京都・清水寺「仁王門」【重要文化財】
創建年
- 不明
- 推定:鎌倉時代以前
再建年
- 1467年(文正2年)から1572年(元亀3年)/室町時代
- 2003年(平成15年)
建築様式(造り)
- 入母屋造
- 楼門
- 三間一戸八脚門
屋根の造り
- 檜皮葺
大きさ
- 高さ:約14m
- 奥行:約5m
- 横幅:約10m
重要文化財指定年月日
- 1966年(昭和41年)6月11日
清水寺・仁王門の読み方
清水寺の境内には難しい漢字の表記のお堂や御本尊がありますが、仁王門は「におうもん」と読みます。
尚、清水寺の仁王門には、実は以下のような別名があります。
赤門
別名で「赤門」とも呼称されており、色鮮やかな丹塗りの朱色であることから由来がきています。
目隠し門
他にも変わった別名を持っており、昔はなんと!「目隠し門(めかくしもん)」とも呼称されていたようです。
「目隠し門」と呼称されていた理由としては、清水寺本堂の舞台へ参拝すれば京都の洛中に御座す「天皇の御所」を見下ろすこともできます。
つまりこれは「天子を見下すと言う行為」と言う解釈にもなります。
この行為がバチあたりで無礼にあたるとして、舞台からは洛中が見えないようにするために、わざわざこの巨大な門が誂えられた(あつらえられた)とも云われています。
ちなみに仁王門とは、元来、ここ清水寺だけではなく、おおむね寺社の境内入り口に設けられる「守護的な意味合いを持つ門」であることから、実際は天皇崇拝のために明治時代以降に尊皇派によって広められた吹聴とも考えることができます。
清水寺・仁王門の歴史・由来
この仁王門の創建時期は不明とされておりますが、鎌倉期の特徴を残す仁王像が安置されていることから、少なくとも鎌倉時代以前にこの場所に造営されていたとも考えることができます。
清水寺の境内は過去に幾度が大火事で全焼しており、その際に清水寺に伝承されてきた数々の記録(古文書)も焼失しています。
清水寺の最後の伽藍焼失とされるのが1629年(寛永6年)の大火事になりますが、この仁王門に関しては境内入口に造営されていたことが幸いしてか、奇跡的にこの大火事の難からまぬがれています。
実はこの仁王門は室町時代の応仁の乱(1467年~1477年)で焼失していますが、その後1478年から1500年までの間に再建されており、つまりこれが現在見ることのできる姿と言うことになります。
以上のことから室町期の再建の姿を留めており、随所に室町期の建築様式を見ることができる、重要度の高い建造物となります。
ちなみにこの仁王門の創建年に関しては諸説あるようですが、もっとも古い清水寺の記録を示すとされる藤原明衡の「清水寺縁起」によれば、800年(延暦19年)頃に仁王門の扁額を制作した旨の記述が見つかっていることから、800年頃に創建された説も有力視されています。
尚、現在のこの仁王門は1966年(昭和41年)6月11日に国指定の重要文化財に指定されています。
清水寺・仁王門の建築様式(造り)
丹塗りの朱色が映える門ですが、上述の通り、室町期の特色を濃く残している門とも言えます。
「楼門」とは「ろうもん」と読み「2階建ての門」のことを指し、初層部(1層目)には屋根がなく、2層目に屋根が設置されているのが楼門の特徴となります。
門内部の天井は「格天井(ごうてんじょう)」となっており、「尾垂木(おだるき)」や屋根の裏側の「繁垂木(しげたるき)」の先端は黄色く塗られており、周囲の朱色とのコントラストが映えます。
扁額の下には「縁」と「高欄(こうらん/=手すり)」を回しており、色鮮やかな朱色で統一されています。
仁王像が安置されている緑色の斜の格子窓も上記の黄色や朱色とうまく調和がとれています。
屋根はヒノキの樹皮を葺き詰めた桧皮葺であり、これは清水寺の建造物全体に見ることのできる清水寺の大きな特徴と言えます。
清水寺・仁王門の見所(見どころ)
清水寺・仁王門の仁王像
仁王門の仁王像は鎌倉時代末期の造立で、作者は不明、像高は約365cm(3.6m)あり京都内の仁王像としては最大の大きさを持つ仁王像です。
向かって右側が「那羅延堅固王(那羅延天)」と言い「ならえんけんごおう」と読みます。「阿形(あぎょう)」で口が開いています。
向かって左側が「密迹金剛力士」と言い「みっしゃくこんごうりきし」と読みます。「吽形(うんぎょう)」で口が閉じています。
いずれもヒノキ材をパーツ分けして削り出し、最終的にパーツを組み合わせた「寄木造り(よせぎづくり)」で造立された仁王像です。
仁王像も清水寺の七不思議?!
