奥の院から続く参道を順番通りに進むとやがて、清閑寺へ至る参道が見えてくる。その前には鉄柵設置されて遮られた恰好になっている。
清水寺の参拝ルートは原則一方通行になっていて、清閑寺へ至る参道手前の鉄柵の前でUターンする形で再び本堂へ向けて帰ってくるのだが、ちょうど音羽の滝の茶屋の手前あたりにお地蔵さんのような石仏が見えてくる。
その石仏群の中に1体だけ、ヒゲをたくわえ、漢服を着用し、高さのある角頭巾をまとったまるで中国の老仙のような恰好をした人物が表現された石仏もしくは、地蔵が見える。
石仏の正体
この尊像は愛好家の間では次のような説が述べられている。
- 清水寺が創建される前に音羽の滝で滝行をしていた行叡居士(ぎょえいこじ)
- 隠れキリシタンが念持仏として隠し持った地蔵菩薩像に似せた聖母マリア像
- 福禄寿が描かれた石仏
- 単なる地蔵菩薩像
- 道祖神
‥‥さて、諸君たちはどぅ考える?
えっ?写真が鮮明でなくて分かりづらい?
まぁ、そぅおっしゃらずに。オホっ
上記の中でももっとも有力とされているのが‥‥‥、お地蔵さんになる。
しクぁし!実際、この像を間近で見てみれば分かるが、おそらくこの尊像はお地蔵さんなどではない。やはり何かしらの着衣を着ているものと推察され、だとすると福禄寿や道祖神という説が浮上するが、‥‥‥はてさて。
実はこの像の正体は明らかにされておらず、今となっては誰がいつ、どのような願を立てて、何をモチーフとして発願・造立・奉献したのかも不明とのこと。
中には清水寺詣を良き日とすべく、藪から棒に縁起を担ぐ意味合いで福禄寿と位置付けて手を合わせる人もいるとか。
隠れキリシタンの像だった?
ただ、隠れキリシタンという説も無いとは言い切れないものがある。
像容は聖母マリア像とは程遠いものがあるが、たとえば、江戸幕府の目をくらますためには聖母マリアの影をチラつかせてはいけない、そう言った背景を加味すればこの石仏は聖母マリア像の可能性も捨てきれない。
なお、何を意味するのかは分からなにゅぁぅいが、この像の肩部分には星型の陰刻も見える。
いずれにしろ、京都の民間信仰の一旦を垣間見れる遺物としては貴重。
以前、福禄寿という案内板が立てられていた?
実は2017年に訪問した時には以下の内容の看板が立てられていた。
看板の内容
傳・福禄寿
清水寺縁起によれば奈良時代、宝亀9年(778年)、当地(音羽の滝)一帯を中心として練行中の行叡居士より大和の子島寺の僧・延鎮上人が霊水を嘱(しょく)され、観音像を奉納し祀ったことにより当山の草創がある。
この石像は、その頃、練行中の行叡居士のお姿として傳(つた)えられ、当時の佛教行者は道教の熟達であった事が十分想像される数少ない資料の1つである。
しかし、後世では宝冠に似た頭巾と廣袖の衣、長髪の顎ヒゲをたらし、右手に持つ錫杖、左手の経巻などの形から七福神の1つ、福禄寿として信仰をあつめ祀られてきた。
また、以前はヨダレ掛けがなかったので、ヨダレ掛けの下の像容がさらされていた。下記の画像は2017年に清水寺へ参拝した時に撮影したもの。
このアップ画像を見れば右手に何かを持っていることが分かる。おそらく団扇もしくは”扇子”のようなものを”センス”よく持っているものと思われる。笑ろてや〜 笑うトコやで
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