文化財。本堂と同時に再建。 | |
経堂【重要文化財】の再建が完了。 | |
朝倉堂【重要文化財】の再建が完了。 | |
奥の院(奥の千手堂)【重要文化財】の再建が完了。 | |
1639年(寛永16年) | 成就院・庭園の再築完了。 |
1718年(享保3年) | 盛松権律師、慈心院を再興する。 |
1733年(享保18年) | 随求堂(慈心院)に御本尊・大随求菩薩坐像が奉安される。 |
1738年(元文3年) | 本堂の御本尊「十一面観音像」の御開帳が初めて行われる。以降、33年周期の御開帳が開始される。 |
1868年(明治元年) | 神仏分離令の影響で清水寺の寺領が10分の1に減らされる。同時に地主神社が独立。春日社の名前が「鎮守堂」に改名される。 |
1885年(明治18年) | 真言宗を廃して法相宗のみの所属となる |
1897年(明治30年) | 本堂が国宝指定を受ける。 |
1903年(明治36年) | 清水寺の御本尊・木造十一面観音立像が国宝指定を受ける。 |
1908年(明治41年) | 西門、鐘楼が特別保護建造物(現・重要文化財指定)を受ける。 |
1911年(明治44年) | 仁王門近くの子安塔が境内南の丘(現在の場所)へ移築される。 |
1914年(大正3年) | 大西良慶和上が成就院へ入る。 |
1915年(大正4年) | 大西良慶和上が盂蘭(うら)盆法話を恒例行事に定める。 |
1943年(昭和18年) | 成就院庭園が「史跡名勝天然記念物」の指定を受ける。 |
1965年(昭和40年) | 清水寺、北法相宗を立宗し総本山となる。大西良慶和上が北法相宗の初代管長に就任。同時に法相宗の所属から外れる。 |
1966年(昭和41年) | 仁王門、三重塔、奥の院、阿弥陀堂、釈迦堂、子安塔が重要文化財の指定を受ける。 |
1972年(昭和47年) | 集中豪雨によって「釈迦堂」が倒壊。 |
1975年(昭和50年) | 釈迦堂の再建が完了する。 |
1978年(昭和53年) | 梵鐘が重要文化財指定を受ける。 |
1984年(昭和59年) | 開創1200年記念事業の一環として大講堂が造営される。 |
1989年(平成元年) | 開創1200年記念「清水寺展」が東京で開催される。 |
開創1200年記念「清水寺展」が1991年(平成3年)まで日本全国の主要都市にて開催される。 | |
1990年(平成2年) | 本堂舞台、奥の院舞台、全面改修工事 |
1994年(平成6年) | ユネスコ世界文化遺産の指定を受ける。 |
2000年(平成12年) | 本堂の御本尊の御開帳が開催される(3月3日から12月3日) |
2003年(平成15年) | 奥の院御本尊御開帳が開催される(3月7日から12月7日) |
2008年(平成20年) | 「平成の大改修」が開始される。対象堂舎:馬駐、北総門、朝倉堂、子安塔、阿弥陀堂、奥の院、轟門、釈迦堂、本堂(9棟) |
2010年(平成22年) | 馬駐の再建(解体修理)が完了する。(工期:平成20年8月~平成22年11月) |
北総門の再建(補修)が完了する。(工期:平成21年1月~平成22年7月) | |
2013年(平成25年) | 朝倉堂の再建(解体修理)が完了する。(工期:平成22年3月~平成25年8月) |
子安塔の再建(解体修理)が完了する。(工期:平成21年2月~平成25年8月) | |
奥の院の再建(大改修)が完了する。(工期:平成23年3月~平成29年6月) | |
阿弥陀堂の再建(解体修理)が完了する。(工期:平成23年3月~平成29年6月) | |
2016年(平成28年) | 轟門の再建(解体修理)が完了する。(工期:平成25年1月~平成28年7月) |
釈迦堂の再建(補修・屋根葺き替え)が完了する。(工期:平成25年1月~平成30年7月) | |
2021年(平成33年) | 本堂の再建(大改修)完了予定。(工期:平成29年1月~平成33年※予定) |
京都・清水寺の歴史を簡単に説明!
