清水寺の轟橋とは?
轟橋(とどろきばし)とは、清水寺境内の拝観券売り場の横に建つ、轟門の手前にある橋のこと。
轟門手前にある手水鉢を囲むようにして、橋の手スリの部品である欄干(らんかん)が見えるので行けば分かる。
⬆️手水鉢の左右に見えるのは石造りの欄干。橋だといぅことが分かる。
しクぁし!実際は川が流れていないにも関わらず、橋だけが残されていることに些かの疑問が生じる。
この理由はかつてこの下に轟川(とどろきがわ)という川が流れていたことにちなむ。
江戸時代の清水寺境内の絵図と轟川・轟橋の様子
上掲、絵図のやや右中央に舞台が据えられた本堂が見えるが、その前に車寄せ(廊下)が連接された轟門が見える。
轟門と轟橋の拡大したもの。轟門の前に轟橋とその左に貯金箱‥‥ではなく、梟の手水鉢と思わしき手水鉢が見える。
室町時代の清水寺境内の様子と轟橋・轟川の様子
この絵図は1548年(天文17年/室町時代)に描かれたとされる清水寺参詣曼荼羅のうちの1つ。(清水寺参詣曼荼羅は厳密には2つ現存しているが内容はほぼ同じとされる)
絵図左端に白い橋が見えるが、これは石造り轟橋を示し、右側の門が轟門だと思われる。
気になるのは轟橋の上に見える物体。手水鉢に見えるが、この当時はまだ手水鉢がなかったとされることから、謎である。
轟橋の名前の由来「なぜ轟」が付く?
江戸時代、清水寺境内にあるこの轟橋ともう1つ、三年坂にも轟橋があり、往古より轟橋は2つだったのか?
それとも星霜経ながら1つになったのか?
だとしたら本来の轟橋はどっちなのか?
‥‥などといった議論が盛んに交わされてきた。
現在に至ってはいずれも轟橋とされているが、清水寺の轟橋の名前の由来としては、境内にある塔頭・慈心院(じしんいん/現在の随求堂のこと)の以前の寺号(名前)を「轟坊」と言ぃ、ちょうど轟川の川岸近く、且つ、中門(現・轟門)に近かったことから轟坊から一字を頂戴して「轟橋」とされた。
三年坂の轟橋の名前の由来は、轟川の由来に基づいたものとされる。
その轟川の名前の由来とは、ある時、三年坂を流れる川から青龍が飛び上がり、大空の彼方へ消えていった‥という故事に基づき命名されたと云われる。
これは青龍が轟川に棲んでいるという伝説に紐づく奇譚となるが、詳細については下記ページを参照♡
轟川に伝わる伝説(清水寺の七不思議)
実はこの轟橋には古来、以下のような奇譚が語り継がれていて、現今に至っては清水寺の七不思議とされてい‥‥‥申す。ギャヒェっ
『歯痛の人は轟橋を渡ってはならない』
轟橋の中央の板張り部分を人の舌、その両側に立つ石の部分を歯に見立てて次のような故事が語り継がれてい‥‥‥申す。‥ちょっと待って
橋の両端の「石」の部分を”歯”、そして板張りの部分を”舌”に見立てて‥‥
- 手前の手水鉢の水で口を清めると歯痛や頭痛が治る
- 歯痛がある人はこの橋を渡ってはいけない
‥‥‥などという俗信がある。
その他に橋の下に川が流れていないことから以下のようなことも囁かれている。
- 手水鉢の水を流す溝を跨ぐ(またぐ)ための橋
- 本堂という神聖な場所に踏み入る前の区切りとしての橋
また、「橋はあの世とこの世を渡すモノ」などと云われるように、この橋は仏界と俗界との境界に架かる橋とも云われ、橋を渡ることによって心身が浄化され清められるとのこと。オホ
轟橋の刻銘
この橋を、じっくりクリリン気円斬‥‥てなほどジックリと観る方は極少数だと思われるが、欄干の親柱と、その上に乗るタマネギ剣士‥‥ではなく、玉ネギ形状!の「擬宝珠(ぎぼし)」には、橋を寄進したとされる人物の刻銘がある。たまねぎ剣士は最強のジョブ!
欄干の親柱の刻銘
「1679年(延宝7年)仙台在住 及川久兵衛 奉納」
この刻銘が示すとおり、今日まで清水寺境内の轟橋は1679年(延宝7年)に奥州・仙台在住の及川久兵衛が寄進したとされる。
擬宝珠の刻銘
「1861年(文久元年)枡屋重兵衛、藤原喜親 奉納」
「1893年(明治26年)吉田安兵衛、橋本源之助 奉納」
擬宝珠とは欄干の上に乗るタマネギ剣‥‥もぅェェ! ‥‥形状の金属の部品のこと。
おそらく擬宝珠が無かったか、それとも石造りだったものを現在の鋳銅製にしたのか。
あるいは、もともとあった石造りの擬宝珠の上に中身が空洞の金属製の擬宝珠をフタのように覆い被せたのか‥。
いずれにせよ江戸時代に擬宝珠だけが上記、2名によって奉納されたことは確かなこと。キャキャキャキャキャ….カキャっ!
関連記事一覧
スポンサードリンク -Sponsored Link-
当サイトの内容には一部、専門性のある掲載がありますが、これらは信頼できる情報源を複数参照して掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。