六波羅探題とは?
六波羅探題とは、承久3年(1221年)6月に勃発した「承久の乱(じょうきゅうのらん)」後に都(京都)に創設された鎌倉幕府の要職であり、早期に独立した軍事権が認められるなど、極めて強力な権限を有した機関。
それだけに1221年(承久3年)6月16日の創設以後、1333年の滅亡時まで執権職を世襲した北条氏一門がその首長に就任した。
初代・六波羅探題の首長に就任したのは、承久の乱にて幕府軍の総大将を務めた豊胸‥おっと、北条!泰時と、東海道大将軍を務めた北条時房(泰時の叔父)の2人。
六波羅探題に2人の首長が置かれた理由とは?
ここでなぜ2人?‥‥などといぅ素朴な疑問が生じるが、この理由は単純明快で六波羅探題は北方と南方との2つの機関から成っていたことによる。
後年の考察では南方は首長が空位となる期間が約22年間も存在したことや、北方の首長からは執権や連署に就任する者を多く輩出した経緯、北方の屋敷の屋根が格調高い檜皮(ひわだ)で南方がコケラ(板葺き)であったことも含め、北方の方を格上とする見方もある。
このように次代の執権職を担う有力人物が就任した方を「執権探題」とも呼んだ。
鎌倉後期に編纂された「吾妻鏡(あずまかがみ)」によると、得宗家(北条惣領・嫡流の家系)や、極楽寺流(得宗家に次ぐ家格)など、北条氏でも高位の家格の出自者が北方の首長を務めたとある。
北方(北殿)と南方(南殿)が置かれた理由とは?どのような違いあるのか?
ここで再び素朴な疑問が生じるが、それこそがまさにぅぃ!『なぜ、六波羅探題には南北とで2つの部署が設けられたのか?』ということではないだろぅか。
これについて、近年における考察の見解によれば、南北の職掌の違いは認められず、むしろ、双方が同様の職務に従事することで協力体制が敷かれ、時に掣肘関係(せいちゅう/干渉し合って自由に行動させないこと)が成立していたとみられている。ピクっ
六波羅探題の首長は誰がどうやって決めた?
六波羅探題の首長は鎌倉幕府の有力御家人衆らの合議によって任命され、ほとんどのケースで鎌倉から上洛の途についた。
その逆に首長の罷免も鎌倉幕府の合議の上、執行されるものだった。
なお、鎌倉から六波羅へ首長として上洛する際、赴任期間が長期的になることが想定されていたことから、六波羅探題の首長となる者は自らの妻子、被官 共々、まさにぅぃ、一族郎党を引き連れての上洛だったとされる。
上洛する際、概ね数百〜数千の軍兵を率いて入京に至ったが、目につくところでは1324年(正中元年)11月に赴任した金沢貞将で、5000余騎もの軍勢を率きつれての入京だったと伝わる。(この時の大軍の意味は倒幕の臭いをプンプンと漂わせていた後醍醐側への牽制の意味合いもあったと云われる)
「六波羅探題」の名前の由来
「六波羅探題」という言葉の意味を紐解くに際し、まずは「六波羅」と「探題」という2つの言葉に分けて考えることができる。
それぞれの意味合いを紐解くと以下のようになる。
「六波羅」とは?
まずは、951年(天暦5年)に空也上人が当地に西光寺を創建することに始まる。
空也上人の死後となる977年(貞元2年)のこと、叡山の(延暦寺)の中信上人が当寺を中興した折、寺号を「六波羅蜜寺」と改号したことにより、以後、この寺周辺の土地は「六波羅」と呼ばれるようになったと云われる。
古くは、「六原」とも記され、「轆轤原(ろくろがはら)」と呼ばれた経緯もあるが、現在までの通説では、やはり六波羅蜜寺に由来する説が濃厚とのこと。オホ
ちなみに「波羅蜜(はらみつ)」とは彼岸(悟りの世界)に至ることを言ぃ、「六」を付した「六波羅蜜」とは、仏語で仏が涅槃の境地に至るための6種類の修行を意味する言葉とされる。
この六波羅の地は鴨川東の郊外に位置し、「鳥辺野(とりべの)」という埋葬地の入口にあたることから、古くはあの世とこの世の境界線と畏怖された。
それゆえ、洛中で死人が出れば祇園社(八坂神社)に仕える「犬神人(いぬじにん)」と呼ばれる下級神官が動員されて、死骸を荷車に乗せて、この郊外に位置する鳥辺野へ運び入れて埋葬したとされる。
鳥辺野には六道珍皇寺、山頂を見上げるとその裾に清水寺が佇み、その様相はまるで極楽浄土へ至る様子を彷彿とさせることから、古くからこの地は霊的な信仰地とみられてきた側面も有する。
泰時と時房の2人は承久の乱に勝利したものの、その戦後処理のために京都を離れることができず、戦後処理(政務)を執り行う場所として、かつて頼朝卿が朝廷より下賜された六波羅にある屋敷(六波羅御所)を選んだ。
それゆえ、鎌倉幕府も平氏が支配した時代から踏襲する形で「六波羅」と呼んだ。
「探題」とは?
「探題」とは平易に「地方の長官」を意味する。
ただし、「探題」という言葉が文献状に見えるのが鎌倉時代末期になってからのこと。それまでは単に「六波羅」と呼ばれていたとされる。
以上、まとめると京都の六波羅に探題を置いたことから「六波羅探題」と呼ばれたことになり、本意的には「六波羅に置かれた裁判所」とするのが正しいのかもしれなぅぃ。
仏語(仏教で用いられる言葉)の探題が由来?
