京都・清水寺「善光寺堂(首振り地蔵尊)」【洛陽三十三所観音霊場・第十番札所】
創建年
不明
推定:鎌倉時代以前
再建年
1984年(昭和59年)
建築様式(造り)
寄棟造り
一重
屋根の造り
本瓦葺き
前面一間階隠し付
大きさ
四辺三間(奥行:約6m)
御本尊
如意輪観音
善光寺阿弥陀如来三尊
地蔵菩薩
洛陽三十三所観音霊場番札所番号
第十番札所
清水寺「善光寺堂」の読み方
善光寺堂「ぜんこうじどう」
京都・清水寺「善光寺堂」の歴史・由来
この善光寺堂の創建年は不明とされていますが、鎌倉時代以前から当地にあったと伝えられ、もともとは六地蔵や地蔵菩薩を祀る「地蔵堂」の呼称で親しまれていました。
鎌倉時代に入ると観音信仰が盛んになり、如意輪観音がこの地蔵堂に勧請され、以降、地蔵菩薩と共に祭祀されることになります。
⬆️堂前に建てられた石碑「如意輪観音」「弘化四年(1846年) 丁未 年 正月 「延命院 元 〇〇○」「観音講」の刻銘が見える
そして、1335年(建武2年)に寺号を「地蔵堂」から「地蔵院」へと改称し、清水寺塔頭となります。また、「洛陽第十番 如意輪観世音 地蔵院」として洛陽観音霊場番札所の指定を受けています。
以来、1911年(明治時代)まで、子安の塔と向かい合う形で伽藍入口に在り続けた。
これらの事実は1548年(天文17年/室町時代)に描かれた「清水寺古絵図・清水寺参詣曼荼羅」に描かれた絵図に起因するものです。
かつて境内には六地蔵があった
上記、清水寺参詣曼荼羅に描かれた内容によると、現在の善光寺堂の場所に石製の六地蔵が安置された小堂が建てらている様子が描かれてい‥‥‥申す。ガハっ
明治時代の善光寺堂
明治時代までは如意輪観音と地蔵菩薩がご本尊として存在していましたが、1868年から1912年(明治時代中期)に、かつて境内・奥の院付近に存在した「善光寺如来堂」を廃し、ご本尊・善光寺阿弥陀如来三尊を勧請して、堂舎の名前を「地蔵院」から「善光寺堂」に改めています。
明治時代の清水寺は、明治初頭に政府から発せられた神仏分離令や廃仏毀釈の影響から寺領が没収されることになります。(上知令/あげちれい)
檀家(だんか)を持たない清水寺は資金繰りに困窮することとなり、廃絶する境内の塔頭は数多。土地の切り売りや堂塔や仏像を売り払ったり、宿坊を経営するなどで何とか廃絶という最悪の事態は防いだ。
善光寺如来堂が廃されたのも、このような明治時期の動乱が背景にあるものと考えられます。
現在、見ることのできる善光寺堂の姿は1984年(昭和59年)に再建(改修)された時の姿になります。
堂前の様子
堂前の扁額
「洛陽 如意輪観音 第十番 地蔵院」と書かれた額。当時に書かれたことが確かなのであれば、この額は明治時代中期以前のもの。うきゃ
善光寺堂の内部の様子
向かい見て左脇(左脇時)に地蔵菩薩立像、右脇(右脇時)に善光寺阿弥陀三尊像と、そして中座に如意輪観音像が座す。
清水寺「善光寺堂」のご本尊
この善光寺堂には、以下の3尊が祭祀されています。
- 堂内中央に「如意輪観音坐像」
- 向かい見て右側に「善光寺阿弥陀仏三尊像」
- 向かい見て左側に「地蔵菩薩立像」
「如意輪観音坐像」
画像は清水寺より
造立年:鎌倉時代末期
像高:94㎝
造立方法:寄木造り、表面・漆箔、水晶玉眼
材質:ヒノキ材
右膝を立て両足の裏を合わせ、六臂(ろっぴ/6本の腕)を持つ如意輪観音坐像です。
右足を立てて右手を頬に当てている姿勢は思惟(しゆい)の姿勢で、これはいっさいの衆生を救済するため最善策を考えているからだと云われています。
仏門に帰依した者には、招福と徳を授け、篤い崇敬寄せる者には金銀などの財宝を授けてくださる観音様です。
日本では古くから信仰されている観音様で、奈良時代の頃に日本へ伝来しています。
いっさいの衆生を漏らすことなく救済するため、右側の2つ目の手には「如意宝珠(にょいほうじゅ)」、左側の2つ目の手には「法輪」を持っています。
「善光寺阿弥陀仏三尊像」
長野県・善光寺から勧請された「阿弥陀仏三尊像」です。長野善光寺には「一光三尊形式(善光寺式)阿弥陀三尊」と呼ばれる秘仏の仏像が祀られています。
善光寺では7年に一度開扉(御開帳)される秘仏の仏像になります。
つまり、中座に阿弥陀如来、左右脇侍に観音と勢至菩薩を配した三尊像で一光背を背に立てた善光寺型三尊像となる。
