近藤正慎とは?
近藤正慎(こんどう しょうしん)とは、丹波国桑田郡亀山藩山本村中条(後の京都府南桑田郡篠村山本中条、現在の亀岡市篠町)生まれの人物。
清水寺第23世の住職・「蔵海(ぞうかい)」は困窮する清水寺を救済する手段の1つとして、成就院の役人「栗山瀬平」の三男・「金弥(のちの近藤正慎)」と、次兄の息子・宗久(のちの月照上人)を1827年(文政10年)1月に成就院へ迎え入れた。
やがて、金弥が13歳、宗久が15歳になる頃、次兄の息子・宗久を「久丸」と改名させ、青山流生花の家元でもある公家の園家(園元茂/)の猶子(ゆうし/平易に養子のこと)とし、2人を得度(とくど/僧侶になること)させた。
つまり、近藤正慎と月照は得度を受けた日も同じといぅ、まさに竹馬の友だった。
近藤正慎は得度を受けた後、「義天坊天一(独郎)」という僧名を賜り、やがて清水寺の塔頭(子院)の1つである「金蔵院」の住職を任された。
しクぁし!
僧籍に身を置く身ながら、こともあろぅに女犯の罪を犯してしまい、還俗(げんぞく/僧籍返上)し、寺を去ることになる。ムフん💕
一方、竹馬の友の月照はと言うと、前住職の蔵海上人の跡を継いで第24世・成就院の住職に就任する運びとなり、地位を活用して放浪中の正慎を寺へ戻そう考えた。
うさミミ仮‥ではなく”寺侍”!「近藤義重」の誕生!トゥっ!
月照は、かねてより親交のあった武門の近藤家へ正慎を養子入りさせると、その名跡を受け継いで「近藤義重」と名乗らせ、成就院の寺侍(江戸時代の寺務に従事した侍)として迎えることにした。
住職になった月照は和歌を愛でるようになり、やがて和歌を通じて尊王思想を抱いた左大臣・近衛忠煕と知り合ぃ、彼を和歌の師と仰ぐことになる。
そんな近衛忠煕との関係が生まれたことや、朝廷をないがしろにして日米条約の調印を行ぅ幕府の身勝手な振る舞いに苛立ちを募らせ始めると、勤皇活動に身を投じていった。
やがて幕府の井伊大老が「安政の大獄」を打ち出すと勤皇活動が露見し、月照ならびにそのメンバーの西郷隆盛も追われる身となり、恩ある月照と命運を共にすると誓った正慎は、月照を逃がすために大坂まで逃げる手筈を整えた後、伏見で月照とその一行を見送った。
一行を見送った正慎は、すぐさま月照の身の回りに山積みされた機密書類の数々を焼却したが、幕府の縄の手が正慎へもおよぶと、京都六角の牢獄へブチ込まれ、臭いメシをたらふく腹におさめる日々を送ることになる。
六角牢で正慎は連日の如く、拷問を受け続けたが月照に助けられた身の上を身に沁みて理解していたこともあり、月照のために命を捧げる覚悟でどんな拷問を受けても、けっして口を割ることはなかった。
そしてついに正慎は獄中での死を決意し、絶食を断行するが失敗。その後、程なくしてド頭を壁にブツけ、舌を噛み切って華々しく散り果てた。享年43歳。
1903年(明治36年)、生前の功績が讃えられ、従五位に列せられた。
正慎の孫には陶磁器の人間国宝である近藤悠三、ひ孫には俳優の近藤正臣ら著名人がいる。また、子孫は代々、清水寺境内で休憩所「舌切茶屋」を現在進行形で営む。
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