仏教の法会の議論の折、問答の良し悪しを判定する役目を担う僧侶を「探題」という。
「判定する役目」とは「判定者」を指し、それこそまさに、六波羅(探題)の主とする業務(裁判業務)そのものであり、実はこの仏語の「探題」から由来がきているとも云われる。
六波羅探題の別名(当時、六波羅探題はどのように呼ばれていたのか)
現在まで伝わる数々の記録文書の記述をまとめ見ると六波羅探題は設立当初、次のように呼ばれていたとされる。
幕府や御家人衆からの呼ばれ方
「両六波羅(2つ合わせて)」「京都守護」「六波羅家」「六波羅殿」「北方or南方」「北殿or南殿」「北亭or南亭」‥‥etc
「六波羅家」と呼ばれた理由は前述したとおり、六波羅探題の首長となる者は妻子含め、一族郎党引き連れ、六波羅に邸宅を構えていたことに因む。
貴族や京畿の寺社勢力からの呼ばれ方
公家や京畿の寺社勢力からは、「河東(かとう)」「武家」「六波羅」「京都守護」などと呼ばれていた。
ところで‥‥幕府の役人たちは自らのことをどう呼んでいた?
ちなみに幕府はこの当時、自らのことを呼ぶ時「武家」や「関東」と称していたことが記されてい‥‥‥申す。ブキュェっ!(「武家」だけに)
承久の乱は庶民文化到来の起点!武家の統治時代を切り開いた劇的なワンシーン
鎌倉幕府は探題創設以前より西国の脅威に目を向ける必要が常にあったが、承久の乱の勝利によって後鳥羽方に味方した居並ぶ西国の諸将(貴族や武士)の処罰が執行できたことで、その脅威は取り除かれた。
幕府にもたらされた恩恵は、脅威が取り払われたのみならず、処罰した西国の諸将が領有した3000余の所領が鎌倉幕府の所管するところとなった事実はあまりに大きかった。
幕府の手中に転がり込んできた領地の大部分は尾張地方より以西となる畿内周辺国、山陰、瀬戸内海沿岸地域、北九州と幅広く分布しており、わずかに東国の領地もあったとされる。
なお、現代まで積み重ねられたきた数々の論証・傍証においても、乱後に処罰された西国の諸将たちがどのような人物であったのかの詳細は判然とせず、依然、不詳とされる。
新補地頭(しんぽじとう)
ち‥ではなく、「しんぽじとう(新補地頭)」とは、「新しく補任した地頭」と解釈される。….ふぅ
「地頭(じとう)」とは、平易に荘園・国衙領(公領)やその領内の農民の管理支配、治安維持(警察・軍事)、並びに年貢や徴税の権限を担った鎌倉幕府(室町幕府)の要職のこと。
承久の乱に参戦してくれた御家人たちのほとんどは東国出身の武士たち。
つまり、手に入った3000近い領地を東国出身の武士たちに恩賞として分け与えることになるのだが‥‥、皆々、新たな広い土地をもらえるとなれば、一族郎党ひっくるめて引き連れ、東国から西国に移住したのだった。
有名どころでは、安芸国(広島県)の三入荘(みりのしょう)の地頭に補任された熊谷氏がいるが、熊谷氏は元来、武蔵国(埼玉県)熊谷郷の出自であり、鎌倉時代きっての武勇伝で知られる熊谷直実の子孫となる。
これら御家人は地頭職(諸々の役)・戦役(戦争への参加)などを通じて将軍(幕府)に奉仕することによって、幕府より御恩(土地の拝領・安堵など)を得たことから、幕府とは主従関係にあり、「御恩と奉公」などと称してまとめられる。
収拾が見えぬ紛争
幕府は3000近い領地を得たが、その領地には元来、朝廷よりの権限を与えられた荘園領主などがいたため、度々、ち‥もとぃ!、「しんぽじとう(新補地頭)」との間に紛争が頻発した。ふぅ ‥”地”→ ”亀” ‥‥。ムフ💕
幕府も荘園領主を蔑ろ(ないがしろ)にすることは容易ならざるものがあり、その結果、幕府と朝廷との二役の政治(二元政治)が並存する形となって紛争が頻発したが、地頭は武力にうったえかけるなどして徐々に勢力を強め、やがて鎌倉幕府の権威の増大と並行するように地頭の権威も荘園領主を凌ぐまでに至った。
六波羅探題が置かれた理由
西国における紛争の早期解決
西国を主とし、鎌倉幕府は膨大とも呼べるほどの数の紛争・訴訟を抱えていた。ピクっ
幕府が恐れたのが紛争の肥大化。紛争が積もり積もると大きな火種となり、やがて倒幕を企てる運動や戦争が各地で起こっても不思議ではないからである。
天下が収まった世相においての戦争とは、国力の減退へ向かぅマイナス要素でしかなかったので、そのような事態を回避すべく、幕府は西国の監視と治安維持の目的を兼ねて「探題(たんだい」と云ぅ要職を京都の六波羅へ置いた。
両使制度
六波羅探題が紛争の早期解決に活用した手法の1つに「両使制度」が挙げられる。
これは六波羅探題のみならず、後に創設される鎮西探題や、幕府も同じことが言えるが、それぞれの機関は紛争の早期解決のため、在京御家人 or 御家人から成る「二人一組」の使節を紛争現地に派遣していた。ピクっ
この使節は2名1組で派遣されることから、後世(特に研究者の間)では「両使」や「両使制」と表現される。
六波羅探題は在京御家人の立場を確立するその見返りとして、在京御家人を用い、西国における紛争の早期解決の装置とした。
