京都・清水寺の舞台の柱には釘が一つもない?!「建てられた理由・歴史・高さ・材木・建築造り(懸造り)」

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京都・清水寺の舞台の柱には釘が一つもない?!「建てられた理由・歴史・高さ・材木・建築造り(懸造り)」

京都・清水寺「本堂および舞台」【国宝】【世界遺産】

京都・清水寺の舞台の柱には釘が一つもない?!「造られた理由・歴史・高さ・材木・建築様式」と「清水の舞台から飛び降りる?」の意味・由来・歴史

正式名

  • 京都・音羽山「清水寺」
創建年(本堂)

  • 不明
  • 推定:798年(延暦17年/平安時代)※本堂
  • 推定:平安時代後期※舞台
再建年

  • 1633年(寛永10年)
  • 2017年(平成29年)※屋根葺き替えおよび修繕
大きさ

  • 本堂
    桁行(奥行き):九間(約16m)
    梁間(横幅):七間(約12.6m)
  • 全体(裳階・翼廊含める)
    正面約36m
    側面約30m
    棟高18m
建築様式(造り)

  • 一重・入母屋造・妻入※左右、翼廊
  • 本堂:寄棟造り
  • 舞台:※舞台造り
  • 内陣左右・局:裳階(もこし)付
  • 正面:左右(東西)両翼廊付

※庇(ひさし)付き

屋根の造り

  • 総桧皮葺
舞台の柱の数・素材・広さなど

  • 6本柱・懸造り(かけづくり)
  • 柱の数:約78本(舞台)全体172本
  • 柱の長さ:約12m
  • 柱の直径:約80cmから2メートル
  • 柱の形:平面十六角形
  • 材質(舞台):ヒノキ(約420枚)
  • 材質(柱):ケヤキ(樹齢約400年)
  • 面積:約190㎡(1辺・約19m)
国宝指定年月日

  • 1952年(昭和27年)11月22日
世界文化遺産登録年月日

  • 1994年(平成6年)12月17日
発願者

  • 徳川家光公※現、舞台

清水寺・舞台の構成

まず、清水寺の舞台は以下のような構成で成り立っています。

  • 東楽舎(東翼廊)
  • 西楽舎(西翼廊)
  • 南廊下(礼堂廊下)

東楽舎(東翼廊)と西楽舎(西翼廊)は、回廊の構成要素の一部なので分かりづらいのですが、舞台の左右両端に造営されている入母屋屋根付きの堂舎のことです。(↓写真参照)

奥の院や阿弥陀堂先の山沿いの参道から見れば分かります。

清水寺の舞台の高さ

清水寺の舞台の高さ清水寺の舞台の高さは、舞台の先端部から計測して地上から「約12メートル」。
※この12mという長さは、おおよそ4階建てのビルと比例するようです。

清水寺の舞台の床面はヒノキが使用されており、おおよそ25年から30年周期で取り替えが行われています。

また、清水寺の舞台の足元の柱は、簡単に取り替えが出来ないことから、貫の両端部には雨水が貯まらないように、雨が下に滴れるように傾斜のある板が添え付けされています。

清水寺の象徴として、また京都清水寺の大きな特徴を現すこの「清水の舞台」ですが、特に舞台したから見上げるとその高さ、そしてその迫力には驚かされます。

そしてもっとも驚愕する事実というのが、なんとぉぅおぅ!この舞台には釘が一切使われていない」と言われたら、さらに驚くのではないでしょうか?


