【京都 清水寺に五重塔が‥‥⁉️】法観寺の八坂の塔🗼の大きさ(高さ)や歴史(由来)と建築様式(特徴)や建てた人を‥‥知るつもり❓

スポンサードリンク

京都・法観寺「五重塔」【重要文化財】

創建年

  • 不明(推定592年)
再建年

  • 1440年(永享12年/室町時代中頃)※再造
重要文化財指定年月日

  • 1897年(明治30年)12月28日
大きさ

  • 四辺三間(約5.5m)
塔高(高さ)※屋根まで

  • 38.8m(屋根まで)
  • 46メートル(相輪まで)
建築様式(造り)

  • 五重卒塔婆(供養塔)
屋根造り

  • 本瓦葺
逓減率

0.703
※逓減率(ていげんりつ)とは、初重から最上層までの塔身の形状のこと

ご本尊

  • 五智如来
造営者(造った人)

  • 聖徳太子(発願)
別名

  • 八坂の塔
法観寺の宗派

  • 臨済宗建仁寺派
法観寺の山号

  • 霊応山(れいおうざん)

「八坂の塔」の読み方

法観寺は「ほうかんじ」。八坂の塔は「やさかのとう」と読む。

法観寺・五重塔が別名で「八坂の塔」と呼ばれる理由(名前の由来)

法観寺の近くには八坂神社(やさかじんじゃ)という神社があるが、旧来、法観寺の付近周辺および現在の祇園一帯はすべて八坂神社の社領(土地)だったと云われる。

清水寺界隈に居処する地元住民は皆々、尊崇と親しみを込めて「八坂の塔(やさかのとう)」と呼びならわし、幾世代にも渡ってそれが踏襲されてい‥‥‥申す。イクシュゥェァ〜..っ(”幾世代”をルンルン気分の時に表現) …ルンルンちゃぅ時はどうやねん




法観寺の場所(地図)

清水寺の境内を出て三年坂や二年坂の方へ歩くと塔の先っちょのようなものが視界に入ってくる。

京都へ来たことがない人であれば、清水寺の五重塔と見間違ぅ‥‥のかも知れないが、この五重塔は「法観寺(ほうかんじ)」と云ぅ、寺の境内にそびえ建つ五重塔になる。


八坂の塔の建築様式(造り)

46メートルもの高さを誇るこの五重塔は、東寺、興福寺境内に五重塔に次ぐ高さを誇り、建築様式としては和様を主とした折衷用の様式を見せる。

連子窓や平板に隅金具を用いた木扉、蛇腹状の支輪、間斗束を据えた阿麻組、平行状の垂木などは和様の典型例。丸柱を用いて荘厳さを醸すなど、内部に仏尊が安置されることを匂わせる。鰐口の存在が思惑ではないことを納得させる。

各層の屋根は本瓦葺屋根。上層部に目をやると、縁や高欄が最上層(五重目)にしか取り付けられていないことに気づく。説明にもあったが、確かにぅぃ、非常に珍しい建築様式となる。

逓減率と塔身の形状

飛鳥時代の塔は法隆寺五重塔に代表されるように初重と最上層では面積が異なり、遠方から塔身を見るとAラインスカートのような形状になる例が散見されるが、この塔は塔身がAライン形状になっておらず、初重から上層まで一貫して同様の面積に見える。

京都府庁文化財課の調べによるとこの塔の逓減率(ていげんりつ)は「0.703」となっており、法隆寺の五重塔が0.5と比較して考察すると、やや直線的な形状となる。

有名な五重塔として同様の逓減率をもつ塔に広島県福山市にそびえる「明王院 五重塔【国宝】」が挙げられる。この塔の逓減率は0.714とされる。⬆️逓減率0.714。1348年(室町時代)の建立 (画像はウィペディアより)

⬆️逓減率0.703。法観寺五重塔1440年(室町時代)の建立

なお、逓減率(ていげんりつ)とは、初重から最上層までの塔身の形状のことを指す。

当初はAラインだった可能性も考えられるが、過去3度もの火災後の再建、ならびに星霜経て幾度もの修営を受けるにつれ、現在のような形状へと改められたとも考えられる。

なお、この法観寺八坂の塔は臨済宗で唯一の塔婆(仏塔)になる。

扉に描かれていたハズの謎の画像

八坂の塔の各扉には多種の尊格の尊仏が描かれているが、現在、剥落していて残念ながら何が描かれているのかが分かりづらくなってい‥‥‥申す。ヂュハっ

不動明王?