朝廷・官吏との折衝・監視
六波羅探題が置かれた最大の理由の1つにかつて日本の政務・軍務を一手に束ねていた朝廷権力の抑制とその監視にある。
鎌倉時代以前の時代には朝廷を倒す勢力や権力など出現するハズがないという盲信が民間にはあった。
それゆえ、承久の乱がもたらした幕府(武士の集団)の勝利というものは日本の歴史上、最大級の変事(出来事)であり、北条氏はまさにその歴史的瞬間に直面していた。ピク、ピピっ
北条氏(幕府)がもっとも恐れたのは朝廷権威の復活であり、六波羅探題として、まずは朝廷の人員整理から行なった。
東鑑(吾妻鏡)によると、1221年(承久3年)6月15日、承久の乱に勝利した北条泰時、時房は翌日となる6月16日に六波羅館へ入ったとある。
泰時が六波羅探題・北方、時房が南方へ就任し、まずは戦争に加担した諸将ならびに首謀者の断罪から執行される運びとになった。
幕府は戦争の首謀者に後鳥羽・順徳の二上皇の名前と罪名を挙げ、さらに後鳥羽の皇子である冷泉宮(れいぜいのみや)・六条宮(ろくじょうのみや)を含めた各人を合わせて配流の刑に処した。
後鳥羽は隠岐(島根県)、順徳は佐渡(新潟県)へ配流となったが、土御門上皇は自らの意思で土佐へ配流した。父である後鳥羽が配流となったことから、都に自らの居場所を見出せなくなったことが理由に挙げられる。(土御門上皇は後鳥羽の第一皇子)
次いで幕府は皇室の人事も執行する。
まず、順徳の次代天皇として「後鳥羽の孫・仲恭天皇(ちゅうきょう)」の名前が挙がったが、物心つかぬ4歳ということもあり、後鳥羽の兄・守貞親王(もりさだしんのう/後高倉院)の皇子である「後堀河天皇(ごほりかわ)」を即位させた。
このような天皇の継承権までに介入することなど、それ以前の時代では考えられなかったことであり、当時の幕府の絶大な権威の程が垣間見える瞬間でもある。
鎌倉仏教・日蓮宗の始祖である日蓮上人は、ちょぅど承久の乱の翌年にこの世に生を得ているが、後世にてこの時の様子を『王法すでに尽ぬ‥‥』と儚くつぶやいたと云われる。
話を戻すと、さらに後鳥羽に加担した公家や武士は処刑(斬首)の上、その所領はすべて没収と相成った。
それと、乱後の朝廷は、かねてよりの親幕派であった西園寺公経(さいおんじ きんつね)が中心になって操作した。
西園寺公経は乱の発生後、後鳥羽に警戒されて長らく幽閉されていたが、乱後に解放された後、程なくして内大臣に昇進し、翌年には左・右大臣を飛び越えて太政大臣、その翌年には従一位へと昇進した。
しかしながら、同年4月になると公は太政大臣を辞すが、その権威は衰えを知らず、さらに増大の一途をたどり、貴族たちはこぞって公の顔色をうかがぅほどだった。
それもそのハズで、公は幕府(六波羅探題)と朝廷(院)の間をとり持つ、唯一の朝廷の役職となる「関東申次(かんとうもうしつぎ)」を幕府より仰せつかっていたからであり、朝廷の一切はまずは西園寺家に委ねられる運びとなっていたからに他ならぬぅぁぃ。
こぅして公経はこの世の春を謳ぃ、巨万の富を手中に収め、京都の北山に「北山第(きたやまだい)」という山荘を営んだ。
この山荘は室町期になると足利義満公が買収し、後に世に2つと無ぃ、金色の舎利殿で知られる金閣寺(鹿苑寺)が建造されることになる。
そして、これらの様子を見て安心したのか、1224年(元仁元年)6月、2代目執権の「北条義時」は没し(後妻の伊賀氏による毒殺という説もある)、その御霊の慰霊や、次代執権職の幕議も兼ねて泰時・時房は程無く、鎌倉へ下向した。
その入れ代わりで「北条時氏(得宗家)」・「北条時盛(北条一門・佐介流)」両名が上洛の途につき、新たな探題として北方に時氏、南方に時盛が就任する形で六波羅へ入った。
以後、時氏は1230年まで探題北方、時盛は1242年まで探題南方を務めることになる。うきゃ
一方、鎌倉では北条政子の後押しもあって、義時の跡を継いで新たに北条泰時が3代目執権に就任する運びとなり、泰時と共に探題を務めた時房がその補佐役となる「連署(れんしょ)」に就任した。
これにより、鎌倉に執権・連署、西国に六波羅探題を置いた北条氏を頂点とした鎌倉幕府の新体制が確立されたのだった。
西国の御家人の管理・統率
六波羅探題に課せられた使命は、御家人の統率も含まれる。特に設立当初、紛争が多かった在京御家人たちをまとめ上げ、自勢力に取り込むこともその目的とされた。
ただし、留意しておかなけらばならないのが、在京御家人は探題とは直接的な主従関係はなく、あくまでも幕府を通じての関係性が保たれていたことに着目しなければならぬぅぁぃ。
駐屯地・鎌倉殿の宿舎
鎌倉殿はじめ、御家人衆が東国より上洛した折、必ずこの六波羅へ立ち寄り、宿舎として利用したとされる。六波羅の内部には鎌倉殿の宿舎となる六波羅御所が建てられたが、鎌倉殿が上洛することが明らかな場合、その送迎準備として館の修営(修理)もなされた。
それと数多の兵士たちを駐屯させる駐屯地としても利用された。それゆえ六波羅は平氏が居処とした頃と同様、広大な敷地面積を誇ったと云われる。