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清水寺の舞台の歴史・由来

清水寺の舞台は創建当初は存在しなかった?!「舞台が造られたのはいつ?」

実は清水寺の本堂が創建された当時、現在ような大きな本堂ではなく、境内と呼べるほどの面積すらなかったと云われています。

清水寺は創建当初から名前が知られていたワケではなく、清水寺が有名になったのが805年(延暦24年)に天皇の御願寺となった以降になります。

清水寺は過去、寺容と寺観を失うほどの焼失を繰り返し、実に9度を超える火災に見舞われています。

9度もの焼失していることから創建からの清水寺の記録となる資料が現存しておらず、実は、この舞台や本堂までもがいつ造営されたのかがハッキリしていません。

しかし、清水寺以外の京都のことが記載された古書物の記述から推定すると、清水寺の舞台が歴史上に登場したのが、おおよそ平安時代後期と云われています。

この理由としては、平安時代後期には蹴鞠(けまり)突きが上手な磨呂(まろ=訳:マユ半)が存在し、その磨呂の名前を藤原成通(ふじわらのなりみち)と言い、この舞台の上で鞠突きをしたという日記が見つかっているからです。磨呂で おぢゃるゾヨぉ..ホっホっホっ

つまりこの日記の内容を事実してみるのであれば、清水寺の舞台がはじめて造られたのは平安時代後期ということになります。


この事実は、例えば有名どころで室町時代に編纂された義経紀(ぎけいき)に記述があり、この記述によると源義経と弁慶の決闘が五条橋だけではなく、この清水寺・舞台の高欄の上でも決闘が繰り広げられたという記述が見つかっています。

現在の舞台は江戸時代に造営された舞台

1063年(康平6年/平安時代)に清水寺の舞台を業火が襲い掛かり、本堂もろとも焼失しています。

この後、記録上、約9回の火事に見舞われるも、その都度、再建されてきた歴史を持ちます。

もっとも真新しい記録の火災となるのが1629年であり、この火災においても本堂、舞台を焼失するに至っています。

しかし1633年に徳川家光の寄進により再建され、これが現在観ることのできる清水寺の姿となります。

また、現在観ることのできる清水寺の伽藍の姿は、そのほとんどが江戸期の家光公の再建によるものです。

清水寺の舞台のおおよその焼失経路と歴史

  • 平安時代後期に造営
  • 1165年(永万元年)戦で焼失
  • 1469年(文明元年)戦(応仁の乱)で焼失
  • 1629年(寛永6年)大火事で焼失

清水寺の舞台の造られたキッカケと「舞台の役割」

清水寺の舞台が造られた【3つの理由】

清水寺の舞台が造られた理由【その1】

古来、清水寺の本堂は、山の斜面を切り崩して建立されました。

しかし、その作業は当時では、相当な労力と時間のかかる作業でした。

月日は流れ、江戸時代に差し掛かると、やがて本堂を大きくする話が持ち上がります。

しかし、ここで考えだされたのが、わざわざ山を削らなくても舞台を付ければ、労力も時間も大幅に節減できる・・

などといった理由から、現在の清水寺の舞台が造られたと云われております。

清水寺の舞台が造られた理由【その2】

2つ目の理由が、清水寺の建立されている地は、古来より、神聖な場所として景観が保たれてきました。

れは、清水寺の建立されている山(音羽山)には、神々が住んでおり、簡単に削ることが叶わなかったのではないかと云われております。

神々がお怒りになれば大変な事態にもなりかねません。そのため人工の土台(舞台)を設けるに至ったということです。

清水寺の舞台が造られた理由【その3】

3つ目の理由としては、参拝する人口が増加したためです。

清水寺が有名になったのは上述したように805年(延暦24年)に天皇の御願寺になったことが挙げられます。

以降、時代を経る過程で名前が知れ渡り、年々増え続ける日本の人口の増加と共に、清水寺を詣でる人も増えてきました。

そこで、舞台を造る話が持ち上がってくることとなります。

参拝する人口が増加すると本堂は満員状態となり、必然的に参拝するために行列ができます。

この順番待ちの行列は現在の仁王門あたりまで続き、このような状況が連日、繰り返されていたことが想像につきます。

この状況を打開するために、一時は本堂上に位置する鎮守社「地主神社」の立ち退きも考えられましたが、上述したように山の神が鎮まる地主神社を立ち退かせることなどできず、最後の打開策として打ち出されたのが「舞台」を設ける方法というわけです。