⬆️不動明王‥‥だと思われるが。




八坂の塔の内部には何がある?見どころや特徴的なもの一覧

心柱(しんばしら)

2層目の心柱の様子

1層目から上を見上げたところ

1層目の心柱の様子

1層目(初層)はまるで心柱を閉じ込めて封印するかの如く、極彩色の木板が周囲にめぐらされい‥る。ピクっ

心柱の説明看板の内容

空高く聳える(そびえる)五重の塔、その中心を貫く「心柱」。

初層の礎石から相輪の頂上まで通り、途中の支えは一切使われていない。

構造的には、この高い塔の重心をとっている。

精神的には、初層の礎石に納められた「仏舎利」と、頂上に据えられた釈迦の墓である「相輪」を結ぶ動脈である。

名刹、古刹と呼ばれているが、遠い昔、寺院の或いは釈迦の象徴として礼拝されていた棒杭ようのも「」が五重の塔内で巨大化して葬られているとも思われる。

ゆえに飛鳥時代の創建時は、初層の須弥壇・仏像はなく、この心柱を釈迦として葬られていた様である。

折上げ小組格天井

塔内部の天井部は格式高い折上げ式の小組格天井がはられ、荘厳華麗な空間を創造してい‥‥る。ピぃ〜っ

この天井を見るだけでも、この塔が並みの塔ではないことを悟らせる。

禅宗式の須弥壇と高欄

須弥壇隅の高欄(欄干)には蕨手(わらびて)状の曲部や、その右上に握り蓮が見える。親柱の上に逆蓮(さかばす/ぎゃくれん)を用いるなど外観とは打って変わり、内部は唐様(禅宗様)の意匠をチラつかせる。

どうも、この須弥壇はこの塔の趣とは異なる。‥‥どっかから持ち込んだのではないか?

‥‥‥建仁寺の影がチラつく。うきゃきゃ

須弥壇




来迎壁画(紙本著色八坂塔絵図)

四半敷きの床石

周辺の眺望(景色)が楽しめる

2層目内部の壁面にハメ込まれた窓からは八坂通りの街並みが一望できる。

猪目の風鐸

90度近い急勾配の階段

 

ご覧のように階段‥‥というよりはハシゴに近い。足腰に自信の無い方は要注意💘

飛鳥時代の中心礎石

須弥壇の下には古い大きな礎石が現存しており、この礎石は創建当初のもの。つまりぅぃ、1400年以上経った現在でもそのまま使用されてい‥‥‥ます。

石質は「松香石製(凝灰石)」。円形の舎利孔、石蓋孔、凹柱座のある三段式になっていて白鵬様式の特徴が色濃く残る部分になる。日本の舎利信仰の原点とも云われる。

この心礎は全国に幾多もある仏塔の中でもわずかに二例しか現存しないという古式の石蓋になるとのこと。オホ

ちなみに仏舎利(ぶっしゃり)とは、一般的に「釈迦の骨や遺灰、遺髪」と解されることが多いが、実際に埋められているものは釈尊のお骨などではなく、水晶や経典、宝塔などの代替品となるようなものが埋められる例が散見される。

そして忘れてならないものが、この八坂の塔の内部に奉安される御本尊の存在となる。

五重塔内部に奉安されるご本尊「五智如来」とは?

「五智如来」は「ごちにょらい」と読み、法観寺・八坂の塔(五重塔)の御本尊になります。

五智如来とは、大日如来を中心に据えて以下の5仏を東西南北の方角に配した総称を「五智如来」と呼びます。

また、この様相を大日如来の5つの智慧と定めて表現したものがゴチになり・・あイヤイヤちゃうがな。「五智如来」!!になります。毎日ゴチして

東の「阿閦如来(あしゅくにょらい)」※大円鏡智如来(だいえんきょうち)

西の「無量寿如来(むりょうじゅにょらい)」※妙観察智阿弥陀如来(みょうかんざっち あみだにょらい)




南の宝生如来(ほうしょうにょらい)※平等性智如来(びょうどうしょうち)