六波羅探題の役割
実は現在まで積み重ねられた数ある研究を以ってしても、六波羅探題の職務をどのような御家人(人物)たちが担ったのかはまでは明確にされていない。
六波羅探題の職掌は下記に挙げるとおり。
洛中の警固
洛中の警固は平安末期頃から鎌倉前期、白河院や鳥羽院、後白河院、後鳥羽院などが主導した。
これらの院は在京の軍事貴族や武士たちを検非違使や院下の北面・西面武士として編成し、院よりそれぞれに現場への急行指令が下った。
しクぁし!1185年に源頼朝卿が入京すると、内裏・院御所の警固などは直ちに頼朝卿の管理下に置かれるところとなり、1192年頃から頼朝卿麾下の御家人衆がこの任務を独占し、承襲する様式を採った。
この御家人衆の中には在京出身者も居り、すべて京都守護の管理下に置かれたが、承久の乱後は京都守護が廃止され、新たに六波羅探題が創設されるとその管理下に置かれる運びとなった。
つまりのところ、六波羅探題の前身的機関にあてはまるのが「京都守護」となるのだが、京都守護は承久の乱以後、廃止となり、その後に置かれたのが六波羅探題となる。
京都守護の職掌としては、源頼政の子「頼兼(よりかね)」が大内守護を務め、大内夜行番(平易に京都大番役)を設置し、天皇の御所や洛中の警固を行なったが、六波羅探題が置かれたことによってその様相は一変。結果的に有無を問わず、六波羅探題が洛中警固を担うこととなった。
鎌倉後期に編纂された「沙汰未練書(さたみれんしょ)」には六波羅探題の職掌として「洛中警固 并びに 西国成敗」と記されており、これを直訳すれば「京都の警固」と「西国の管理(裁断)」となる。
これは京都守護を遥かに凌ぐ規模・権力を有した機関であることを示すものである。
六波羅探題は軍事権を有した機関
六波羅探題は京畿および、関西の諸政を総括し、鎌倉幕府(執権)の許可を仰がずとも、自由に軍事的権限を行使できた。
ただし、事の度合いが国家を転覆させるほどの大事だと判断された場合、鎌倉幕府へ報告の上、その指示を待つべしとされたていたことが東鑑には記されてい‥‥‥申す。….ちょぃ、今無理(今のってきたとこ)なにがや
なお、在京御家人衆は六波羅の軍事にも大きく関与していたが、在京御家人たちは六波羅探題との間に主従関係が無かったことから、幕府の保証が必要であったことも言及されてい‥‥申す。またきたか。ちょぃ余裕なぃ
しかしながら、前身機関となる京都守護とは比べものにならぬぅぁぃほどの強大な御家人統率力を誇ったのは事実であり、探題創設以前に跋扈していた在京御家人たちの権威は時の彼方へ消え去り、これすなわち、スッカリかりかりカリカリ梅酸っぱ‥てなほど、スッカリと探題の組織に取り込まれたことを意味した。その度合いが知りたぅぃ (そろそろこのクダリもねぇ….)
検断・裁断
六波羅探題の中心的な役割といえるのが、裁判と刑罰の執行にある。
六波羅探題も創設後は承久の乱の戦後処理と、寺社勢力の紛争に追われ、時に軍事力に訴えかけることもあったことから、幕府の暴力装置の一端を担った。
しクぁし!時代が下ると要領をつかめたことや紛争の早期解決の糸口が見出せたことにより、紛争解決のための実務を担う人員や、その手法・制度なども、確立・整備されていった。
この結果、若年者でも首長に就任して実務が遂行できるようになったことから、特に建治年間以降、執権や連署などの高位のポストをめぐる北条氏一門における争いのための機関とも成り果てた。
六波羅探題の職制
吾妻鏡によると、六波羅探題には数々の役が置かれた旨の内容が記されており、それは鎌倉の様式に倣ったものだった。それゆえ「小幕府」とも呼ばれた。
- 評定衆
- 引付衆(組織は頭人・引付衆・引付奉行から成る)
- 問注所(もんちゅうじょ)
- 侍所(さむらいどころ)
- 検断(けんだん)
- 越訴奉行(おっそぶぎょう)
…..etc
しかしながら、鎌倉幕府の下級裁判所という見方もあり、多くの訴訟は六波羅でまとめられた後、鎌倉へ移送された事実も記されている。ピクピクっ
評定衆とは?
「評定衆(ひょうじょうしゅう)」は裁判や政務を執り仕切った機関。有力御家人衆が合議制によって紛争の内容を審議し、裁定を下した。
南北朝時代に編纂された「増鏡(ますかがみ)」によると、寺社の強訴や皇位継承など国家の根幹をゆるがすような高度な案件に関しては、幕府から東使(とうし)として有力御家人衆を京師へ送り出した。
朝廷に関わる案件については、東使が朝廷側の窓口となる「関東申次」を通じて朝廷官吏などとコンタクトをとった。
引付衆とは?
上記、評定衆の業務(主に裁判)が滞りなく円滑に行えるように支援したのが「引付衆(ひきつけしゅう)」。紛争が多かったので早期解決を目的とし、新たに置かれた。
なお、一般的な訴訟は評定衆の下に置かれた前述の引付衆が担当したとされる。引付衆は当初、有力御家人が担ったが、執権時代になって北条一門の権威が高まると、北条氏族の若年者が評定衆などの上役へ昇進するための出世機関ともなり果てた。
問注所とは?
