清水寺の舞台から飛び降りた理由と生存者数(生存理由)や死者の数を知ってどう‥‥‥まさか!?

スポンサードリンク

まず最初にぅぃ。‥‥本当に清水の舞台から飛び降りた人がいたのか?何人いた?

とても信じがたい話だが、江戸時代、清水寺本堂の舞台から飛び落ちる行為が流行した時期があった。

なんでも飛び落ちが善行とされた時期があって、事実、飛び降りた人がいたのだが‥‥はたして何人が飛び落ちたのか‥お分かりになりますけぇぃ?

なんと!江戸時代、実際に飛び降りた人が、234人もいたそうです。

この事実については、清水寺境内に現存している「成就院」の床下から1990年代に見つかった「清水寺成就院日記」という書物から記述が見つかっています。

清水寺の境内にある「成就院」は、江戸時代、奉行所へ報告をする義務を担っており、上述のことわざが流行して、飛び降りる者が後を立たなかったために、このような記録が残されたようです。

意外な事実!飛び降りて「本当に生きていた人の数と死者の数」

舞台からの飛び降り後の生存率

清水寺の舞台から飛び降りて生きていたら、ゾンビか奇跡しかないと思いますが、驚くことに、実際に飛び降りた人の生存率は、なんと!「85.4パーセント」だそうです。

100人飛び降りた人がいると仮定すると、およそ85人が生存していたことになります。

中でも10歳代の少年は94%が生きていたとされる。逆に60歳以上になると全員が帰らぬ人になっていることから、若いほど生存率が高いことを物語っている。

 

ただし、上記でお伝えした234人というのは、舞台から飛び降りを図って、止められた人の人数までもが含まれています。

したがって、その中には、実際に舞台から飛び降りた人もいれば、飛び降りなかった人もいるということになります。

また、これらはあくまでも成就院日記に残された記述のみの統計であって、実際にはもう少し飛び降りた人がいたとも考えることができます。

なお、この成就院日記には実際に飛び降りた人数に関して以下のような記述も残されています。

清水寺の舞台から実際に飛び降りた人の統計

清水寺の舞台から実際に飛び降りた人の数

  • 約150人から180人

清水寺の舞台から飛び降りて命を落とした人の数

  • 34人

清水寺の舞台から飛び降りた年齢層

  • 12歳から80歳代まで

清水寺の舞台から飛び降りた男女の割合

  • 男:70パーセント
  • 女:30パーセント

清水寺の舞台から飛び降りた年齢別の割合

10歳から20歳代が飛び降りた全体人数の「73パーセント」を占めている。
10歳から20歳代の飛び降りた人の生存率は「90パーセント」である。
60歳以上で飛び降りた人は残念ながら、全員帰らぬ人に・・。

清水寺の舞台から飛び降りた人の詳しい年代と人数

  • 10歳代:48人
  • 20歳代:77人

合計125人

この数字は判明している人数となり、それだけでも全体数の約53パーセント強にも及ぶ。

「若気の至り」という言葉もある通り、年いくばくかを経れば諦めが生じることでも、「若さゆえの過ち‥」ということで容易く諦めきれないこともある。このセリフどっかで‥‥「赤い彗星」?




清水寺の舞台から飛び降りた人の性別・人数

  • 男性:161人(12歳から80歳)
  • 女性:63人(15歳から70歳)

男性は女性の2.5倍!!

清水寺の舞台から飛び降りた人の職業

  • 武士や公家以外の奉公人、僧侶(尼含む)、下人、職人・医者の弟子など

武士が1人も居ないということは武人魂が息づいていたことがつまびらかに分かる。(武士は切腹)

公家はオジャルでオジャルぞよ‥‥だけに麻呂的に金を持っていたのでオジャろぅの‥‥ホホホホほっ。オホっ

記録では尼僧が16人と記されているが、その詳細な内訳としては下級僧、若僧、老尼になる。僧侶のほか、多いのが三十三ヶ所巡礼の巡礼者たち。

おそらく敬虔な信奉者である自らなら観音浄土(極楽浄土)へ行けるハズ‥‥と考えたのだろぅ。

清水寺の舞台から飛び降りた人の居住地(都道府県)の割合

  • 京都府在住の人が全体の約70パーセント
そのほかの地域
  • 奥州(岩手県南部)
  • 福島県
  • 伊予(四国・愛媛県)
  • 長門(山口県)

年間平均の飛び降り件数

  • 1.6件

他、記録されていない分を計算しての江戸時代全体の飛び降り件数総計

  • 424件

計測期間

  • 1694年から1864年(江戸時代)まで
  • およそ148年分の統計(空白期間あり)

高さ約13mもある清水の舞台から飛び降りて生存していた理由

「清水の舞台から飛び降りる」の意味・由来・歴史「飛び降りる理由」

現在の清水寺の舞台の下は、道路工事や補強がされていて地面が固くなり、また木々の数なども江戸時代の頃と比べて大きく減少しているようです。

つまり、江戸時代の清水寺の舞台の下は、現在よりも木々が多く生い茂り、地面(地盤)の補強などもされておらず、土が多かったので、12メートルもの舞台の上から落ちても、土や木がクッションとなり、簡単には息絶えなかったということです。

しかし、身体が弱ってくる60歳代ともなってくると心臓が弱くなっており、また身体の治癒能力も低下していることから、そのほとんどが命を落としたとみれます。

以後、1872年(明治5年)に至るまで、この清水の舞台から飛び降りる人は絶えなかったそうです。

清水寺の舞台から飛び降りた理由とは?

