【呪⁉️木曽義仲の首塚】源義仲の首塚(朝日塚)の場所や朝日将軍の由来や意味を知るつもり❓|京都 法観寺

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【呪⁉️木曽義仲の首塚】朝日将軍・木曽義仲塚

八坂の塔で知られる法観寺(ほうかんじ)の境内には「朝日将軍」と呼ばれた木曽義仲の首を祀った首塚がある。

義仲は頼朝卿が差し向けた源範頼・義経の軍勢に宇治川合戦で敗れた後、敗走したが、近江国粟津ヶ原まで来た所で鎌倉幕府軍に追いつかれ、是非も無く戦闘の末、配下の今井四郎兼平と共に討ち死にす。享年31歳。(粟津の戦い)

その後、義仲の首は京都へ移送され東獄門でさらし首にされるが、義仲を慕う家臣の手によって首が運び出され、法観寺近くに埋葬されたと伝わる。

後世にてその地から法観寺へ移送した後の姿が、現在の首塚になる。

⬆️風蝕が著しく見づらいが、わずかに「朝日将軍 木曽‥‥」の刻字が見える

上掲写真を見れば分かるように現在は法観寺の住僧や寺関係者によって花が墓前に活けられ、手厚く供養されている様子がうかがえる。




”朝日将軍”の名前の由来とは?なぜそぅ呼ばれた❓

平家物語によると、朝日将軍(旭将軍)というのは後白河院が都にはびこる平家一門を一掃した褒美として義仲へ贈った称号になる。したがって官職名や何らかの役職名ではなぃ。

後白河院の目には、朝日が昇る方角から、朝日が昇るぐらいの勢いで平家を一掃し、朝日が昇るほどの勢いで入洛を果たした義仲の姿は神仏の如く映り、義仲に「朝日将軍」の称号を贈ったと伝わる。

また、吾妻鏡はじめ、平家物語、源平盛衰記、長門本、九条兼実の日記「玉葉」などの旧記によると、1184年(寿永三年)1月、義仲は天皇の宣下によって朝廷より正式に征夷大将軍(”征東大将軍”とも)の役職を賜ったとされ、民衆の間では朝日が昇る勢いで征夷大将軍へと昇格したことから、「朝日将軍」と呼ぶようになったと云われる説もある。

【補足】義仲の時代の名前の決め方

考えてみると義仲が生きた頃(平安時代末期)は、現代のような苗字(名字/みょうじ)を名の前に付すシステムがなく、「自らが住んでいる場所」や「姓」、「何人目に生まれたのか?」‥などを組み合わせて自分勝手に名前を名乗っていたとされる。

義仲に例えてみると、源姓を受け継いでこれを基軸としながらも、木曽に生まれ育ったことから「木曽」を名乗り、また13歳の春に元服した後、「木曽次郎義仲」と名乗ったと伝わる。

次郎とはまさに次男(二男)であることを示すもの。

義仲は幼名を「駒王丸」と言い、幼少の頃は信濃権守(国司の長官/律令官職のうち、五位から六位の官職)の「中原兼遠(なかはらの かねとお)」よりの養育を受けて育ったが、中原兼遠も木曽中原氏の三男という立場から「中原中三」と号した。

簡単に説明すると源義仲とは?どんな歴史を歩んだ人物だったのか?

源義仲は平安時代末期の武将。源静香‥‥ではなく、源頼朝卿!!とは親戚関係(頼朝、範頼、義経兄弟は従兄弟)にある。…源静香は何源氏? 裸風呂源氏・裸風呂流

木曽で生まれ育ったことから、「木曽義仲」とも呼ばれる。通称「木曽冠者(きそかんじゃ)」。

清和源氏は河内源氏の嫡流・源為義(ためよし)の次男「義賢(よしかた)の次男として1154年(久寿元年)東国に生を得た。(家系図は後述)

室町時代に成立した日本の初期の系図集・「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)」によれば義仲の母ジャは遊女とされる。

源義仲が生まれた頃は伊勢平氏が頭角を現し、隆昌を見せはじめた頃であり、ほどなく「平家にあらずんば人にあらず」など云ぅ言葉が広まった時期でもある。

義仲、入京す

1180年(治承四年)、当時27歳の義仲は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受け、木曽谷に平家討滅の旗を掲げ、源頼政の乱で敗死した以仁王の遺児・北陸宮(ほくろくのみや)を奉じて挙兵。

時に頼朝卿の挙兵から約1か月後のことであった。

挙兵後、年内には信濃(しなの/長野県)を平定し、上野(こうずけ/現在の群馬県)まで進出。

平家の武将「城助茂(じょう すけもち)」率いる大軍を千曲川(ちくまがわ)の横田河原(長野市)で破り、程なく越後(えちご/新潟県)をも掌握す。

1183年(治承七年)2月11日、勢いづく義仲は10万余騎とも云われる平家の将・平維盛率いる北陸追討軍にも果敢に戦いを挑み、倶利伽羅峠にこれを撃破する。

募る想いが止まらぬぅぁぃ恋する乙女💋のように、勢いが止まらない義仲軍は加賀国 篠原での戦いにも勝利する。

もぅ、成熟しきって愛の暴走がはじまっちゃった‥‥募る想いはI・TSU・MO♡プワプワ💕‥的なほど、勢いづきまくった暴走状態の義仲軍は京師へ向けてさらに進軍しつつ、進路途上の地域の武士たちにも戦争参加を呼びかけ、さらに勢力を強めた。 どんな度合いや

