【👻清水寺の七不思議💀】轟門の『梟(フクロウ)の手水鉢』『梟の水』とは?

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なぜ「梟の手水鉢」と呼ばれる?

轟門の手前には「轟橋」という橋が今も現存しているが、その傍らには、不思議しぎしぎ摩訶不思議なことになんとぉぅ!「梟(フクロウ)の姿を刻んだ「梟の手水鉢(ちょうずばち)」が置かれてい‥‥‥申す。グゴグェゥェっ

それゆえこの手水鉢は巷間では「梟の手水鉢」と呼ばれてい‥‥‥申す。ガフェっ

「フクロウの水」もある?

この手水鉢の上には通常の社寺に見られるような口から水を吐く龍の彫像が置かれていて、龍口から水が流れ続けていることから、水の方も「フクロウの水」などと呼ばれている。

しクぁし!この手水鉢にはフクロウを型どったような彫刻の姿形すらありんせん。

コロナ禍前の姿

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木造の受け溝がなく、スッキリとした見栄え。早くこの頃に戻れますように‥‥‥チュ💋


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‥‥それで梟の彫刻はいったぃドコにある?

現在では風蝕・劣化のため少々見づらくはなっているが、手水鉢の台石(脚元)に「観音菩薩」と「フクロウ」の彫刻が見える。

手水鉢の風蝕・劣化により彫刻の輪郭が崩れて分かりにくくなっているが、よ〜く目を凝らして見てみると観音菩薩やフクロウの輪郭がウッすらと見えてくる。

観音菩薩

清水寺の七不思議&裏話【その4】「ふくろうの手水鉢」

厳密には観音菩薩が中座、その両脇に梟の彫刻が据えられてい‥‥‥申す。ガハっっ

上掲写真の梟が前面に2体、背面に2体彫られてい‥‥‥申します。(フェイント)

分かりやすくいうと、箱型に切り出された石コロころころドコいった‥‥に、『梟・菩薩・梟』という構図の彫刻が、前面と背面の2面にあるということ。

手水鉢に梟(フクロウ)の彫り物がある理由

幸運を呼ぶ吉鳥という俗信があった

「梟(フクロウ)」は闇夜に蠢く(うごめく)ので、「ダーク(悪)な」のイメージが付きまとう。

しかしながら、平安時代では「幸運を呼ぶ吉鳥」、室町時代においては人間の煩悩を祓う霊鳥といぅ俗信があったとされる。

梟が煩悩を祓う霊鳥とされた理由

これはあくまでも諸説あるうちの1つの説になるが、296という数字は『ふ(2)・く(9)・ろう(6)』とも解読することもできる。

さらに296を解体していって掛け合わせると‥‥「2×9×6=で108」となる。

この『108』という数字を聞いて‥‥まるでピッコロがフリーザの気配をとんでもねぇ遠距離から察知するほどに、ピぃーんっ!とキチまった方も多いことだろぅ。….なんでピッコロやねん ブルマはあかんのか? あっブルマは無理か。 …て、なんの話や

そぅ!”108”は人間の煩悩の数を示す数であり、仏教とは非常に関わりが深い数字となる。

つまり、梟の手水鉢で手・口を洗い清めることによって身体が浄化され、いわゆる禊の代用とすることができるといぅこと。オホっ

梟は夜目が効き仏教の守護鳥とされたから

古代インドには「ラクシュミー」という女神がいるが、この神は夜の帳が降りる頃、梟の背に乗って街中を飛び回り、人々が未来永劫、闇に閉ざされないように見守り続けているといぅ俗信がある。

この神は、やがて吉祥天と習合し、仏教とともに日本へ伝来するのだが、日本では富,美,繁栄,豊穣をもたらす神として、およそ8世紀頃から信仰が寄せられはじめる

清水寺の七不思議&裏話【その4】「ふくろうの手水鉢」

上掲写真をご覧になれば分かるが、中座に菩薩の彫刻、その左右両脇に梟の彫刻があり、まるで中央の菩薩を守護しているかのようにも見える。

つまり、仏法の象徴たる菩薩を四方から囲むことで仏教(清水寺)を守護していると捉えることができ、さらに夜でも夜目を光らせて不審者から清水寺を護っているといぅ意味合いにも受け取れる。


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台石は鎌倉時代のもだった!

再度おさらいしておくと、この手水鉢の下には4つ脚の台石が置かれているのだが、その中央部に上述の菩薩像と梟の台石が置かれてい‥‥‥申す。ガヒャっ

実はこの台石、なんとぉぅ!鎌倉時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)の塔身の一部を再利用したものになるとのこと。

つまり、上述した菩薩と梟が彫られた台石が設置された理由をいくつか列挙したが、実際はそぅではなく、単に宝篋印塔の一部が転がっていたから、再利用しただけかもしれないといぅこと。うきゃ

梟の手水鉢の歴史

手水鉢に残された謎の刻銘

手水鉢の正面には次のような刻銘が見える。

「清水寺石鉢 寛永十癸酉歳十一月吉日」

この刻銘を訳すと「1633年(寛永10年)癸酉の年の11月の縁起の良い日(吉日)にこの石鉢を奉納した」となる。

既知の方も多いと思うが、1629年(寛永6年)より約3年間、清水寺境内では徳川家光公による再建工事が実施された。

この刻銘の年号は「1633年」となっているが、実はこの年、念願の本堂と奥の院の再建も成り、おおむね伽藍全体の寺観が整った。

つまり、清水寺再建を奉祝してこの手水鉢が設置されたと、まずは考えることができる。

龍の口が設置されたのは実はごく最近!

上述の龍の口は、大阪在住の清水寺信徒一同によって奉納されたようで、第二次世界大戦の折、1942年(昭和17年)に政府の供出によって武器製造のための材料として没収された。

2代目(現在)の龍の口は、1950年(昭和25年)に山科(京都)の崇敬者(清水寺信徒代表)の吉村孫三郎が、同じ京都在住の鋳匠「高橋大治郎」に注文して奉納されたものになるようです。

轟門の前は人ゴミで溢れかえっていますが、興味のある方は邪魔にならないように探してみてください。

また、この手水鉢の脇に建つ覆屋(おおいや)も少し変わった建築をしており、通常は4本の脚で屋根を支えますがなんと!柱が4本ではなく2本で屋根を支えてます。

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