江戸時代には飛び落ちに適した理想的な高台が無かった

実際に舞台から真下の覗き見れば分かるが、きょわぃ(訳:怖い)ので、とても飛び降りるなんぞとても思わないだろぅ。

現代では清水の舞台より高いビルがいくらでもワンサカとあるが、江戸時代は高層ビルなんぞなく、つまり、高い場所は限定されていた背景もある。

そこで注目が寄せられたのが、清水寺の舞台。

当初はハナから死ぬ目的で舞台から飛び落ちする人が多かったと推測されるが、舞台から飛び落ちした人が増えると、その存在が広く知られるようになり、必然的に様々な奇譚が生まれてくる。

それが以下で挙げるような説になる。

極楽浄土へ行ける説

どこからか耳にして記憶の片隅に残っている方も多いと思いますが、「清水の舞台から飛び降りる」という言葉があります。

この「清水の舞台から飛び降りる」という言葉の語源は、江戸時代に流行した一種の「ことわざ」のようなものだったそうです。

何でも、この清水寺の舞台から飛び降りたあと、まだ息があって、立ちが上がる意識があれば、願いが本当に叶うと噂されていたそうです。

例えば、恋愛関係の願いであれば、傘を持って清水の舞台から飛び降りて生きていれば、その思い人と結ばれる。

傘を持ちながら飛び落ちた理由は、当時、大流行した男女の恋沙汰を題材とした歌舞伎の中で、舞台から傘を持って飛び降りるシーンがあってその真似)

他には、清水寺の舞台から飛び降りて、仮に息絶えても安らかに成仏することができ、あの世では天国へ行けるなどといった話までも流行したと云われます。

この話のもととなったのは、江戸時代に男女恋愛沙汰や貧困などの理由により、「実際に飛び降りて願いが叶った者がいた」という噂が広まり、この噂が広まるにつれ、やがて「ことわざ」のような使い方をされるようになったのだと考えられています。

以上のような噂話を信じて本当に飛び降りる人が後を絶たなかったと云われる。

↑鈴木春信・1765年(明和2年)作「清水舞台より飛ぶ女」⬆️鈴木春信・1765年(明和2年)作「清水舞台より飛ぶ女」




「末法思想」が背景にあったとも

清水寺の舞台は平安時代後期に初めて造営されたと云われてい‥‥‥申す。フィァンキョヒュヒョっ(平安後期を表現)

ご存知の通り、清水寺は観音信仰が盛んな寺院であり、その証拠に「西国三十三ヶ所」や「洛陽三十三箇所」などの観音信仰の中心的な場所として、ひときわ篤い崇敬が寄せられていました。…ピクっ

特に音羽の滝の源流がインドのはるか南の海の彼方にあるとされる「補陀落浄土(ふだらくじょうど/観音浄土のこと)」へ繋がっていると本当に信じられていたようです。…ピクピクっ

そこでこの当時、庶民の間では清水寺は「補陀落山の浄土」そのものであり、その舞台から飛び降りて果てることができれば極楽浄土へ往生できるとされた信仰が広まった。

このような信仰が、清水の舞台から飛び降りる行為に至らしめた原因であるとも考えられます。

平安時代後期や鎌倉時代といえば戦乱が続き、平安貴族と呼ばれた人々は私財を投じて世の栄華を極めてい‥‥‥申す。我慢できずに発動

それらの代償を支払っていたのが庶民層であり、明日をも知れぬほど貧困に窮していたことは言うまでもありんせん。

江戸時代流行した歌舞伎(狂言/きょうげん)説

江戸時代となる元禄中期(1690年頃)、「清玄桜姫物(せいげんさくらひめもの)」という歌舞伎(狂言)が一斉を風靡し、世間の話題をさらいます。

清玄桜姫物の簡単な内容

この歌舞伎は清水寺の僧侶「清玄」がお姫様である「桜姫」に恋心を抱いてしまい、果敢にアタックを仕掛けるのですが、一方の桜姫は清玄から逃げまくるといった演目です。

この演目の最中、桜姫役の役者が、いきなり傘を開いて実際に演じている舞台から観客席に向かってダイブ(飛び降りる)するといった派手な演出で話題になったようです。

すなわち、この桜姫の飛び降り劇が引き金となり、上述したような「舞台を飛び降りると願いが成就する」もしくは「極楽浄土へ行ける」などと兼ね合わせて、多くの人々が実際に飛び降りるまでに至ったとも考えられています。

なお、清水寺の公式サイトは次のように記されている。

切り立った断崖に張り出している清水寺本堂の舞台から飛び降りるほどの覚悟で物事を実行する決意をあらわした言葉です。

舞台の飛び落ちは「低俗な愚行」として禁止された!