京都・清水寺の舞台の柱の「釘が一つもない理由と造り」

この「清水の舞台」は、「懸造り」と言う建築様式(手法)で建てられています。

「懸造り」とは、別名で「崖造り(がけづくり)」とも呼称され、山の急な斜面や段差のある土地などに、面積のある建物を建てる際に取られる建築手法のことです。

これは、東大寺・二月堂の舞台も同様の造りをしています。

※東大寺・二月堂の詳細については当サイトの別ページにてご紹介しております。

東大寺・二月堂の見どころ

東大寺・二月堂のイベント

実際、この「清水の舞台」も、「錦雲渓(きんうんけい)」と呼ばれる崖の上に建てられています。

そして、それを支えるのが「78本の長い柱(全体では139本)」です。

清水寺の舞台の柱の全本数の内訳

清水寺の舞台の柱の全本数は以下の通りです。

  • 舞台と本堂を含め、大小すべての柱の本数:172本
  • 舞台の真下のみの柱の本数:78本
  • 舞台のセリ出た部分を支えるもっとも長い柱の本数:18本

清水寺の舞台の「建築様式・木材」

清水寺の舞台の18本の柱の「建築様式・木材」

大人1人分の長さを持つ「ケヤキの柱」

上述したように、清水寺の舞台下の柱は78本、本堂全体では172本あります。

ケヤキ材を切り出してでできたこの柱は、大人ひとりでは抱えきれないほどの太さがあります。

これら172本もの柱を1本1本を16角に加工して、直径約2.3mの1本の柱に仕立てています。

そして、この柱を渓谷の傾斜に合わせるようにして巧みに柱を配置しています。

縦、横にはおおよそ均等間隔で並べ、足元は崖の傾斜に沿わせて立てられています。

舞台の柱の足元はそのまま地面に突き立てられているの??

・・なんて疑問を持たれている方も多いと思われます。しかし単に地面に突き刺しただけでは心配な方も多いと思われます。事実、私もそう思います。

しかし安心してください。地面と柱の間には石が敷かれ、舞台の地面との間をうまく取り持っています。

この石は隣の柱の足元と連絡するような面積の多い石に加工されていますので、面積があります。

面積が広い分、上部から加圧を地面全体に逃がすことできます。

これも先人たちの涙ものの卓越した技術です。


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舞台下のヒノキの組み方と構造と歴史

上述したケヤキの柱、1本1本にはヒノキでできた「貫」と呼ばれる厚板を通して接合されています。

このような「懸造り」の建物は、もともと国土が少なく山岳地帯が多かった日本に多く、日本特有の独自の造りである伝えられています。

貫を巧みに用いることによって、上部の加圧と横からの揺れにも対応でき、つまりはわずかな木材でも、より強固な耐久力を持つ建造物を造ることが可能となります。

この他、柱と貫の接合部分は「継ぎ手」と呼ばれる手法で組み合わされ、わずかにできた隙間は、楔(クサビ)で締めて固定されています。

そして楔の上部も雨除け板を据え付け、楔の間から雨水が柱内部に侵入しないように細工が施され、湿気に極度に弱い木材を守っています。

まさに細部にまでも目を凝らした職人の熱いナイスな小細工です。泣けてきます。ウウっ

さらに柱と貫を、格子状に組むことによって木材同士が支え合い、衝撃を分散することによって、本来建物を建てることが難しい崖の上でも、このような耐震性の高い建物を建てることができるのです。

実は舞台の柱は定期的にプチ修繕されている??