奈良時代
「延鎮」と「行叡」の出会い【清水寺の起源】
奈良時代のことです。大和国(現在の奈良県高市郡/高取町観覚寺)に位置する「子島寺(こじまでら/南観音寺)というお寺に「賢心(けんしん/後の延鎮上人)」という僧侶がいました。
子島寺で修行を重ねていた賢心は、ある日の夜、夢をみることになります。その夢とは、東山(現在の清水山)山中へ入り、「音羽の滝」を訪ねる夢です。
翌朝、目が覚めた賢心は、これは夢ではなく”仏の導きである”と考え、夢で見た通り音羽の滝へ向かう旅に出ました。
そして清水山山中へ入った賢心は、そこで齢200歳ほどの「行叡居士(ぎょうえいこじ)」という修行者に出会うことになります。
行叡は音羽の滝でにて滝行に修していましたが、賢心と会うなりこう言います。
「そなたがここに来るのを長年心待ちにしていた。ふぉっふぉっふぉっ。..腹減った。ゴホっ。」
「私はこれから東の方へ旅立つ。あとをよろしく頼んだ。」
と、このように賢心に告げて、1本の木(霊木)と自分が住まいにしていた「庵」を残し煙のようにスっ・・と、消えたそうな。
ここで、子島寺で見た夢のことを思い出した賢心は齢200歳を超えた老人が滝行していることを不思議に思い、行叡が「観音の化身」だと悟ります。
そして、行叡が残していった「霊木(れいぼく)」に千手観音像を彫り、行叡が残した草庵に住むことにしたのです。
以降、賢心は行叡の言葉どおり、後を継ぐかのように修行を重ねる日々を送ります。
時に778年(宝亀9年)のことであり、この賢心が住んだ草庵こそが現在の清水寺の起源とされ、現在では「奥の院」と呼ばれる場所となります。
賢心と坂上田村麻呂の出会い【清水寺創建】
行叡が去ってから修行を重ねて2年経ったある日、賢心はいつものように音羽山で修行していたところ、のちに征夷大将軍となる「坂上田村麻呂」と出会います。
清水寺はこの「坂上田村麻呂」とその嫁の「三善高子(みよしたかこ)」との出会いにより、現在にような世界遺産の指定を受けるまでの大寺院への道を歩むことになります。ウフ
この時、田村麻呂は妊娠した嫁ハンの三善高子に栄養を付けさせるために、鹿肉を求めて音羽山に入っていました。
音羽山に入った後、田村麻呂は見事、鹿を狩ることに成功しますが、その時に音羽山で修行をしていた賢心と出会うことになります。
賢心は、鹿を狩った田村麻呂に対して命の尊さと殺生の罪を説くと、田村麻呂はその話に聞き入ってしまいます。
その後、嫁ハンの待つ自宅へと到着した田村麻呂は嫁ハンに音羽山で起こった出来事を話します。
嫁ハンはその話を聞いて鹿を狩らせた己を恥じ「賢心さんが持つ観音像を祀るために我が家を捧げましょう」と言い、後日、田村麻呂と共に再び賢心のもとを訪れて、仏門に帰依することを誓うのです。
賢心は田村麻呂と嫁ハンの帰依を認めて、田村麻呂の自宅を「観音像」を祀るための「本堂」としました。これが現在の清水寺・本堂の前身であり、つまりは起源となります。
平安時代
「征夷大将軍・坂上田村麻呂」誕生!
