なぜ清水寺本堂に舞台が造られたのか?舞台の歴史(年表)と由来や語源を‥‥よもぎ餅を食べながら知るつもり❓

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京都・清水寺「本堂の舞台」【国宝】【世界文化遺産】

清水寺の舞台の歴史

そもそも清水寺の本堂と舞台が立つ崖ができたのはいつ??

江戸時代以前の音羽の滝の水量は現在よりももっと多く、その結果、音羽の滝から流れた水が川となって、清水寺本堂の舞台が建つ崖を造り上げたという説がありまする。

実は清水寺の本堂が創建された当初、現在のような舞台を大きく張り出した本堂ではなく、それ以前に境内地と呼べるほどの面積すらなかった粗末で質素な堂宇だったと云われる。

舞台が造られたのはいつ頃?清水寺の舞台は創建当初には存在しなかった?

  • 不明
  • 推定:平安時代後期〜鎌倉時代 ※舞台

清水寺は過去、寺容を失うほどの焼失を繰り返し、その回数‥‥実に10回を超えると云われるが、繰り返しの火災により、創建からの清水寺の記録となる資料が現存しておらず、すなわち、本堂や舞台がいつ頃、建てられたのか?‥‥などの事柄が明瞭化されていなぅぃ。

しかしわずかに残された資料の中で今日までの京都清水寺の歴史の原典とされているのが、藤原明衡が編纂した「清水寺縁起」となる。

本書によると清水寺は780年(奈良時代)に創建されたことになっているが、傍証には至らず、今日までいっさい不詳とされてい‥‥‥申す。エングゥァっ(縁起だけに)

ただ、創建当初には舞台は存在せず、星霜経ながら火災と再建を繰り返し、おおむね平安時代後期〜鎌倉時代に現在ほどの規模の舞台が成立したと推定されてい‥‥‥申す。ブトゥァっ(舞台だけに)

このことは清水寺の歴史を書き綴った「清水寺縁起」を著した藤原明衡が縁起の末尾で次のようなことを書き記してい‥‥‥申す。ギャキャフヘっ

『807年(大同二年)、亜相(大納言=当時の田村将軍のこと)の宗室・三善命婦(正妻の高子夫人のこと)、寝殿を壊して運びて仏堂を建立す』

とある。

寝殿とは現在の状況で例えると舞台の内側部分、つまり内陣部分となる。おそらく創建当初は後方に地主権現の祠が建ち、その前面が崖だったに違いない。

なお、創建当初の清水寺は特に有名だったわけではなく、その名が知れ渡るようになったのは、805年(延暦24年)に天皇の御願寺となってからのこと。その結果、参拝者が増えたことから、807年に増築されたのだろぅ。もしくは田村将軍の功績を称え、天皇から長岡京の紫宸殿を下賜され現在地へ移築したという説もある。




1091年(寛治5年)に舞台の存在確認される!

藤原成通(ふじわらのなりみち)という蹴鞠(けまり)突きが上手な麻呂(まろ=訳:マユ半)が平安時代末期に記した「成通卿口伝日記」によると、1091年(寛治5年/平安時代後期)に清水の舞台上で蹴鞠(けまり)をしながら、往復したと自慢げに記している。

もし、この記述を正史とした場合、平安時代後期には往復するほどの広さを持つ舞台が存在したことを意味する。麻呂で おぢゃるゾヨぉ..ホっホっホっ

ちなみにこの藤原成通、マユ半にも関わらず「蹴聖」とまで謳われたほどの人物で、蹴鞠の流派をもつほどの蹴鞠の達人だったとのこと。….蹴鞠の上手い下手にマユ半がどぅ関係ある?