善光寺如来や善光寺については当サイトの以下の別ページを参照。
関連記事:長野・善光寺「本堂」
「地蔵菩薩立像」
もともとこの善光寺堂のご本尊です。
釈迦の入滅後、次の釈迦となるはずの弥勒菩薩が修行中なので、その弥勒菩薩の代わりとしてこの世を任されているのが、地蔵菩薩です。
地蔵菩薩には色々な表現のされ方があり、上述した「六地蔵菩薩」もそのうちの1つです。
六地蔵菩薩は、悟りの境地にたどり着くことができなかった人が「六道(天、人間、地獄、ガッキー、あぉ間違い!餓鬼!、畜生、修羅)」
を彷徨うことがないように救済するために生まれた地蔵菩薩になります。
地蔵菩薩像が、如意宝珠と錫杖(しゃくじょう)を持ち、袈裟を着た僧の姿で表され、寺院の堂内だけでなく道端に置かれることが多いのは、地蔵菩薩が、六道を旅する仏だからです。
地蔵信仰が広まったのは平安時代のことでしたが、貴族階級だけでなく、極楽往生するために現世でお金をかけられない平安時代の庶民たちの間にも普及しました。
それもそのはず、地蔵菩薩は、たとえ生まれ変わった先が地獄でも、救いの手を差し伸べてくれるのですから!
ええっ!?地蔵菩薩は閻魔様なの!?
中国では、閻魔を含む10人の王が死んだ人の罪の審判を行うという「十王信仰」があります。これが「地蔵十王経」として日本に伝わりました。
平安時代の日本では「本地垂迹説」という、神様は仏様の仮の姿であるとする考えが広まり、地獄の王たちも仏の化身だと考えられるようになりました。
これによると、閻魔さんも仏の仮の姿であり、その仏とは、なんとぉぅ!地蔵菩薩だとされたのです!
このような思想は、現世で悪巧みを働いて地獄へ落ちかけた際、功徳が少しでもあれば地蔵菩薩が閻魔大王に取り入って、極楽浄土へお連れ下さるということで、広く認知されるようになりました。
地蔵菩薩の仮の姿だとされる神としては、他にも、愛宕神や天児屋命(あめのこやねのみこと)などがいます。
このように、色々な神や信仰と結びつきながら、地蔵菩薩は日本人にとってもっとも身近な仏様になっていったのでした。
この他、地蔵菩薩はお釈迦様の命令を受けて弥勒菩薩(みろくぼさつ)の代わりとなる「現世の釈迦」としての側面もあります。弥勒菩薩は現在、衆生(生きとし生けるもの)を救う方法を模索しながらの修行中であり、56億7000万年後の現世に降臨し一切の衆生を救済すると云われています。
善光寺堂の「首振り地蔵」が京都・清水寺を代表するパワースポットだった?!
この清水寺・善光寺堂には、実はまだ祭祀されている菩薩様がおられます。
その菩薩様というのが少し風変わりで特徴的な地蔵菩薩様になります。
どんな地蔵菩薩様から想像がつきますか?
実はなんと!「首が360度回転する菩薩様」になります。
善光寺堂の「首ふり地蔵」とは?
善光寺堂には右手前に小さな覆屋でお祀りされた像高わずか50cmのお地蔵様が見えます。
このお地蔵様こそが「首振り地蔵」です。
また、別名で「待ち人地蔵」などとも呼ばれ、江戸時代から現代に至るまで庶民の身近な存在として、ひときわ篤い信仰が寄せられています。
首振り地蔵についての詳細は下記ページにて💘
清水寺・善光寺堂の御朱印
この善光寺堂は洛陽十番の指定を受けることから、それに準じた御朱印があります。
中央に大きく「大悲閣」と墨書きされた御朱印になります。
- 御朱印授与場所:境内の舞台裏の納経所(地主神社の入り口近く)
- 冥加料(値段):300円
清水寺の御朱印の種類に関しては以下の別ページにてご紹介しています。
京都・清水寺「善光寺堂(首振り地蔵尊)」の場所(地図)
清水寺の善光寺堂(首振り地蔵)は仁王門を向かい見て左手前。仁王門をくぐらすに左へ歩いた先に位置しまする。
【補足】オススメの境内の進み方
大半の方はが善光寺堂の存在に気づかずにそのまま通過して仁王門を目指します。
清水寺境内は基本、一方通行で最後に善光寺堂とは反対となる西門の方向から出てくることになるので、最後に善光寺堂へ寄ろうとすると忘れる可能性が高い。
そこで善光寺堂を先に立ち寄って、首を回しておいてから、馬駐や仁王門へ進むと隈無く廻ることができる。
↑左が善光寺堂。右が仁王門。仁王門真正面であることが分かる。ちなみに中央が馬駐。
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