それら裁判の審理やその記録文書の作成・管理を担ったのが、「問注所(もんちゅうじょ)」。問注所には長官となる「執事(しつじ)」、その下で働く職員となる「寄人(よりうど)」が置かれ、いずれも鎌倉の職制に倣ったもの。
侍所
頼朝卿(鎌倉殿)を核とした鎌倉時代草創期は御家人衆が参集する詰所であり、御家人衆を統率・管理した機関。平時は鎌倉中の警固を主として行なった。
執権時代になると六波羅に関しては洛中警固を主としながらも、さらに組織が拡充され刑事訴訟にも対応するようになった。(後述の検断方が該当)
洛中警固とは、現代風にいうところの警察業務のことであり、はびこる悪党・群盗などへの対応・取締まりなどを行なった。前身機関となるのが、朝廷の官職であった検非違使(けびいし)になる。
寺社勢力などが群れをなして強訴してきた時には軍兵として出動し、都の盾ともなった。
検断方
侍所は検非違使の業務を踏襲したこともあり、刑事訴訟に対処するために検断を置いた。ただし、鎌倉の幕府においての検断は侍所が管掌したが、六波羅では侍所とは隔離された独立した機関だったことから、「六波羅検断方」などとも呼ばれた。
ちなみに「検非違使(けびいし)」とは「非違=法に背いた行為」「検=検察=裁定(犯罪の取り調べ)。判決」の通り、現代でいうところの検察業務が該当する。久利生検事は外国通販マニア
検断方の下部組織となる洛中の各・篝屋守護人が現地へ出動して罪人を捕縛し牢屋へブチ込む。その後、審議(取り調べ)が必要な場合、検断頭人が取り調べをネチっこく執り行ぃ、黒幕がいないかなど犯罪の証拠を調べ上げる。HEROはドラマも映画も良かった …なんの話や
その裁定は六波羅で執行されて処分を下すこともあったが、案件によっては鎌倉へ移送の上、鎌倉で裁定後、判定が下るケースも多々あったとされる。
ちなみにこの時代の主な犯罪とは、謀反、強盗、殺害、放火、刈田狼藉(ろうぜき/他人の田んぼの稲を不法に刈り取る行為)などとされる。
越訴奉行
越訴(おっそ)とは、再審制度のこと。それに対処した奉行人もしくは奉行所を越訴奉行という。1264年(文永元年)に安達泰盛、北条実時を頭人(キャプテン)として創設された。
引付衆の下部組織という見方もできるが、執権・連署に次ぐ有力御家人などが頭人に名前を連ねることからも分かるように幕府の重要な機関でもあった。
幕府にとっての御家人とは心臓部にあたり、その心臓から体内をめぐる血流ともなって「幕府」という屋台骨を維持したことから、御家人の権利保護は重要視された。
なお、六波羅探題の奉行人に関しての職掌は鎌倉のような分担形式を採ったものだったのかは判然としないとされる。(鎌倉の幕府は各職の下に数多の奉行人が置かれている)
【補足】鎌倉幕府の職制(承久の乱後)
執権
将軍の補佐(公家の最高位である官職の「関白」に相当)
北条氏が舵を取った執権時代は幕府の首長(鎌倉殿)と同義といえる存在。(執権時代の将軍は北条氏の傀儡/あやつり人形)
執権以下の組織
政所、問注所、侍所、評定衆、引付衆、奉行人
地方官
京師(京都)に六波羅探題(北方or南方)
時代が下ると奥羽と九州地方に奉行、探題をそれぞれ置いて外寇(外敵の襲来)に備えた。
諸国・荘園には守護、地頭を置いた。
武家裁判の執行者(執行機関)
時に幕府の根幹を揺るがしかねないほどの重要な裁判となったのが「武家裁判」。その武家裁判を担当できたのが、次の3機関だった。
- 鎌倉幕府
- 六波羅探題
- 鎮西探題(ちんぜいたんだい)
武家裁判に多かったのが、不動産がらみ(平易に土地やそれに絡む年貢・税)の訴訟。幕府の権威が増した承久の乱後も旧体制に則る西国各地の荘園領主たちと地頭との間には紛争が頻発した。
検非違使庁との並存形態
京都にはもう1つ、官営機関となる「検非違使庁(けびいしちょう)」が存在した。検非違使庁は主に公家に関しての裁判を執行した機関だったが、承久の乱後の京都にはすでに朝廷の軍事・警固機関は組織崩壊しており、使庁にはもはや犯罪に対処できる能力が無かった。
それどころか、逆に使庁から任務遂行困難との打診があり、幕府は急遽、京都における追加法(御成敗式目)を公布し、京都の強盗殺害事件に関しては使庁と六波羅の共同によって裁判をすることを定め、その後、重犯罪事件については六波羅が一手に引き受けてこれを検断するとしてい‥‥‥申す。ケンドゥァっ(”検断”を表現)
六波羅探題の洛中警固における検断の手順
- 探題の指示を受けた探題被官(検断頭人)の指揮のもと、現場近くの篝屋(かがりや)守護人(幕府が京都の治安維持のため市中の48か所においた番所のこと)が現場へ向かう。
- 当日、出仕の奉行人が動員される。
- 探題被官が動員される。
篝屋は概ね大路の交差点ともなる辻々(つじつじ)に48か所、設置されたと伝わる。
それぞれの篝屋には主に探題の私兵ともなる検断頭人以下の在京御家人・西国の御家人衆が一族郎党を動員して一ヶ所を預かる形で洛中を警固したとされる。
篝屋守護を担当した者は年貢が免除されたりしたので、皆々、力の限り奉仕した。
六波羅探題の運営組織図
京都大の上横手博士の見解によれば、六波羅探題の組織形態は次のようになるとされる。
先述した六波羅探題は鎌倉幕府の下級裁判所という見方もあるというのは、調書を六波羅で作成し、それを鎌倉へ送って、幕府の事務官(引付衆など)が裁定を下すという流れが存在したことにある。