画像はhttps://ja.wikipedia.orgより

ただ、1つ付け加えておくと、この成通はハナから蹴鞠をしに清水寺へ訪れたわけではなく、父親である藤原宗通に随伴する形で清水寺へ参籠(さんろう/籠って祈願すること)しに訪れたとのこと。

しクぁし!参籠とは堂に籠って、ひたすら神仏に祈りを捧げることなので、それがマユ半にとってはあまりにも退屈すぎた。

そこで何を考えたのか突如、蹴鞠で使用する沓(くつ/履物)に履き替えはじめ、舞台高欄のキワを西側から東端へ鞠を蹴りながら移動し、さらに西側へ返ってくるという奇行をはたらいたのだった。

ところがドッコイ、蹴鞠は貴族の遊びだったので庶民たちは蹴鞠など知らなぅぃ。仮に知っていても間近で見たことが無いので珍道芸そのもの。

もしくは蹴鞠をよく知っている人物は『神聖な寺院の舞台でなんと大それたことを‥‥』など呟きながら、気づけばマユ半の周りには、驚きのあまり口をポッカリすえすえスエット的なほど、口を開けた見物客が取り囲む始末。 どゆ意味や

ところがその様子を知った参籠中の父・「宗通卿」は激怒し、清水寺からマユ半を追い出したのは言うまでもなぅぃ。

‥‥以上、この日記の内容を事実として見るのであれば、清水寺の舞台は遅くとも平安時代後期には存在したことになり申す。

義経と弁慶の戦いは清水寺の舞台だった?!

他にも、室町時代に編纂された『義経紀(ぎけいき)』の記述によると平安時代、牛若丸(源義経)と弁慶の決闘が五条橋だけではなく、この清水寺・舞台の高欄の上でも繰り広げられたことが記されてい‥‥‥申す。カキィィンっ(戦いの音を再現)

鎌倉時代以降の古書物には度々、舞台が登場する!

鎌倉時代や室町時代の書物の傍証からも舞台の存在が確認できる。

たとえば、平安時代末期に成立した今昔物語集や、鎌倉時代初期の「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」、1254年に編纂された「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」、鎌倉末期の「法然上人行状絵図」、室町時代初頭の義経記にも現在ほどの規模の舞台があることが記されてい‥‥‥申す。バギュィェティゥヴァっ …もはや何語?レベル

舞台の左右端の楽舎は鎌倉末期まで無かった

現在、せり出した舞台の左右端には「楽舎」と呼ばれる、雅楽などを演奏する屋根付きの建物が設けられているが、鎌倉末期に制作された「法然上人行状絵図」の中の舞台には楽舎が描かれていない。

⬆️「四巻・清水寺説法の図 」に描かれる舞台の姿。楽舎がないのが分かる。 https://bunka.nii.ac.jp/より)

これは単に楽舎が無かったことを意味し、次いで応仁の乱を経て1520年頃(室町時代)に制作された清水寺参詣曼荼羅には楽舎が描かれていることから、楽舎は鎌倉時代末期〜室町時代末の間に造られたものという推論が成り立つ。

⬆️「清水寺参詣曼荼羅」に描かれる舞台の姿。同様に楽舎がないのが分かる。




現在の舞台は江戸寛永期に建てられたもの!

あまり注目されませんが、おヒマがあればぜひ!高欄を見てください。この舞台の高欄の角柱の上の「金銅製の擬宝珠(ぎぼし/タマネギ)」には次のような刻銘がみられます。

「清水寺 舞臺(台) 金寶(宝)珠」

「寛永拾癸酉歳 十一月吉日」

これを訳すると次のようになります。

「1633年(寛永10年の癸酉の年/江戸時代)11月の縁起の良い日に落慶。」

これはつまり、この舞台が寛永期に実施された再建工事によって建てられたという傍証につながるいうこと。

なぜ舞台は造られたのか?「舞台が造られた理由とは?」

実は舞台が建てられた理由は現今に至ってまで明らかにされていない。

しクぁし!

旧記に登場する人物たちが清水寺へ参拝した様子を歌詠みで表現したりしていることから、その内容で往時の境内の様子を感じ取ることができる。

その1.「平安貴族たちが法楽を楽しむため」

法楽(ほうらく)とは神仏を楽しませるために芸を奉納すること。

神前or仏前にて詩歌を詠んだり、舞楽を奉奏することであり、楽師が招聘されて笙(しょう)や鼓(つづみ/肩乗せ太鼓)を奏で、役者はその音調に合わせて能や狂言、伎楽(ぎがく)などを舞った。

一説に平安貴族たちが舞台を建てたのは法楽を目的としながら、自らも楽しむために舞台が建てられたと云われる。清水寺は天皇(朝廷)の御願寺であった背景もあり、平安貴族とはそれなりに深い縁があった。