ちょっと、この仁王像の胸板に注目してください。
「乳首(ちくび)」がなぜか植物柄になっています。..すさまじいビーチクや
見方を変えると、「乳頭(にゅうとう)」の周囲の「乳輪(にゅうりん)」をデカ針の蚊に6発刺されて、カキまくって腫れてきたとも言えます。カぃ~の
これも清水寺の七不思議と呼べるのではないでしょうか。
扁額
仁王門にも扁額が掲げられており、これは藤原行成の直筆によるものです。
藤原行成とは「能書家」で有名な人物です。
「能書家」とは「字が上手な人」や「独創性のある字が書ける人」のことを指し、字の上手さを生業としている人のことを指します。
現代風で言い換えると「書道家」と言うことができます。
尚、この藤原行成は「三蹟(さんせき)の1人」とも言われています。
「三蹟」とは、平安時代中頃の日本国内で字を書くのが上手かった3人の書家を指します。
【補足】三蹟の3人
- 小野道風(おののみちかぜ/トウフウ)
- 藤原佐理(ふじわらのすけまさ/サリ)
- 藤原行成(ふじわらのゆきなり/コウゼイ)
狛犬
この仁王門の狛犬はちょっとした清水寺の名物スポットです。
遠目から見ると何も変哲もない、ごく普通の2頭の狛犬ですが、近くでよく見ると・・なんと!2頭とも口が開いている「阿形(あぎょう)」になっており、これは清水寺の七不思議の1つとも云われております。
1944年(昭和19年)の造立で、正式には境内の地主神社に属する獅子像になるようです。
仁王門の狛犬は実は銅像だった?!
実はこの仁王門の狛犬は造立された当初はなんとぉぅ!「銅製の阿・吽の狛犬」でしたが、第二次世界大戦の時に武器の材料調達のために政府に没収されています。
この銅の狛犬は大阪平野区在住の実業家「竹原友三郎」という人物が1911年(明治44年)に寄進した銅像であり、高さ約1.5m、重さ約1000kg(1トン)もの「狛犬像」であったようです。
しかし、上述したように1942年(昭和17年)に政府に武器製造の材料とするために没収されてしまいます。
それから戦後の1944年(昭和19年)に以下の清水寺へ篤い信仰を寄せる団体によって再度、石像として寄進されています。
- 清水寺普門会(ふもんかい)が向かって右側の狛犬像
- 音羽婦人会が向かって左側の狛犬像
仁王門の狛犬像が石像で寄進された理由
実は再度、狛犬が寄進された際の発願者であったのが、当時、清水寺貫主であった「大西良慶和上(おおにしりょうけいわじょう)」直々の発願であり、発願の際、「次は持っていかれへんように石像でお願いしたいな」とのお言葉が発端となったようです。
ちなみにこの清水寺の狛犬ですが、東大寺南大門の狛犬像がモチーフとなっているようです。ウフ
⬆東大寺南大門の仁王像の裏面左右に安置される狛犬像
仁王門の右端の「カンカン貫」
仁王門を向かい見て、右側の間口には仁王像が安置されています。この仁王像の間口の右端の柱からは「貫(ぬき)」と呼称される横木の部材が飛び出ているのが分かります。
この貫は逆の柱からも飛び出ており、この貫の端を叩くと摩訶不思議なことに逆の方向の貫からは「カン!カン!」と言う不思議な音が聞こえてくると云われています。
このことから別名で「カンカン貫」とも呼称されています。
ちなみに↑の写真の貫の写真(画像)をちょっとご覧ください。
貫が2つ飛び出ていて、上部の貫の面が真っ平らなのに対して、下部の貫はゴボっと凹んでいます。
これはカンカン貫の噂が広まったため、多くの参詣者がカンカン叩いために凹んだ痕跡だと云われています。
尚、このカンカン貫も清水寺の七不思議の1つと云われています。
清水寺・仁王門の場所
仁王門は清水寺の正門となる門です。境内の入口に位置し参拝する際に最初にクグる門です。
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