京都🐉清水寺「中興堂」

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京都・清水寺「中興堂」

創建年

1997年(平成9年)

建築様式(造り)

方形造り
一重

屋根の造り

本瓦葺き

材質

ヒノキ

大きさ

横幅:約5.4m
奥行:約6.6m
高さ(棟高):約8.8m

御本尊

大西良慶和上

発願者(寄進者)

清水寺

法要

毎月15日

清水寺・中興堂の読み方

中興堂は「ちゅうこうどう」と読みます。




清水寺・中興堂のご本尊

中興堂には、ご本尊として「大西良慶和上(おおにしりょうけいわじょう)」の御霊が祀られています。

大西良慶和上は、奈良興福寺の住職でありながら清水寺の住職も兼務されていた方です。

明治時代には神仏分離令が発令され、これに端を発し「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」といわれる仏像や寺院を壊す動きが出始めました。

その影響はこの清水寺にもおよび、明治政府によって「寺領召し上げ(没収)」などの処置がとられました。

ちなみにここでいったいどのくらいの寺領が召し上げとなったのか、想像ができますか?

ちょっと考えてみてください。

・・

・・

残念無念!ハズレです。

正解は、なんと!「10分の9」です。つまり「たった10分の1しか残らない」ことになります。

当初、清水寺の寺領は15万6400坪ありましたが、召し上げ後は13800坪にまでなっています。

清水寺は元来、檀家(だんか)を持たない寺院でしたので、寺領が小さくなればその分、入ってくる資金も減少することになります。

そこで清水寺は境内のわずかに残された土地、堂塔や仏像を売り払ったり、宿(宿坊)を経営することでなんとか当面の資金を調達していました。

そんな清水寺の窮地を救ったのが「大西良慶和上」になります。

良慶和上は以降、1914年(大正3年)に奈良の興福寺の住職と清水寺の住職とを兼務する形で清水寺の成就院に入り、ここに住持されました。

以来、109歳で天寿をまっとうするまで、約70年間もの間、清水寺の住職として他を先導し、清水寺の復興に尽力されました。

1965年(昭和40年)には「北法相宗」を立ち上げ、それまで所属していた「法相宗」から独立をはたしています。

なお、「北法相宗」の意味合いとは、「南都(奈良)の法相宗」に対して「北都(=京都)の法相宗」という意味合いになります。

もしくは法相宗には「北斗の拳」のように「奈良・興福寺が提唱する北伝」と「奈良・元興寺が提唱する南伝」の2つの流派が存在し、清水寺は平安時代に比叡山延暦寺の侵略を回避するために、興福寺の末寺に属したことから「北伝」の流派を継承する形となり、「北法相宗」を名乗るに至っています。フぉぉ〜!アチャ〜!!アチョ〜ぅ!!!アタぁ!!!!

良慶和上は「法話」と「書道」が得意とされ、法話や書道を用いた社会福祉活動、世界平和活動へ尽力され、清水寺の名声を上げ、清水寺の存続復興成就へと導きました。

清水寺・中興堂の歴史・由来

この中興堂は1995年(平成7年)に執り行われた「良慶和上十三回忌」を記念して現在の場所に造営されています。

完成は1997年(平成9年)で落慶の法要が営まれています。

清水寺・中興堂の建築様式(造り)

清水寺・中興堂はヒノキ材を使用して造営された「総檜造り」の堂舎です。屋根の造りは方形(宝形)造りとなります。

方形造りの大きな特徴は、屋根に棟(むね)などの太い横木がなく、二等辺三角形の屋根の4つ合わせられた屋根になります。

そのため屋根の頭頂が尖った形状になっています。

通常は頭頂部に露盤(ろばん)と宝珠(ほうじゅ)を据えます。

このような方形造りの発端は「塔(ストゥーパ/供養塔)」がルーツとされ、つまりは偉人や先人などの御霊を祀る時に建てられることが多い堂舎の形状になります。

中興堂の内部

中興堂の内部には、仏師・西村公朝作の金銅製の和上像が安置されています。

また、屋根の軒下部分の扁額は中国仏教協会の趙会長が揮毫したものです。

清水寺・中興堂の場所(地図)

中興堂は清水寺の仁王門から境内に入り、随求堂の左手前の階段を降った先に位置します。春日社の右隣りでもあります。(随求堂の隣り)

清水寺境内・周辺の観光スポット一覧

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