一方、この頃の田村麻呂は、日本初の征夷大将軍と称される「大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)」の副将軍を務めていました。
田村麻呂の武勇は凄まじく、次々と実績を積み上げ、いつの間にか田村麻呂は軍しいては国家の軍務の中心的な人物となっていました。
そしてある時、大伴弟麻呂は田村麻呂を陣舎に呼び寄せて、自らが持つ征夷大将軍の号を田村麻呂へ譲ります。
後に田村麻呂は桓武天皇から「蝦夷平定(現在の北海道の平定)」を命じられ、正式に「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任ぜられることとなります。
蝦夷平定
蝦夷に付いた田村麻呂は連日、祈願を続け、2人の仏の化身の加護を受けることになります。
- 「毘沙門天の化身」である「若武者」
- 「地蔵菩薩の化身」である「老僧」
この仏身の加護を得た事で、田村麻呂は次々に襲いかかる敵軍を退け快進撃を続けることになります。
当時の蝦夷にも勇猛な族長が2人存在し、名前をアテルイとモレと言いました。
2人の将軍はこれまで幾度も蝦夷を平定しに訪れた朝廷軍を撃退してきましたが、田村麻呂には次々に侵略を許してしまい、ついに本拠地となる地域に城を築かれてしまいます。
本拠地に城を築かれたことで動きが取りづらくなり、いよいよ負けを認めて田村麻呂に降伏することとなります。
そして事実上、田村麻呂は蝦夷を平定することに成功します。
賢心、”延鎮上人”と名乗る!
京の都へ戻った田村麻呂は、毘沙門天と地蔵菩薩に感謝の意を表し、金色の十一面観音像と、さらに自らを守護してくれた毘沙門天と地蔵菩薩の像も造立して「賢心」に捧げます。
「賢心」は、田村磨呂から捧げられた3尊を本堂(田村麻呂の元・邸宅)に祀ることにして、田村麻呂と力を合わせて本堂の改築に着手します。
この本堂は補陀落山と呼べるに相応しく、音羽の滝の北側の崖に面して懸造りの堂舎が築かれます。
この時、賢心は「十一面観音像」を清水寺の御本尊と定めて、田村麻呂を加護した「毘沙門天」と「地蔵菩薩」を脇侍と位置づけて本堂に祀ることにします。
そしてこの時、法号を上述、子島寺の別称「南観音寺」に対して「北にある観音寺」として「”北観音寺”」と定めて、さらに、音羽の滝の”清滝”の意味合いも重ねて「北観音寺・清水寺」と号します。
一方、賢心も名前を改め、「延鎮(えんちん)」と名乗ることになります。時に798年(延暦17年)のことです。
これが清水寺の起源となった3人の物語となります。
このことから、清水寺では上記の物語の3人を以下のように位置づけています。
- 行叡を「元祖」
- 延鎮を「開山」
- 田村麻呂を「本願」
清水寺、天皇御用達の御願寺に定められる【清水寺が有名になるキッカケ】
805年(延暦24年)になると時の天皇である桓武天皇は、清水寺を自らの御願寺と定めて清水寺に寺領を与えて伽藍を築くことを勧めます。
810年(大同5年)には鎮護国家の寺院としても定められ、時の天皇である「嵯峨天皇(さがてんのう)」から「北観音寺」の宸筆(しんぴつ)が贈られます。
清水寺、「法相宗」の寺院へ
実は清水寺は創建当初は十一面観音を祀りながらも、宗派を持たない寺院として無宗派を貫いていました。
しかし、天皇の御願寺として「鎮護国家の寺院」として位置づけられたことで、比叡山延暦寺が清水寺を傘下に治める動きをみせたため、同様に鎮護国家の寺院として名を馳せていた奈良・興福寺の傘下に入ることになります。
傘下に入ったことで興福寺の宗派である法相宗に属することとなります。以降、平安中期になると真言宗にも属し、「法相宗と真言宗の兼宗」という様相を形成していくことになります。
以降、真言宗とは明治維新(1869年頃)まで、法相宗とは1965年(昭和40年)まで縁が切れること無く、すなわち、明治維新(1869年頃)から昭和40年まで再び「法相宗の寺院」として歩んでいくことになります。
その他、坂上田村麻呂もこの平安時代に出世を果たし、参議、中納言、大納言へと立身出世しており、田村麻呂の出世と並行して武家の崇敬が清水寺に寄せられるようになっていきます。
鎌倉時代
1188年(文治4年)、阿弥陀堂が浄土宗の始祖である「法然上人」の日本初となる常行念仏の道場となっています。
また、この鎌倉時代に、およそ現在みることのできる清水寺の寺観・伽藍の様相が確立していたとされています。
室町時代
応仁の乱後、決死の勧進活動で清水寺を復興に導いた人物
応仁の乱の際、清水寺は兵火によって伽藍全体がことごとく焼失していますが、それほど時を経ずに見事、清水寺の伽藍は再建に至っています。
しかし忘れてはいけないのが、この再建にはある人物の決死の努力が実を結んでいた事実はあまり知られていません。
その人物とは「願阿弥(がんあみ)」という「時宗(じしゅう)」という宗派の僧侶です。
この当時、願阿弥の人気は凄まじいものがあり、清水寺を総括する興福寺も正式に願阿弥を清水寺再興の勧進職に任命して、勧進活動にあたらさせています。
願阿弥はその人気を用いて資金を集めては再建、はたまた資金を集めては再建・・を繰り返し、見事!清水寺を復興に導いています。
江戸時代
創建より伝わる十一面観音を焼失??
