京都🐉清水寺「アテルイ モレの石碑」と「征夷大将軍・坂上田村麻呂」

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京都・清水寺「アテルイ モレの石碑」と「征夷大将軍・坂上田村麻呂」

制作年

1994年(平成6年)11月

揮毫者

京都・清水寺「森清範」貫主

奉納者

関西胆江同郷会(会長:高橋敏男氏)

アテルイ モレの石碑とは?

京都・清水寺境内の最終コーナー、府中の直線とも言える音羽の滝から仁王門脇までのストレートに差し掛かり、ちょうど100の標識あたりに「阿弖流爲 母禮 之碑」と刻まれた高さ1メートルほどの石碑が建てられてい‥‥‥申す。ヒヒぃぃン🐴パカラっ♪

具体的な地名で云うと、清水寺の「南苑」と呼ばれる場所のこと。

この石碑は平安建都1200年の際に立てられた記念となる石碑で、ほとんどの参拝者は参拝を終えた後にこの石碑の前を通り過ぎ、そのまま境内を後にします。

しかし、この石碑の前に立ち止まってよく石碑を見てみると日本列島の東北地方の形が彫られていることに気づきます。

はたしてこの石碑はどういった意味があるのか?

以下ではこの謎にせまってみたいと思います。

まず‥‥‥「阿弖流爲 母禮 之碑」の読み方

「阿弖流爲 母禮 之碑」は「阿弖流爲」と「母禮」と「之碑」で分けて読みます。

「阿弖流爲」とはとは、カタカナ表記で「アテルイ」と読み、「母禮」とは「モレ」と読みます。

「之碑」は「の石碑」という意味合いになります。

「アテルイ モレ」とは?

「アテルイ モレ」という名前を聞くと、ラテン音楽を唄う真っ赤な真紅のスカートワンピースを着て、右下にスケベなホクロのある美しいスペイン系の女歌手をイメージしてしまいます。ウっフぅん

しかし実際の「アテルイ」と「モレ」は、蝦夷国(えみし・えぞ)の族長であり、蝦夷軍を率いた総大将でもある武人です。

よって上記の右下ドスケベ ボクロの真紅スカート・ワンピースを着た美しい女歌手とは程遠い存在となります。ウホっ

ちなみにもっと正式には「大墓公阿弖流爲(おおはかのきみあてるい)」「盤具公母禮(いわぐのきみもれ)」と読みます。

蝦夷とは?

蝦夷とは「えみし」や「えぞ」と読み、室町時代の頃まで現在の北海道を中心に北はカムチャッカ半島南部、南は岩手県・山形県あたりまでを支配していた民族であり、国名でもあります。

鎌倉時代に差し掛かると「蠣崎(かきざき)」と名乗り、江戸時代に入ると名前を「松前(まつまえ)」と改めて、正式に幕府を構成する大名に列し幕府の管理下に置かれています。




征夷大将軍・坂上田村麻呂とアテルイ モレ

日本史上初となる征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)とは誰だかお分かりになりますか?

ちょっと考えてみてください。

・・

・・

残念無念!ハズレです!惜しい

日本史上初の征夷大将軍とは「大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)」と言う人物です。

坂上田村麻呂は現在では征夷大将軍として知られていますが、それ以前は大伴弟麻呂の副将軍を務めていました。

その大伴弟麻呂のもとで田村麻呂は功名を立て、やがて大伴弟麻呂より征夷使(征夷大将軍)の号を授けられることになります。

そして797年(延暦16年)11月に桓武天皇より正式に征夷大将軍に任命されることになります。

ちなみに征夷大将軍の言葉の語源は、「蝦夷を征服するための大軍団を率いる将軍」という解釈になります。

さっそく蝦夷に向かった田村麻呂は知略と武力で蝦夷を圧倒し、さらに蝦夷側の要衝であった胆沢の地の一部を攻略し城を築きます。

実は田村麻呂が蝦夷の地に派遣されるまで、過去に何人もの将軍が蝦夷に送り込まれましたが、その都度、歌手のアテルイ モレが、あ間違い、アテルイとモレ!!が立ちはばかり進行を退けてきました。

しかし、そんな歴代の将軍の中でも抜きん出た知恵と腕力を持つ田村麻呂に恐れをなし、ついに精鋭500を率いて田村麻呂に降伏を願いでたと言うわけです。

アテルイとモレが田村麻呂に降伏を願いでた理由

蝦夷は少数精鋭を誇り、地形を活かした巧みな戦略と攻撃を仕掛けるのを得意としていました。

けっして降伏などしない勇猛果敢な民族でしたが、武人として名を馳せていた田村麻呂に要衝である胆沢に築城を許してしまったことで田村麻呂の知略をも認め、交戦すれば勝つ見込みはなく、共に激しい死者がでた末に、むなしく戦いが終わることを予測したためです。

