西門前の穴空き石の正体は岸駒の傑作『🐯水飲みの虎の石灯籠🐯』だった?!

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西門の前には穴ボコが空いた三角形の記念碑のような物体が置かれてい‥‥‥申す。ポピャっ

しかもこの記念碑、こともあろうに木柵で囲われ、その中に建てられているという只者では無いっぷり。

三角形をしているが、形状に手を加えた痕跡は見当たらず、自然石をそのまま利用したものであり、唯一、人為的な加工と見られるのが中央上部に何故かぜかぜかコノヤローなほどに不思議な穴ボコが空けられてい‥‥‥申す”いる”のパターンから逃れられん

この穴ボコの空いた石コロの正体とは?

実はこの石コロころころドコいった‥‥は、灯籠(とうろう)だと伝わる。

灯籠ならロウソクや油を入れておくための火袋(ひぶくろ)が当然必要になるが、その火袋となるのが、この穴ボコになる。

なぜこのような自然石の灯籠が清水寺に置かれるのか?

仏教が伝来して、たちまちのうちに日本で広まると、仏像が造立されて奉納されるようになり、供養するために石塔など石造品なども数多く造立されはじめた。

灯籠は火を奉納するために仏堂の前などに置かれはじめたのが起源とされる。

織豊時代になると茶道が隆昌し、千利休をはじめとした数寄者(主に茶人)が自らの茶庭に意匠として石塔など石造品を配置するようになる。

江戸時代になると庭園から派生した石塔など石造品などが社寺へも奉納されるようになり、結果的にこのような数寄者好みの意匠を見せる自然石を用いた石灯籠が奉納されたと思われる。




石灯籠に見られる刻銘

この灯籠の左上あたりには以下のような刻銘が見える。

「文政九年 丙戌(ひのえいぬ)春 洛東 大悲閣(だいひかく/清水寺のこと)に納めむ」

文政9年(1826年)春に清水寺に奉納する。

右下隅には以下のような刻銘が見える。

「越前介岸駒」「可観 同巧館」「越之大跡部 木津成助 竹石を写す」

越前介とは官位のことで越前守の次位(「守」の次が「介」)となる地位。ちなみに次は「掾(じょう越前掾)」になる。

本来は律令制に基づく権威があるものだったが、武家社会になると権威というよりは自らをアピールするためのツールに成り下がった。

岸駒(がんく)とは、後述するが江戸後期の有名な絵描きのこと。「可観」や「同巧館」というのは同氏が名乗った絵師としての号のこと。

「越之大跡」の「越」とは、福井県敦賀市から山形県庄内までの一部の地域のこと。

「大跡部(おおあとべ)」を調べると、現代では「粟田部」と書く。

これは現在の「福井県越前市粟田部町」を指し、事実、木津成助とは福井県越前市の酒造家だったが、岸駒の弟子でもあった。

つまり、これらの刻銘を読み解くと、岸駒の弟子である木津成助が師匠が描いた虎の絵図に、自らが陰刻した竹と石を付け加える形で1826年(文政9年)に清水寺へ奉納した‥‥ということになる。

この石灯籠は「水飲みの虎」とも呼ばれる

この石灯籠は岸駒という絵描きが下絵を描いた虎が陰刻されているが、岸駒という人物は動物を写実的に描くのが得意だったようで、中でも虎の絵を描かせると当代では右に出るものがいないとさえ云われたほどの腕前だった。

岸駒の虎の絵が世に知られたのには、今にも飛び出して襲いかかってきそうなほどの迫力ある画風で虎を描いたから。

実際、この石灯籠を近くで見てみると繊細かつ緻密な陰刻の腕前を駆使して、見事に睨みをきかせた今にも襲いかかってきそうな虎が描かれているのが分かる。

なお、この虎は睨みを利かせて周囲を威嚇していることから、別名で「八方睨みの虎」と呼ばれ、事実、裏側に回り込まないかぎりは、どの方角からでも虎と目が合ってしまぃ、キュンな💖が射抜かれてLOVEが陥落してしまぃそぅになる。…..君だけや

「水飲みの虎」と呼ばれる理由

現在のこの石を見れば分かるように風食作用が進み、間近で見ないと虎が描かれているなど夢にも思わない。….マジか?(間近だけに)

しかし、よく見ると本当に今にも動き出しそうなほどリアルに描かれているのが分かる。

何が言いたいかというと、この虎は夜な夜な音羽の瀧の水を飲むために、この石灯籠から飛び出していると云われる。

他説では境内を見回りをしているとも。

夜‥‥‥来てみる?

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