現在の清水寺は、平日、土日祝日関係なしに毎日、何百人という様々な体型の人々が一度に舞台に登ります。

これら何百人、もしくは一日すると何千から何万とう人を江戸時代に造営された舞台で今も変わらずに支えていることになります。

そこでこんな疑問が出てきます。

「だっ、..大丈夫??」

現代建築では、数十年もすれば崩壊してしまう建物も少なくありませんが、なぜ、釘が一本も使われていない「清水の舞台」が、数百年という後の現代に至るまで形状を維持したまま、変わらずにその景観を留めおくことができるのでしょう?

実は、あまり表立って話題になってはいませんが、柱の部分に関しては、定期的に微妙に修繕をしているんです。

例えば、足元は地面(土)と接していますので、他の部分に比べて少なからず湿気を含みます。

そこで、足元は定期的に検査を実施して、損傷が激しい場合(腐って空洞化)は切断して、新しい木材を継ぎ足して(修繕工事)、見た目の景観を創建当初から損わずに維持できているというワケなんですね。

ちなみに足元は柱材を直接地面に埋め込んでいるわけではなく、強度のある花崗岩(かこうがん)でできた丸切り石の上に柱が載る格好になっています。

「丸切り石」とは平たい円形に加工された石のことです。

花崗岩は雲母(うんも)と呼ばれる物体が少ないので密度や純度が極めて高く、硬度が高い鉱石として広く知られています。

その他の舞台の特徴「実は舞台は傾いている」

実は清水寺の舞台はわずかですが、傾斜が付いており雨水が下に流れていくような仕組みで造営されています。

この傾斜は正堂部分となる北側から南側の舞台の方へ向けて傾斜が付いています。

このため舞台の高欄の足元は開けられて雨水などを排出できるような仕組みが採られています。

清水寺の舞台が語源になった「2つのもの」

1.「狂言や能で用いられる舞台」

清水舞台奥の正堂を参拝する際、御本尊を向かい見て左側(西側)から右側(東側)へ向けて歩むことになります。

この時の動きを採り入れたものが狂言や能で用いられる舞台の起源だとも云われています。

2.「檜舞台」

現在も清水寺の舞台で狂言や能が舞われることがありますが、一説によると、清水寺の観音様の前で舞いを披露(奉納)することができたら一人前、つまりこれが「檜舞台に出る」の語源になったとも云われています。

【補足】懸造りの起源

上述したような貫を巧みに用いて柱を固定するような技法は、平安時代の中頃から山岳仏教の建造物で見られはじめています。

その後、鎌倉時代に東大寺・南大門を再建した重源上人(ちょうげんしょうにん)によって、大仏様が大陸からもたらされると、日本の建築技術は大きく飛躍します。

重源上人は、限られた期間と木材の量で東大寺再建計画を余儀なくされました。

ここで重源上人が考案した方法が、従来ではまったく見られなかった「横木(貫)を数本の柱に差し込んで固定する技法」です。

この建築技法は後世において「大仏様(だいぶつよう)」と呼称され、今日の清水寺の舞台に見られるような、現代建築の核とも言うべき大きな進歩と革新を後世に残しました。

後に大仏様は禅宗様と呼ばれて歴史上から姿を消すことになりますが、それでも重源上人の考案した大仏様は今の現代にもこうして息づいています。

 

東大寺・南大門や重源上人についてはの詳細については当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。

奈良 東大寺(俊乗堂)・俊乗上人坐像【国宝】

奈良県・東大寺の南大門の「見どころ(建築様式など)・歴史・大きさ・作った人(地図・写真つき)」

 

清水寺の舞台の詳細については当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。

「清水寺の舞台から飛び降りる」の意味(使い方)・由来・歴史「飛び降りる理由」

終わりに・・・

清水寺は、まさに先人たちの知恵の結晶と言うべきですね。まさに世代を超えた一大傑作ともいえます。

現代には「耐震性の高い」とされる建物がたくさんありますが、年が経つとともに建物が劣化し耐震性も弱くなるのが一般的です。

それだけに何百年もの間、自然災害にも耐え続けえいるこの建物の素晴らしさから、我々は何かを学ばなければならないと言えます。

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