六波羅探題はまさに東国以西の矢面に建つ、鎌倉幕府の出張機関であり、幕府に絶対的な権限あるとはいえ、常に幕府の前に立ちはばかり、まずは防波堤の役目を担わなければならかった。
また、國學院の森博士による見解では次のように表される。
六波羅探題 | ||
評定衆 | 引付方 | 検断方 |
|
|
「五方引付(ごほうひきつけ)」とは「三方引付(さんぼうひきつけ)」を改めたもの。三方引付とは、御家人同士の紛争の早期解決を目的とし、北条氏一門の3名が任命された。引付衆は紛争を解決できるだけの発言力も問われることから、有力御家人や右筆出自者が選出された。
「開闔(かいこう)」とは、平安以後、書類・文書の出納・勘査を行う職掌を担った公武に設けられた役職・機関のこと。オホ
六波羅探題の首長に北条一門が世襲した理由
六波羅探題の首長には北条一門が世襲して就任していたが、六波羅探題の首長となっていた北条氏族が領有した地域を考察すると、京都と隣接した摂津、播磨、丹波の守護であることに気づく。
これは鎌倉後期になると特に顕著になるのだが、六波羅探題の首長となる者は権威や発言力を必要とするためか、京都を囲んだ地域の守護をもほぼ固定で担った。
固定された理由の1つに在京御家人衆や公家衆の監視・封じ込め、または首長との心理的距離を狭めるための施策も兼ねたとも考えられる。
ただし、探題の首長と守護の兼務は煩雑さを伴うこともあり、探題被官が守護代として各領地に配置された。
この時、守護代に任命された氏族は次のような有力被官に限定されてい‥‥‥申す。ケンダントゥァフェっ(”検断頭人”を表現)
- 糟屋氏(かすやし)
- 高橋氏(北条基時〜北条仲時 氏流の氏族)
- 小串氏(北条範貞 氏流)※六波羅探題北方
- 鵜沼氏(北条貞顕 氏流)
- 六波羅探題南方(北条氏政村 氏流)
これらの氏族は主に探題や幕府にて検断頭人を輩出してい‥‥‥申す。ケンダントゥァフェっ(この”ケンダントゥァフェっ”はさっきのとはまた違うヤツ)
六波羅探題の総轄地域
六波羅探題の管轄した区域は時代の変遷によって異なっている。ピクっ、ピピピっ
例えば鎮西府(鎮西探題)が置かれた1296年以降の西国の範囲は尾張より以西、越前のより以南とされ、東山道(とうせんどう)方面では美濃国(現在の岐阜県南部)を含めた畿内・近国が六波羅探題の所管だった。
実は「西国」という言葉の範囲は鎌倉時代を通して3度の変遷を経て、その範囲と意味合いが異なってい‥‥‥ます。フェイント
貞永式目(御成敗式目)が定められた当初(貞永元年8月10日に制定)は西国は九州のことを指した言葉だったが、御成敗式目の貞永元年(1232年)9月1日に公布された追加法によると、六波羅探題の管轄区域は「畿内、近国、西国」と記されてい‥‥‥申す。.….ちょぃ待って
1235年(文歴2年)になると幕府は、六波羅探題の管轄区域を「東国は尾張を限り」「北陸道は加賀を限る」と記してい‥‥‥申す。….連発はねぇ
1243年(仁治4年)〜1247年(宝治元年)頃よりの「西国」の意味、すなわち管轄区域は「畿内近国」を示す際に使用されるようになり、「鎮西」とは「その他の西国の国々」を指した。
【補足】六波羅探題の歴代首長一覧
六波羅探題・北殿(北方) | |||
首長氏名 | 血統(流派) | 任務機関 | 退任先の職務など |
北条泰時 | 得宗家 | 1221年 – 1224年 | →執権 |
北条時氏 | 得宗家 | 1224年 – 1230年 | |
北条重時 | 極楽寺流 | 1230年 – 1247年 | →連署 |
北条長時 | 極楽寺流 赤橋氏 | 1247年 – 1256年 | →評定衆→執権 |
北条時茂 | 極楽寺流 常盤氏 | 1256年 – 1270年 | |
北条義宗 | 極楽寺流 赤橋氏 | 1271年 – 1276年 | 二月騒動で南方の北条時輔を討つ |
北条時村 | 北条政村流 | 1277年 – 1287年 | →評定衆→連署 |
北条兼時 | 得宗家 | 1287年 – 1293年 | 南方より |
北条久時 | 極楽寺流 赤橋氏 | 1293年 – 1297年 | |
北条宗方 | 得宗家 義時流 | 1297年 – 1300年 | |
北条基時 | 極楽寺流 普恩寺氏 | 1301年 – 1303年 | →評定衆→執権 |
北条時範 | 極楽寺流 常盤氏 | 1303年 – 1307年 | |
北条貞顕 | 金沢流(北条実泰・実時が流祖) | 1311年 – 1314年 | →連署→執権 |
北条時敦 | 北条政村流 | 1315年 – 1320年 | 南方より |
北条範貞 | 極楽寺流 常盤氏 | 1321年 – 1330年 | |
北条仲時 | 極楽寺流 普恩寺氏 | 1330年 – 1333年 | 1333年、六波羅探題は滅亡 |
六波羅探題・南殿(南方) | |||
首長氏名 | 血統(流派) | 任務機関 | 退任先の職務など |
北条時房 | 北条時房流 | 1221年 – 1225年 | →連署 |
北条時盛 | 佐介流(北条時盛が流祖) | 1224年 – 1242年 | |
北条時輔 | 得宗家 | 1264年 – 1272年 | 二月騒動で北方の北条義宗に討たれる |
北条時国 | 佐介流(北条時盛が流祖) | 1277年 – 1284年 | 罷免され、常陸国へ配流の後に討たれる |
北条兼時 | 得宗家 | 1284年 – 1287年 | 北方へ |