その2.本堂が手狭になったため拡張した結果、舞台造りになった

清少納言が書き下ろした「枕草子」の中に次のような内容のことを書き記してい‥‥‥申す。パギャっ

毎月17日と18日の観音縁日になると、身分・階級、貧富の差を飛び越え、はたまた老若男女問わず、境内に大勢の人々が押し寄せた。

清少納言もこの観音縁日にに参籠したことを記しており、「いとさわがし」とその時の心情を書き綴ってい‥‥‥申す。サゥグァっ(騒がしいを表現)

しクぁし!、あまりにも大勢の参拝客が押し寄せて参籠するため、堂内に入れない人もできてきた。

特に観音縁日は遠方から足を運ぶ人も数多。入りきれない場合は簡単に帰宅するなどできず、仕方なく堂外にて雨風にさらされながらの参籠になるわけであって、そういった事態を改善すべく、まずは内陣の左右に脇間(局/つぼね)が設けられた。

これについては、10世紀末に記された「落窪物語(おちくぼものがたり)」に『清水寺に詣ず。‥御車ども殿(はしどの)に引き立て、局ありや と言ふ。』の一文が見える。

しクぁし!それでも入りきらず、ついには外陣(礼堂)を崖に面して張り出す形で延長することが決定する。

これについては平安時代中頃に編纂された「更級日記(さらしなにっき)」の1039年頃の項に「清水の礼堂にゐ(い)たれば」と記されていることから、これはおそらく延長された礼堂のことを意味しているものと推察される。

しクぁし!それでも入りきらず、さらにぅぃ!礼堂を崖に面して張り出すことになり、これが今日見られる懸造りの舞台の起源となる。‥‥という説。

その3.観音の尊格や観音信仰の教理に因んだもの

舞台造りは「懸造り」と呼ばれる他、「懸崖造」や「観音造」とも呼ばれることがある。

観音の聖地とされる「ポータラカ(観音浄土/補陀落)」には断崖絶壁の上に観音の宮殿があるとされ、一説には平安中期に観音信仰が広まった折、それを具現化するために日本でも崖に床面をせり出す舞台が造り出されたと云われる。

つまり、観音により近い位置(ここでは観音の宮殿)にて拝することができるようにしたものが、懸造(懸崖造、観音造)の語源や由来とされる。




現在の舞台を建てた人物はいったい誰?

  • 発願者:東福門院(家光公の妹/徳川和子)
  • 寄進者:徳川家光公

現在の舞台は江戸時代に造営(再建)された舞台!

1629年(寛永6年)、境内の成就院から失火が発生。これにより清水寺の伽藍は遍く焼失にいたる。

この火事は応仁の乱と並ぶほどの大規模火災だったと云われ、御本尊「十一面観音像」も燃えてしまったと噂が立つほどまでの凄まじいものだった。

ほどなく1629年より再建工事が実施され、本堂および舞台は1633年(寛永10年)11月に完工している。(境内すべての再建工事は1633年の11月に完工)

この再建にもっとも尽力したのが時の将軍・徳川家光公と、その妹であり後水尾天皇の妻でもある「東福門院 和子(とうふくもんいん まさこ)」その人。

東福門院は兄の将軍・家光公に対し、清水寺の復興を粘り強く打診する。(1627年に和子はお腹を痛めて産んだ最愛の我が子(親王)を2人亡くしていたので、その供養や災いを祓うつもりで兄に懇願したのかもしれない。)

家光公も妹の切なる願いを聞き入れなぃわけにはいかず、ついに幕府主導の普請として、清水寺のへ巨額の資金提供(再建)を行う決定を下した。

以上、現在の清水寺境内に存在する建造物のほとんどは、この東福門院&家光公の手により再建された後の姿となる。

清水寺の舞台の歴史(年表)