北の不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)※成所作智釈迦如来(じょうしょさち)

あれ❓大日如来のお姿が‥‥‥。ひょっとして心柱を以って大日如来としているのか❓

それとも別の層に安置されているのか❓

大日如来は心柱に奉安される❗️

これについて調べたところ、西方の妙観察智如来の上部にもう1つ仏像が配祀されており、この尊像はどうやら心柱に据え付けられる形式で奉安される。

⬆️見づらいが確かに阿弥陀の化仏のような小さな仏像が1躯見える

これはこの塔の核(心臓部)にあたる心柱を大日如来に例え、その心柱(大日如来)を守護する意味合いでその東西南北に五智如来を配祀したとみれる。

なお、このような五智如来は法観寺の他では、高野山のにある「金剛三昧院(こんごうさんまいいん)」の多宝塔(国宝)にも安置される。

ところで‥‥「五智」の意味とは?

五智如来の「五智(ごち)」とは、ゴチになりま‥‥ではなく、「5つの智慧」!!のことを意味します。永遠にゴチして

5つの智慧

  1. 法界体性智(ほっかいたいしようち)
  2. 大円鏡智(だいえんきょうち
  3. 平等性智(びょうどうしょうち
  4. 妙観察智(みょうかんざっち
  5. 成所作智(じょうしょさち

これらの5つの智慧は密教における最高仏・「大日如来(だいにちにょらい)」が有するとされ、これら5つ智慧に実体を持たせた仏が五智如来になる。

八坂の塔の説明看板の内容

塔内の中心を貫く心柱は礎石から塔の最上部の相輪(そうりん/九相)にまで達し、この1本の柱で塔全体の均衡を保ってい‥‥‥ます。

創建当初は須弥壇も壇上の仏像もなく、心柱と礎石の舎利孔に納められた舎利器を以って釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ/釈尊のこと
)として奉戴していた模様。

五重塔の心礎に舎利孔を開け、その中に仏舎利を入れた舎利器を納めることにより仏塔に魂が宿ると考えられた。

法観寺五重塔(八坂の塔)の歴史

法観寺五重塔(八坂の塔)は星霜経ながら焼失→再建を繰り返し、実は現在で4代目の塔とされる。

往時は延喜式七ヶ寺の1つに数えられたほどの隆昌を得たが、現在は境内に太子堂、薬師堂の二堂を残すのみとなってい‥‥‥申す。腹減った

飛鳥時代

寺伝によれば、聖徳太子が四天王寺(大阪)の造営を行う以前、その材料(用材)集めのために当地までやってきた時のある日の夜、如意輪観音が夢枕に立ち、塔の建立を告げたと云われる。

翌朝、目覚めた太子は夢告の通り、塔の建立を発願し、完成後(589年)、内部に仏舎利三粒を納めたと伝わる。

この事実については、近年、境内において発掘調査が実施された折、飛鳥時代の屋根瓦が塔周辺から出土したことにより、創建年代が肯定された背景がある。

八坂の塔を建てたのは誰?

前述、聖徳太子創建説は異論もあるようだが、当寺が平安遷都以前より当地に存在した事実はほぼ間違いないと推定されており、飛鳥時代の瓦が出土したことや、1338年(歴応元年)に編纂された「山城州 東山 法観禅寺 仏舎利塔記」に見える記述なども重なり、聖徳太子創建説が濃厚とされる。

現在、寺や京都市もこの説を穏当とみているが、他説としては飛鳥時代の当時、八坂郷と呼ばれた当地を支配した豪族の「八坂氏(朝鮮半島系の渡来氏族)」が678年に創建した説、もしくは八坂氏が太子に与力する形で塔の造営に携わったとされる説もある。

平安時代に塔の修理が行われた

元亨釈書(げんこうしゃくしょ)によると、948年(天暦二年)に塔身が西へ傾いたため、雲居寺(うんごじ)の僧・浄藏(じょうぞう/浄蔵貴所)が加持祈祷を執行し、修復したと伝わる。

1179年(治承三年)には祇園社の神人(しんじん/神社に奉仕した下級神官や寄人(よりうど)、神主、禰宜などの総称)と、清水寺の衆徒との争いが勃発したおり、塔が類焼に至り、住持の証阿が源頼朝卿へ請願して再建したと伝わる。