北条盛房 | 佐介流(北条時盛が流祖) | 1288年 – 1297年 | |
北条宗宣 | 大仏流(おさらぎりゅう/北条朝直(北条時房の四男が流祖) | 1297年 – 1302年 | →評定衆→連署→執権 |
北条貞顕 | 金沢流(北条実泰・実時が流祖) | 1302年 – 1308年 | 1311年から北方 |
北条貞房 | 大仏流(おさらぎりゅう/北条朝直(北条時房の四男が流祖) | 1308年 – 1309年 | |
北条時敦 | 北条政村流 | 1311年 – 1315年 | 北方へ |
北条維貞 | 大仏流(おさらぎりゅう/北条朝直(北条時房の四男が流祖) | 1315年 – 1324年 | →評定衆→連署 |
北条貞将 | 金沢流(北条実泰・実時が流祖) | 1324年 – 1330年 | |
北条時益 | 北条政村流 | 1330年 – 1333年 | 1333年、六波羅探題は滅亡 |
「太平記」によれば、新田義貞の軍勢に追い詰められた執権・北条高時が東勝寺に逃げ込んだ折、北条貞将が坂東武者の意地で捨て身の突撃を敢行する旨を高時に告げ、感動した高時は「両・探題に任命する」旨を認めた御教書を貞将へ手渡したとある。
貞将は、”メイド”がおケツを振り振りしながらプチセクシぅぃ〜💕ダンスを披露するかの如く、『”冥土”への良き手土産になる』と言い残して坂東武者らしく壮絶に散り果てたと伝えられる。どんな度合いや …またこのクダリか
なお、「探題」の意味合いとしては「長官」ともなることから、この時、高時が「両・探題」と告げたのは一説に、「執権と連署」を指すという見解もある。
六波羅探題があった場所
六波羅探題があった場所は六波羅蜜寺の周辺だったと推察されてい‥‥‥申す。スルメ ハ ヨッチャンっ
六波羅探題の設置場所は以前に何があった?
六波羅探題は何らかの権限を権門機関から得て創設されたのではなく、造営以前、平清盛とその父親である忠盛の屋敷が建っていた。ピクっ
そもそも清盛を筆頭とした平家が在京することになった事の発端は、忠盛の父(清盛からみれば祖父)の正盛が六道珍皇寺から境内地の一部を間借りして、阿弥陀如来像を奉安する六波羅堂(阿弥陀堂とも/(現・常光院)」を建立したことに始まる。
平安京の鴨川(かもがわ)から東の地は「真葛ヶ原(まくずがはら)」「鳥辺野(とりべの)」と呼ばれた死者の埋葬地であり、当地にはそれら数多の死者の御霊を弔うべく、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)、果ては清水寺が佇んでいた。ピクピクっ
正盛が六波羅堂を建立したことにより、六波羅蜜寺との間に奇妙な関係が生じ、ついには寺の塔頭に軍勢を駐屯させる許可を得ることにつながり、境内の隣地には六波羅殿(六波羅館)を営むに至った。
平氏は正盛の次代当主となる忠盛の頃より大きく隆栄することとなるが、清盛の頃になると後年の考察における平家最大の勢力図が形成され、当時の六波羅館の敷地は南北およそ500メートル、東西およそ600メートルにも及んだ。
さらにその周囲には塀が巡らされ、塀の中には伊勢平氏・惣領家の邸宅となる「泉殿(いずみどの)」を中核とした、およそ3200余戸もの伊勢平氏の一族郎党の甍が軒を連ねたと云われる。うきゃ
しクぁし!平家物語によると、この館も1183年(寿永2年)に「木曽の山猿」とも蔑称された「木曽義仲(きそよしなか)」が入京すると、平氏は都落ちに至り、その折、放火したとある。
この放火により六波羅館のみならず、六波羅蜜寺境内も本堂を残し灰燼に帰したとされる。
つまり、六波羅探題は六波羅殿(六波羅館)の焼け跡に創設されたことになるが、厳密には頼朝卿の屋敷を継承する形で創設された。
頼朝卿は源平合戦に勝利したことにより、かつて平氏が領有した六波羅の平家没官領(もっかんりょう)を後白河院より下賜され、吾妻鏡によると1190年(建久元年)11月7日、かねてより院の切望を仰いだこともあり、1000余騎からなる坂東武者を引き連れ上洛の途につく。入京後、かつての伊勢平氏の本拠地であったこの六波羅に新造された屋敷へ入ったとある。
以後、六波羅の北側には将軍御所(六波羅御所とも呼ばれる)はじめ、御家人の宿舎も築かれた。
頼朝卿の逝去後、鎌倉幕府の京都守護に任ぜられた北条時政(北条政子&義時の父)は、この頼朝卿の屋敷に京都守護の庁舎を置き、その後、当地に六波羅探題が置かれたことになる。
なお、清盛は六波羅以外にも付近の西八条(現在の京都駅西、梅小路公園付近)にも十一町からなる広大な敷地を有する邸宅(西八条邸)を構えたとある。
また、頼朝卿も六条堀川に河内源氏代々の屋敷を保有していたとされる。
北条氏は頼朝卿とは境遇が異なり、東国は坂東武者の氏族であることから西国に根拠がなく、このような北条氏をはじめとした西国に根拠を持たない者どもは皆々、この六波羅を西国における根拠地とした。
六波羅探題の現在
六波羅探題の跡地には一時期、太閤秀吉などの介入により、六波羅蜜寺の伽藍が広げられた際の用地とされ、続く徳川政権においても家康公の帰依を受けるなどして程良き隆昌を得たが、明治の廃仏毀釈・上知令によって寺領が接収されると以後は荒廃する。
そこから近代化の煽りを経て、今日のような住宅街に飲み込まれたような景観へと変貌を遂げてい‥‥‥申す。リャクハゥァティアっアっ(”六波羅邸”を表現) ….ナメックあたりの新語?