1872年(明治5年)、シビレを切らした当時の京都府が「飛び降り禁止令」を発令します。

明治時代に変わると神仏分離令・廃仏毀釈の影響から、それまでの仏式思想は封じ込まれ、神道思想が蔓延しはじめた。

また、近代革命の序章を奏で始めていた近代化思想が蔓延していた時期も重なり、舞台から飛び落ちる行為が極めて封建的な低俗な愚行として非難され始めると急速に飛び落ちは減った。

さらに拍車をかけたのが、元禄時代以降、京都町奉行から許可が下りなかった「竹矢来(たけやらい/犬のションベンを防ぐ柵)」が舞台の高欄に沿って配置されたことにある。

以後は現在まで飛び降りたという人の話を耳にする機会もぬぅぁぃ(訳:無い)に等しい。

1872年(明治5年)当時の清水寺・舞台の写真

⬆︎竹矢来が設置された明治35年頃の清水寺本堂の舞台(なぜか高欄が朱色)

画像引用先:国際文化研究センター

【補足】成就院日記「飛び落ち事件記録(公式発表分)」

  1. 記録期間:1696年から1702年
  2. 記録期間:1824年から1835年

※以下の「三日晒」とは江戸時代の刑の1つである「晒し刑」のこと。公衆の面前で3日間も罪人として晒されるので、多くの人に見られるなど社会的地位や立場を失った。

※以下スクロール可能※

1696年(元禄9年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
1月男性16から17歳生存祈願成就
2月男性32から35歳死亡
6月男性44から45歳死亡
8月男性17歳生存祈願成就某 著名家の家来
男性年齢不詳生存
11月男性30歳くらい死亡三日晒

1697年(元禄10年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
6月女性年齢不詳・極ピチ生存

1699年(元禄12年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
2月女性24から25歳死亡三日晒下女・巨乳
3月女性20歳くらい生存祈願成就奉公女・極ピチ
5月女性54から55歳・熟女死亡三日晒
7月男性20歳くらい死亡
8月男性20歳くらい死亡職人の弟子
9月男性40歳くらい生存

1701年(元禄14年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
4月女性19歳・ぷちピチ生存祈願成就
5月女性21から22歳・→死亡三日晒若妻・極ピチ
6月女性約50歳・熟女死亡三日晒
女性24から25歳・準 程ピチ生存
9月女性28歳・極ピチ死亡
11月女性37から38歳・程熟死亡三日晒

1702年(元禄15年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
1月男性37から38歳死亡
5月男性18から19歳生存
6月年齢不詳生存僧侶
7月男性23歳死亡

 


合計:
性別:男性13人/女性10人
生死人数:生存者数10人/死亡者数13人




1824年(文政7年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
5月女性19歳生存祈願成就奉公人・桃尻
9月女性40歳・熟女死亡重病により八百屋商の妻

1827年(文政10年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
8月男性20歳代生存手代(使用人

1829年(文政12年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
3月17歳生存僧侶(百万遍の弟子)
8月男性22歳生存祈願成就下男

1830年(文政13年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
閏3月男性24歳生存重病および心願成就奉公人

1831年(天保2年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
1月男性年齢不詳引き留め成功下男
3月男性年齢不詳生存心願成就丹波国出身の居候
8月男性年齢不詳生存心願成就町家の次男

1833年(天保4年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
7月女性19歳生存町家の娘っ子(ピチ極)

1834年(天保5年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
2月男性23歳生存心願成就町医者の弟子
男性40歳死亡三日晒
女性23歳生存心願成就織機職・極ピチ
5月男性34から35歳死亡三日晒
7月男性24から25歳生存指物の丁稚(でっち/見習い)
8月27から28歳生存八坂塔近くの宿
9月38歳生存大仏(現・方広寺)正面・寄宿
11月男性17歳生存心願成就寄宿人

1835年(天保6年)

飛び落ちをはかった月性別年齢生死の結果飛び落ち理由出自・職業など
閏7月男性26歳死亡心願成就八百屋の従弟

合計:
性別:男性15人/女性4人
生死人数:生存者数15人/死亡者数4人

おわりに・・

辛いことがあれば、清水寺で真剣にお祈りして努力を忘れないことです。

努力して自分自身を磨いて自分のことをもっと好きになってあげれば、きっとその願いは叶います。

ですので、「清水の舞台から飛び降りる」のは、くれぐれもコトワザの範囲内に留めておきましょう!ピチピチ💋👅

スポンサードリンク -Sponsored Link-



当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。