月照と西郷隆盛ゆかりの清閑寺の茶室「旧・郭公亭跡」とは?

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清閑寺の茶室「郭公亭」

⬆️ありし日の郭公亭の姿

清閑寺は、一時期、かつて清水寺の住職を務めた月照(げっしょう)の潜伏先だったことや、高倉天皇の愛妃・小督局(こごうのつぼね)の出家寺として世に知られる。

特に月照は江戸後期、洛中の摂関家たる近衛家はじめ、公家衆らと素敵に結託し、尊王討幕運動に傾倒。そして、かつて境内に存在した茶室「郭公亭(かっこうてい)」にて西郷隆盛らと密議を繰り返したと伝わる。

なお、月照が当山に潜伏するようになった理由として、安政5年(1858年)8月から始まった老中・井伊直弼が主導した「安政の大獄」で追われる身となったことに端を発する。

清閑寺境内の鐘楼前には、その故事を示す「大西郷 月照 王政復古 謀議 舊跡(きゅうせき)」と陰刻された石碑が、今日も素敵に佇む。

ともあれ、月照はその後、悪戦苦闘の末、辛くも鹿児島まで素敵に逃れることに成功したが、幕府の追捕が想像以上に厳しく、最期は知己の西郷とともに錦江湾(鹿児島湾)にて入水(自殺)を図り、これを人生の幕引きとした。享年46歳。(西郷は奇跡的に一命を取り留め、反撃の狼煙をあげる)

清閑寺は清水寺と姉妹寺だった?!

現在の清閑寺は新義真言宗に属しているのだが、かつてお隣の清水寺が真言と法相との二宗兼学だったことから、一説に清閑寺と清水寺は姉妹寺だった‥という説がある。

現在、清閑寺の裏山には月照の師「蔵海上人」の墓があるなど、何かと清水寺とは縁深き寺であるのは間違いない。

なお、当該、郭公亭は昭和初期に改修が実施されるも、老朽化が著しく、惜しくも平成3年(1991年)7月に解体されたのだった。

⬆️現在の郭公亭の姿(かつての入口の門と思わしき遺構のみが素敵に現存)

清閑寺は近藤正臣ゆかりの「舌切り茶屋」とも縁深い

清水寺境内には著名俳優の近藤正臣さんの一族が経営する、「舌切り茶屋」というお茶屋さんが今日も素敵に佇む。

この舌切り茶屋は、かつて月照の竹馬の友「近藤正慎(こんどうしょうしん)」の遺族(つまり近藤一族)が営む、「清閑亭」という名前だった事実はあまり世に知られていない。

遺族は、どうやら月照と西郷の生前を偲んで、店名を「清閑亭」としたらしいが、いつ頃、現在の「舌切り茶屋」へと改称されたのかは、遺族たちもよく分からないらしい。

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【ピヨ🐣郭公亭前の解説板の内容】

清閑寺茶室郭公亭

清関寺は幕末に清水寺成就院住職の月照と人と西郷隆盛が、しばしば謀議を重ねた所で安政五年(1858年)、月照が水戸藩の密使降下に尽力し、幕府から狙われた時、ここで西郷と密会し、都落ちの計画が当該、茶室「郭公亭」で行われた。

「郭公亭」は鐘楼堂の上方にあったが、荒廃によって平成三年に惜しくも解体された。

ところで‥「郭公」の名前の由来とは?

「郭公(かっこう)」とは、鳥類の「カッコ〜」と鳴く、あの著名な鳥のこと。

しかしながら、なぜ「郭公」と付したのかは、今となっては判然としない。

単に当地に郭公が数多に棲息し、よく澄み切った早朝など、さえずる声が山中に心地よくコダマしていたのか。

それとも郭公が初夏になると、南方(九州)から日本へ渡って来ることを西郷(九州薩摩出身)に置き換えて付したのか。

いずれにせよ、何らかの意図や思惑があって命名したことには違いない。

清閑寺へのアクセス

‥については下記ページを要チェックや💘

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