六波羅探題跡の石碑
碑文
『此附近(この付近) 平氏六波羅第 六波羅探題府』
「平氏六波羅第」とは、上述した伊勢平氏の六波羅邸(六波羅館)のこと。
石碑の刻銘を見てみよぅかなぁ‥‥
石碑の左側面の刻銘
『寄附者』と陰刻されているのが見えるが、‥その右下に何やら名前のようなものも見えるが、風蝕のためかよく見えなぬぅぁぃ。
ただ、この石碑‥、往時はもっと地上に飛び出している面積が多かったのではなぃか?
寄附者の「者」の下に陰刻が見える。
耐久性のある御影石(花コウ岩質岩石)と思われるが、途中で割れて補修した痕が見える。
石碑の裏側
石碑の裏側まであまり見る人がいないと思うので一応、載せておくとしよぅ。
大正〜‥‥その下にハッキリきりきりキリンレモン‥‥てなほどハッキリと刻字が見える。‥‥『京』?
おそらく往時は最近の鼻毛の飛び出し具合のように もっともっと激しく飛び出していたのだろぅ。剃れよ
六波羅探題の石標(石碑)がある場所
- 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)境内(本堂の前)
石碑の裏側(六波羅蜜寺の前の通り)の様子
次いで通りの反対側から。
続いて通りを遠景で撮影。
写真を見れば分かるように現在の六波羅蜜寺周辺はスッカリかりかり‥またこのクダリかぃ!‥‥てなほど、スッカリと住宅街になっている。どんな度‥‥ふぅ。
六波羅蜜寺とは?
六波羅蜜寺は真言宗智山派の寺院であり、951年(平安中期)創建された。現在の本堂は1363年(室町時代)に再建されたものを修営した姿となる。うきゃ
安土桃山期には太閤秀吉が修営を行い、その一端が本堂柱上の安土桃山様式の文様に見える。
江戸期にも家康公の帰依を受けて隆栄に至り、江戸末期には大伽藍を擁したが、明治初頭の上知令・廃仏毀釈によって寺領は減少・荒廃し、1969年(昭和44年)の開創1000年記念による修営を受けて創建当初の極彩色の色彩が復原され、今日に至る。
- 六波羅蜜寺公式サイト:https://www.rokuhara.or.jp/
六波羅探題跡地(六波羅蜜寺)の場所(地図)
六波羅の場所は明確にされていない
六波羅は古くは鴨川東岸、五条大路(現在の松原通)より、七条大路一帯の地を指す地名とされる。現在は「東山区 六原学区一帯」の地名として用いられるが、実のところ、平家が屋敷を構えた頃よりの六波羅の範囲は判然としておらず、様々な憶測や論証があるものの明確にされていない。
しかしながら、北は松原通り、南は六条通りの間には清盛が築いた伊勢平氏一族の館が軒を連ねていたと云う説があり、これが正とするならば、その範囲に六波羅探題が存在したことになる。
江戸期になって旧名が復興された?
どうやら江戸時代になって清盛の頃に建っていたとされる邸宅の場所などが、旧名として復興されてそれを町名としたとのこと。
- 池殿町:清盛の異母弟で池大納言(池殿)と呼ばれた頼盛の邸宅跡があった場所(それ以前は清盛の継母「池禅尼(いけのぜんに)」の邸宅)
- 三盛町:清盛・教盛・頼盛、3兄弟の邸宅があった場所
- 門脇町:清盛の異母弟となる教盛(門脇中納言)の邸宅があった場所
- 多門町:伊勢平氏の六波羅邸の東側にあった惣門跡
この説が正しいのならば以下の地図で示す場所に六波羅探題ならびに、平氏の六波羅第が存在したことになる。
六波羅探題の門の遺構が東福寺に現存する❓
上掲地図の「北御門」や「西御門」というのは探題の門が建っていた場所と云われる。
実は東福寺(京都)の境内入口には「六波羅門(ろくはらもん)」と呼ばれる国の重文指定の門が現存しているが、この門は一説に往時の六波羅探題の御門を当地へ移築したものと云われる。
京都市が挙げる六波羅探題の場所
京都市の調査によると、五条末(現・松原通)から六条坊門末(現五条通)には六波羅探題の北方。六条坊門末から六条末(現・正面通)には南方が置かれていたとしてい‥ます。うぅっ
上記を合わせた六波羅探題の場所
以上の場所を含めて想定した六波羅探題の場所・敷地面積
つまりのところ、六波羅蜜寺の石碑が建つ場所は、厳密には「六波羅探題・北方の跡地」と推定される。
六波羅第(清盛の頃)の模型
画像引用先:https://www.kyoto-arc.or.jp
左側に見える水たまりは池。池殿と呼ばれた頼盛の屋敷があった場所。後年、頼朝卿がこの場所に六波羅御所を構えたと云われる。
その水たまりのわずかに右側に見える三角屋根(寄棟造)の建物が六波羅蜜寺の本堂になる。
下掲、地図と重ね見ると理解が進むが、池殿と呼ばれた頼盛の屋敷の左隣りには清盛の広大な敷地を有した泉殿が建っていた。
この状況を加味すると、清盛の頃の六波羅第は鴨川東岸付近(現在の京阪の線路or道路(川端通り)あたり)まで広がっていたと考えられる。
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