1629年(寛永6年)、境内の成就院から失火が起こり、なんと!!清水寺の伽藍は再びことごとく焼失してしまいます。
この火事は応仁の乱と並ぶほどの規模の大火事で、御本尊「十一面観音像」も燃えてしまったと噂が立つくらいの大規模火災となりました。
しかしこの後、再び時を経ずして再建されることになりますが、この再建にもっとも尽力したのが時の将軍・徳川家光公とその妹であり、後水尾天皇の妻である「東福門院(とうふくもんいん)」です。
東福門院は清水寺の復興を兄・家光公へ提案し、家光公もこの願いを聞き入れる形で清水寺へ巨額の資金提供を行います。また、清水寺自体もこれに甘えじと1738年(元文3年)に絶対秘仏であった御本尊の御開帳を歴史上、初めて行っています。
清水寺初の御本尊の御開帳はわずか3日間だけだったのですが、予想外の人々が清水寺へドっと押し寄せ、霊験あらたかな御本尊の顔を拝むため、日本全国から清水寺へ殺到することになります。
この御開帳によって莫大な資金を得た清水寺は、観音様の縁日と関わりの深い「33」の数字をとって、以降、33年周期で御開帳を行うことを定めています。
明治時代
広大な寺領が10分の1に!
明治初頭に差し掛かると、政府によって神仏分離令が出されることになり、神道重視の思想が蔓延しはじめます。
さらに神仏分離令から派生して廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の思想が生まれ、仏堂や仏像は盗難、売買、焼かれたりするなど、混迷の時期を迎えることになります。
そしてこの余波は清水寺にも訪れ、かつて広大な敷地を誇った寺領も、わずか10分の1程度の寺領を残し、すべて没収されることとなります。
真言宗の所属から外れる
1885年(明治18年)になると真言宗の所属から外れ、法相宗のみに所属する形になります。
昭和時代
清水寺の衰退
清水寺は古来、檀家(だんか)を持たない寺院でしたので、寺領を没収されるとたちまちの内に資金繰りに困窮することになります。
存続のために境内の一部の堂舎や仏像は売り払い、さらに一部の土地まで売り払うことで、何とか当面をしのぐための資金を得る状態にまで陥ります。
しかしこの窮地を救う人物があらわれます。
その人物こそが「興福寺第231世・貫主・大西良慶(おおにしりょうけい)和上」です。
大西良慶和上は興福寺の貫主と兼務という形で、まず、清水寺の成就院を再興し、以降、成就院を清水寺復興の中心地として定めます。
1965年(昭和40年)には、清水寺を従来の法相宗から独立させて「北法相宗」を立ち上げ初代貫主に就任します。
以降、初代貫主として多くの精力的な活動を多面的に行い、見事、清水寺を再興に導いています。
平成時代
清水寺、世界文化遺産登録へ・・【清水寺の人気が不動になる】
1994年(平成6年)には「古都京都の文化財」の主翼格として、日本で5件目の世界遺産指定を受ける大業を成します。
2000年(平成12年)には、33年周期の御開帳の規則に則り、本堂・御本尊の御開帳が3月3日から12月3日開催され、続く、2003年(平成15年) には、3月7日から12月7日の日程で奥の院の御本尊の御開帳が開催されています。
そして、2008年(平成20年) には、「平成の大改修」と銘打って、境内の堂塔、約9棟を対象に屋根の葺き替えや解体修理が行われています。
現在も工事は続いており、平成33年・春の終了予定で再建工事が進められています。ウフ