それほど田村麻呂が強かったということになります。

降伏したアテルイとモレのその後

田村麻呂もアテルイとモレの総大将としての器に感服し、2人を京都・御所へ連れて行き、天皇に公式的に許しをいただき、2人を蝦夷の地へ返してやろうとしました。

ところがドッコイ、天皇やその朝臣たちは「虎を野に放つようなもの」だと声を揃えて2人の降伏を認めず、2人を杜山(現在の大阪枚方)へ送り、首をはねて処刑してしまいました。

田村麻呂は唖然として意気消沈しますが勅命には逆らえず、やむなく現実を受け入れることとなります。

この後、片埜神社(かたのじんじゃ)の境内に土が盛られ、これを塚として祀られていたようです。

現在、杜山の地には2人の菩提を弔うため、アテルイとモレに救われた一族となる岩手・胆沢の人々によって2人の塚が建てられ、静かにこの地で眠りについています。

この塚はかつて枚方・片埜神社の社領であった牧野公園内に建っています。

牧野公園内にあるアテルイ モレの石碑もこの清水寺の石碑同様に森清範貫主が揮毫(きごう)し、その型が彫られています。

枚方・牧野公園の問い合わせ先「産業振興室 賑わい交流課」

住所:大阪府枚方市牧野阪2丁目15
営業時間:入場自由
定休日:なし




清水寺にアテルイとモレの石碑が立てられた理由

上述した通り、アテルイとモレは田村麻呂に降伏した後、京都へ行き、そのまま帰らぬ人となり、二度と蝦夷の地を踏みしめることはありませんでした。

蝦夷の人々は田村将軍を裏切り者として心から恨んだそうです。

しかし時代の流れが過去の凍りついた事実を浮き彫りにして、まるで氷が徐々に溶けていくように、田村麻呂が2人に篤い温情をかけたことが明らかにされていくことになります。

時は流れて1994年になり、「平安建都1200年祭」という大イベントが京都で執り行われることになります。

このイベントを期とし、今も族長としてアテルイとモレに崇敬を寄せる胆沢の人々が、田村麻呂の篤い温情に感謝を捧げ、和解の意味合いで石碑を建てたいと発願し清水寺へ申し出たそうです。

清水寺もこの申し出を快く受け入れ、その結果、和解の意味合いで「森清範」貫主が直々に揮毫して現在の場所にヒッソリそりそり髭剃り深ぞっちまったゼィ‥‥‥てなほどヒッソリと佇んでい‥‥‥申す。

アテルイ・モレの碑とその他、関係する石碑一覧と碑文

アテルイ・モレの碑の碑文(表側)

北天之雄

阿弖流爲 母禮 之碑

清水寺貫主森清範

アテルイ・モレの碑の碑文(裏側)

八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国(ひたかみのくに)と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。

胆沢(いさわ:岩手県水沢市地方)の首領、太墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。

八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。

田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐具公母礼(いわくのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし、公家達の反対により阿弖流為・母礼は八〇二年八月十三日河内国で処刑された。

平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為・母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。両雄もって冥さるべし。

一九九四年十一月吉祥日
関西胆江同郷会 アテルイを顕彰する会
関西岩手県人会 京都岩手県人会




顕彰碑

八世紀末頃、日高見国胆沢(いさわ:岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷(えみし)の首領・阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略 に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。

田村麻呂は敵将ながらアテルイ・モレの武勇・人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ・モレ両雄は八〇二年河内国で処刑された。

この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ・モレ顕彰碑を建立す。

みちのく桜

平成29年2月 南苑に桜を植樹し、記念碑「みちのく桜」を建てた。

これは、当会の活動を顕彰した創立70周年を迎えた胆江日日新聞社様から授与された「第18回胆江日日新聞文化賞(平成28年5月 受賞)」を記念したものである。

上記、碑文は「関西アテルイ・モレの会(http://www.iwate-kansai.com/aterui/aterui.php )」より引用

京都清水寺「アテルイ モレの石碑」の場所(地図)

アテルイ・モレの石碑は清水寺の最終コーナー・第四コーナーとも言える音羽の滝を出て、舞台下参道の府中の直線(直線ストレート)の先に位置します。

ケツを手で(ムチで)引っぱたけばアっという間にアテルイ・モレの石碑が見えてきます。ヒヒィ~ん

清水寺境内・周辺の観光スポット一覧

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