清水寺・北総門内の西郷隆盛の軌跡(月照・信海兄弟歌碑&西郷隆盛弔詩碑)

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清水寺・北総門内の西郷隆盛の軌跡(月照・信海兄弟歌碑&西郷隆盛弔詩碑)

北総門をくぐり抜けた奥には大きな3つの石碑が壁のように建てられているのが見える。

これらの石碑は「弔詞碑(ちょうじひ/死者を弔う言葉が書かれた石碑)」と呼ばれる石碑であり、以下の人物の弔詞碑となりゅ。

向かって左端の石碑(信海辞世歌)

月照上人の弟25代住職「信海上人(しんかいしょうにん)」の辞世歌

碑文

西の海あずま(東)のそら(空)とか(変)はれどもこころはおなじ君が代のため

中央の石碑(忍向翁書歌碑)

成就院の24代目住職「忍向(雅号:月照上人/げっしょうしょうにん)」の翁書歌

碑文

大君のためにはなにかおしからん薩摩の迫門(せと/瀬戸)に身は沈むとも

向かって右端の石碑(西郷隆盛公記念碑)

西郷隆盛(1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日))が最愛の友・月照の忌日に詠んだ句。

西郷隆盛は薩長同盟を結んで戊辰戦争を先導、討幕の指導者として明治維新の三傑の1者と並び称された。

  • 西郷隆盛(薩摩藩)
  • 大久保利通(薩摩藩)
  • 桂小五郎(長州藩

新政府においては参議・陸軍大将に就任したが、西南戦争を発起し敗北。鹿児島の城山にて自刃して散った。享年49歳。

碑文

相約して淵に投ず 後先無し

豈図(あにはか)らんや 波上再生の縁

頭(こうべ)を回(めぐ)らせば 十有余年の夢

空しく幽明を隔てて 墓前に哭(こく)す

月照和尚の忌日に賦す 南洲(南洲翁=西郷隆盛のこと)




3方の石碑が当地にある理由

1853年(嘉永6年)浦賀にペリー提督が来航し、幕府が開国を決断する中、それに反対しようとする「攘夷派の藩士」たちが行動を起こします。

この騒動は、都の朝廷までもを巻き込み「尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう/天皇中心の政治を考える運動」が勃発します。

そして月照上人と信海上人も、この攘夷派運動に加担する事になり、「攘夷派の藩士」や「貴族たち」と連絡を取り合い、盛んに密会を行います。

その密会した相手の1人が薩摩藩の西郷隆盛です。

その後、1858年から翌年にかけて、江戸幕府は攘夷派を厳しく取り締まるため「安政の大獄(あんせいのたいごく)」と呼ばれる御布令(法律)を打ち出し、次々に攘夷派が捕縛され処刑されていった。

そして幕府の捜査の手は月照上人、信海上人、西郷隆盛にも及んだ。

この時、月照上人だけは捕縛され京都を追われる(追放)ことになりますが、月照上人はおそらく最終的には処刑される運命を悟り、西郷隆盛とともに鹿児島湾に入水し、その生涯に幕を下ろすことになります。

月照上人はこの時の胸中を上記のような歌に詠みあらわしてい‥‥‥申す。グスっ (泣きたくなるだけに)

大君のためにはなにかおしからん薩摩の迫門(せと/瀬戸)に身は沈むとも

しかしこの後、西郷隆盛だけは奇跡的に救出され、明治時代まで生き延びることになる。

その後、月照上人17回忌追善法要に際し、京都より参列した元・忠僕の大槻重助に次のような歌を託してい‥‥‥申す。グスグスっ (さらに悲しみが込み上げた様子を表現)

相約して淵に投ず(互いに手を取り合って薩摩の海に身を投じたが)、後先無し。豈(あに/どうして)図らんや波上再生の縁。頭を回(めぐ)らせば
十有余年の夢。空しく幽明(ゆうめい/冥土と現世)を隔てて墓前に哭(ごく/声を上げて泣く)す。

なお、一時的に捕縛を免れて(まぬがれて)兄の後を継いで成就院を守っていた信海上人も幕府によって捕縛され、間もなく監獄の中で獄死することになる。

以上、つまりこれらの石碑は上記の御3方を祀った石碑と言うことになる。

月照・信海兄弟歌碑&西郷隆盛弔詩碑の場所(地図)

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