鎌倉時代

次いで1240年(仁治元年)には建仁寺の済翁証救(さいおうしょうきゅう)が入山して、真言宗から禅宗へと改宗されたが、1291年(正応四年)に落雷により焼亡す。

この再建に後宇多院や北条時貞(鎌倉幕府9代執権/但しこの時は執権を辞した後)、ならびにその妻である「山内円成尼/覚海円成(かくかいえんじょう)」が助成し、1309年(延慶二年)に完成を迎えた。

室町時代

1338年(暦応元年/室町時代)になると、足利尊氏・直義兄弟が元弘の乱以降の戦死者を弔うために全国66カ国二島に安国寺と利生塔(りしょうとう)の建立を発願したが、当地に限っては、この八坂の塔を山城国の利生塔とし、修営を行い、仏舎利を納めたと伝わる。

他にも、南禅寺の渡来僧「清拙正澄(大鑑禅師)」が記した「法観寺仏舎利塔記」によれば、足利尊氏・直義兄弟は播磨国印南庄の地頭職を当寺へ寄進し、塔婆復興のための供養所と定めたと云われる。

利生塔の修営後となる1342年(康永元年)8月になると、嵯峨天龍寺の開山「夢窓疎石(むそうそせき)」を導師に招き、落慶法要を執行したが、1436年(永享八年)に再び焼亡に到る。

しクぁし!1440年(永享十二年)に、足利義教(室町幕府の第6代将軍)によって再建された。

京都はこの後、室町幕府の重臣である細川勝元と山名宗全が巻き起こした応仁の乱により焦土と化したが、不幸あって幸い有り、八坂の塔は戦火に飲まれることなく、類焼を免れた。

ただし、足利義教が再建した後の姿の塔がそのまま現存している訳ではなく、江戸時代に幾度かの修営が行われてい‥‥(息止)‥‥申す。ゼぇハぁ

戦国時代

戦国時代になると各地の戦国大名たちが上洛を夢見て各地で戦争を繰り返したが、上洛した大名たちは洛中においても際立って目立つこの五重塔の塔頂へ定紋をあしらった旗を掲げ、京都の新しい支配者であることを示したとされる。




安土桃山時代

弓の名手として名を知られた「大島 光義(おおしま みつよし)」が、主君・豊臣秀次の命でこの塔の窓に矢を十本射込んで腕前を披露したと伝承もある。

江戸時代

江戸時代になると、それまでの戦乱の世は時の彼方へ消え去り、戦火の心配はなくなったが、塔は幾度も修営を受けた。

江戸期の主な記録は次のとおり。

  • 1618年(元和四年):京都所司代・板倉勝重(いたくらかつしげ)の主導
  • 1663年(寛文三年):江戸幕府の主導
  • 1799年(寛政十一年):江戸幕府の主導
江戸時代の絵図に描かれた法観寺の姿

上掲、画像は1864年(元治元年/江戸時代後期)に刊行された「花洛名勝図会」に描かれる法善寺八坂の塔の姿。薬師堂と太子堂が甍を連ねた現在と遜色なき寺観。拝観受付の建物まで同じ場所にある。

手前に見える鳥居の立つ広い敷地は、おそらく八坂庚申堂だろぅ。

法観寺は1240年(仁治元年)に建仁寺第8世住職の済翁証救が入寺した折、禅刹へと改られたことから「法観禅寺(ほうかんぜんじ)」とも呼ばれる。

明治時代

明治時代にも修営された記録(墨書)が見える。”明治十一年 後補”の刻銘(焼印)あり。

長年この塔を守り続けてきた歴史が伝わってくる。剥落によって文字が読めない。

柱部にも何らかの墨書がウっすらと見える。

明治時代の八坂の塔の姿

内部の景色が見渡せる上述の窓のあたりには明治時代の八坂の塔の写真が公開されてい‥ます。ピククっ

大正時代

大正時代にも修営された記録が残る。

以上、1440年の足利義教による再建後の塔身を基本としながらも、現在までに幾度もの修営を受けてい‥‥…..(長考)…

法観寺(八坂の塔)の場所(地図)

関連記事一覧

スポンサードリンク -Sponsored Link-


当サイトの内容には一部、専門性のある掲載がありますが、これらは信頼できる情報源を複数参照して掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。