そして6月10日には越前国(福井県)、13日には近江国(滋賀県)へ入り、平家から逃れるために叡山(比叡山延暦寺)に逃げ落ちていた後白河院を伴って6月28日についに入京に到った。

その後、義仲は源行家と共に後白河上皇の座す法住寺殿(現在の蓮華王院・三十三間堂)に昇殿を許され、平氏討滅と京師警固の院宣を正式に受けた。

以後の義仲は、院のお墨付きやこれまでの平家撃退の功績などを背景とし、都で横暴な振る舞いをみせたが、やがて以仁王の第一皇子である北陸宮を即位させるべきと皇位継承権にまで口を挟み、公卿ら貴族から素養の無ぃ大バカ者と蔑まれ、逆に反感を買った。

実際に義仲は、血筋は頼朝卿に匹敵するほどの貴種とはいえ、木曽谷の山村育ちだったので無骨さがあり、都人から見れば、いわゆる度が過ぎた田舎者だった。

それゆえ、特に貴族麻呂麻呂マユ半たちからは、「木曽の山猿」と影で罵られた。なんやそれ

やがて、後白河院は義仲を見かぎりはじめ、頼朝卿との関わりを強めると、寿永2年10月、頼朝に東海道・東山道諸国の支配権を認める宣旨を出す。

また、義仲にに対しては平家追討を催促し、これ以上不当に都に逗留(とうりゅう/留まる)することは謀反に値するなどの命令を下した。

実はこの当時、西国は不作に見舞われ食糧難にあったことから義仲はロクに軍備を整えることができなかったが、院宣を受けたこともあってただちに西国へと平家討滅へ向かったのだが、平家軍に惨敗し続けた。(一説に義仲の軍が横暴狼藉を働いたのは食糧難が原因だったとも云われる)

やがて義仲は陣中にて、頼朝卿と後白河院との間に不穏な密議が交わされている事実を知り、激怒した義仲は急遽、軍を退きあげ、院の座す京師へ馬を返した。

内容としては、義仲のこれまでの功績は源氏の惣領たる頼朝が命令したと思わせるような意識付けを後白河院に匂わせており、結果、院より頼朝卿が最大の恩賞を授かったと云ぅものだった。

この一報を耳にして義仲以上に忿怒の形相をあらわにしたのが配下の諸将たちであり、諸将たちの煮えたぎった忿怒は義仲の心をも躍動させ、ついに後白河院を捕縛して幽閉するという暴挙に出た。

しクぁし!その結果、武家社会からは信望を失ぃ、孤立を強めることにつながり、劣勢に陥った義仲は北陸への逃走を図るが、頼朝卿が操作する鎌倉幕府軍の追討を受け、冒頭で述べた近江国粟津ヶ原(粟津の戦い)で衝突し、討死す。

義仲の首級は首実検のため京都へ移送され、東獄門でさらし首にされた後、紆余曲折を経て当寺にて埋葬される。

胴体の方は朝日山・義仲寺(滋賀県大津市馬場)に埋葬されたと伝わる。

頼朝卿と木曽義仲の関係(家系図)

まずは清和天皇からの家系図の紹介から‥‥

※タップで大きくなり申す※

画像引用先:https://ja.wikipedia.org

次いで源頼信(河内源氏)の家系図の紹介

※タップで大きくなり申す※

※さらに拡大※

この図を見て分かるように義仲は源為義の次男「義賢」の次男としてこの世に生を得たことが分かる。

一方の頼朝卿は頼信から続く、清和源氏(河内源氏)の嫡流筋を継承する者であり、俗に「源氏の御曹司(おんぞうし)」とも呼ばれる。現代風に訳すと「貴種(きしゅ)」と呼ぶにふさわしい。

この時代は嫡流筋は第一とされ、主だった力がなくともすでに嫡流と云うだけで支持が集まった。

この図を見れば理解できるように、木曽義仲とは血筋の面では格の違いが明らかであり、清和源氏としての支持は当然、源頼朝へ集まった。

ただ、源氏の嫡流筋に支持が集まる理由として、代々の御曹司が異才を発揮し、功名を立て続けた事実も無視できない。

特に「道長四天王」に名を連ねた源頼信はじめ、東国武士団を束ね武士団の土台を作り上げた八幡太郎義家、その東国を後の鎌倉幕府に引き継がれるほどに発展させた義朝など、代々の嫡流は武芸に秀で、坂東武者たちに多大な恩恵を与えたことも支持が寄せられた理由になる。

だから坂東武士は伊豆に島流しされた一介の流人であった頼朝卿にも一目置き、結果、勢力すらままならない頼朝卿に付き従った。




法観寺に立てられた看板の内容

木曽義仲首塚(くびづか)【朝日塚(あさひづか)】

木曽義仲は源義朝の弟・義賢の二男で、頼朝、範頼、義経兄弟の従兄弟にあたる。

幼くして父を失い、乳人(めのと)である「中原兼遠(かねとお)」によって木曽(長野県)で養育された。1180年(治承四年)に源頼政とその養子である仲家(なかいえ/義仲の兄)らが反平家の旗を揚げるがほどなくして敗死。

これを聞いた義仲も木曽で挙兵すると北陸から軍勢を進めて平家の軍勢を次々と撃破し、1183年(寿永二年)には入京して、朝日将軍(あさひしょうぐん)と呼ばれた。

しかし義仲は翌三年1月20日、東国から攻め上がってきた範頼と義経の軍勢に敗れ、瀬田(大津市)へ逃れる。

随従した兼遠の娘「巴(ともえ)」や、同じく兼遠の子である今井兼平(かねひら)が奮戦するが、義仲の乗馬が深田に足をとられ、粟津(あわづ)で討ち取られた。享年31歳。

義仲の首は京都にもたらされ、26日に東獄門脇で晒された。

その後、京都に残っていた家来の一人がその首を葬らせ、朝日塚と称したという。

京都市

ところで‥「東獄門😩」とは❓

「東獄(とうごく)」とは、平安時代よりの囚獄(しゅうごく/獄舎😩)のことを指し、その「東獄の門」ということで「東獄門」と呼ばれた。

この東獄門の入口付近にはオウチ(センダン)の樹が植え込まれ、罪人は斬首された後、この木の枝に首を架けられて、さらし首にされたと伝わる。(獄門=首を門前にてさらす/江戸時代の遠山or大岡などの町奉行が”打ち首!獄門に処す!”の名台詞のルーツ)

東獄の場所は、近衛大路の南、西洞院大路の西にあり、「左獄(さごく)」とも呼ばれた。

分かりやすく例えると、京都府庁付近となる「上京区勘兵衛町(京都府庁の近く)」になる。

「西獄」もあった

また、その逆方向にもやはり「西獄(さいごく)」と呼ばれた囚獄も存在した。

西獄は中御門大路の北側、西堀河小路の西にあり、「右獄(うごく)」「西囚獄」などと呼ばれた。

右獄の場所を現在の場所で示すと、「中京区西ノ京西円町付近(JR円町駅付近)」とされる。

平安京の東獄と西獄の場所(地図)

平安京は、中国の長安や洛陽などの王都がモチーフ(都城制)として造営されたことから、宮城となる大内裏(宮城)を北側へ配置し、大内裏の南面中央に朱雀門、朱雀門から南に向かって聖なる道とも呼ばれた朱雀大路が延び、朱雀大路の「東側を左京」、「西側を右京」と呼んだ。この地名は現在も京都市の区名として踏襲されてい‥‥ます。….。…..ク。

画像引用先:https://ja.wikipedia.org/

上掲、条坊制(日本での呼名)に則った平安京の上空からの配置図をを見ると、「右」と「左」が逆になっているが、これは天皇の玉体から見ての方向に由来。

古代中国には「天子は南面す」という思想が根幹にあり、天子は南に向かって政治を行うとされたことから、それをモチーフとした日本でも、天皇が大内裏から南を向いて左(東)側を左京、右(西)側を右京とした。

ちなみに1160年(永暦元年)、郎党の長田忠致に謀殺された源義朝(頼朝卿の父)も、この東獄門の樹の枝に首が掛けられて、さらし首にされたと伝わる。(後年、頼朝卿が後白河院を通じて首を回収)

他に東獄にブチ込まれたのは有名どころで「平将門」や「源為義」がいる。ピクっ その逆に「西獄」にブチ込まれた将に「源義親(源義家の嫡男)」がい‥る。ピク〜っ




木曽義仲の首塚(朝日塚)の場所(地図)

木曽義仲の首塚は法観寺境内の「八坂稲荷尊天」の敷地内にある。

  • 所在地:東山区高台寺金園町(法観寺境内)

首塚(石標)自体が高さ約70㎝、幅が四辺約20㎝くらい、それに加え、上述した石標表面の風蝕が著しいこともあり、看板が無ければこの塚が最近の奥歯の虫歯の痛みに匹敵するほど有名な、木曽義仲に由来したものだとは誰も思わなぅぃ。

ちなみに義仲の首塚を正面に見て右隣りには「延喜式 八坂墓」と刻まれた暮石のようなものが見えるが、これは光孝天皇の外祖母、藤原数子の墓と伝わる。藤原数子は謎が多い人物とされるが、奈良時代後期から平安時代初期の人物で藤原南家・雄友の娘で女官を務めたと云われる。

⬆️噂のウワサの藤原数子の墓💋「延喜式 八坂墓」の刻字が見える

義仲には息子がいて頼朝卿の人質だった⁉️

実は源義仲には長子がおり、名前を源義高と云ぅ。物心ついた間も無くの頃、頼朝卿の座す鎌倉へ人質として送られた。

源義高(木曽義高)の詳細については下記ページを要チェックやでぃ!

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