できごと
798年(延暦17年)千手観音と脇侍に毘沙門天、地蔵菩薩を祀り本堂創建
807年(大同2年)坂上田村麻呂の嫁・三善高子の寄進により増築
1039年頃(長歴3年/平安時代)礼堂完成
1063年(康平6年/平安時代)本堂炎上(8月16日)
1064年(康平7年/平安時代)再建される
1091年(寛治5年/平安時代)本堂炎上(3月)
1094年(嘉保元年/平安時代)再建される(2月)
1110年〜1118年(天永〜元永年間/平安時代)舞台の存在が有史上で確認される
1146年(久安2年)本堂炎上(4月)
1147年(久安3年)再建される
1165年(永万年)本堂炎上(8月)
1173年(承安3年)本堂炎上(11月)
1220年(承久2年)本堂炎上(3月)
1349年(正平4年)本堂炎上(2月)
1469年(文明元年)再建される
1165年(永万年)本堂炎上(8月)
1173年(承安3年)本堂炎上(11月)
1469年(文明元年)本堂炎上(7月)
1629年(寛永6年)本堂炎上(9月10日)
1631年(寛永8年)東福門院(発願)・徳川家光(寄進)により再建工事開始
1633年(寛永10年)本堂再建成る(11月)
1899年(明治32年)6月本堂、檜皮葺屋根葺き替え、舞台柱の貫材などの交換、舞台床板全面張り替え、高欄取り替え、野地・軒周り・小屋組(屋根を支える骨組など)大修理を実施。総工費:4万5288円18銭。
1902年(明治35年)6月明治の大改修が完工す。
1925年(大正14年)8月舞台板張り替え。奥の院の舞台の修理も実施。
1925年(大正14年)11月上記、修理完工す。
1938年(昭和13年)約半分の舞台板の張り替え実施。
1948年(昭和23年)3月舞台板の張り替え、框(かまち)、根太(ねだ)の取り替えなどの実施。総工費:285万8448円36銭。
1950年(昭和25年)8月上記、修理が完工す。
1950年(昭和25年)屋根葺き替えを実施。
1964年(昭和39年)10月舞台・翼廊の床板張り替え、飾り金具補修、内々陣須弥壇一部解体・組み直し、防災施設工事の実施。京都府教育委員会委託。総工費:4927万円。
1988年(昭和63年)4月舞台板および、礼堂(外陣)東西両翼廊(楽舎)および西側車寄せの床板を新調し、全面張り替え。(長さ5m50㎝、幅33㎝以上、厚さ10㎝の木曽産のヒノキ416枚)高欄・大引・根太の腐朽材と一部の柱頂ならびに柱頭部を補修、懸け造り(舞台造り)の柱・貫の一部締め直し。総工費:約1億7千万円。
※舞台板の張り替え工事は25年〜30年、檜皮葺の屋根の葺き替えは、おおむね50年周期で予定されている。
1897年(明治30年)12月28日古社寺保存法により舞台ふくめ、「特別保護建造物(国宝)」の指定を受ける。
1952年(昭和27年)11月22日文化財保護法に基づき、国宝指定を受ける。
2017年(平成28年)本堂再建(1月)※平成の大修理
2019年(平成30年)末本堂再建の檜皮葺の屋根吹き替え終了
2020年(令和2年)12月3日本堂再建工事終了

清水寺舞台の焼失年代と歴史

  • 1063年(康平6年/平安時代)、清水寺の舞台を業火が襲い掛かり、本堂もろとも焼亡に至る。
  • 1110年〜1118年(天永〜元永年間/平安時代)に舞台の存在が有史上で確認される
  • 1165年(永万元年)戦で焼失
  • 1469年(文明元年)戦(応仁の乱)で焼失
  • 1629年(寛永6年)大火事で焼失

数ある旧記の傍証によれば、清水寺は過去、実に10回を超える火事に見舞われるも、その都度、再建されてきた歴史を有する。

東京国立博物館所蔵の1517年に土佐光信が記した清水寺縁起・三巻には1469年(文明元年)の罹災後、再建された本堂が描かれてい‥‥‥申す。ホンドゥァっ(もはや新手の韓国語)

⬆️この頃には楽舎が視認できる。

1633年の大造営(寛永期の再建後)以後は幸いなことに火事が一切無く、明治、大正、昭和、平成と通して幾度か改修工事のみが実施されてきたことから、江戸期再建の建造物群がそのまま踏襲されていることになり申す。

舞台の文化財指定など

舞台は本堂に附属することから、本堂とひっくるめて国宝ならびに、世界遺産の構成資産の1つとなってい‥‥‥ます。発動ちょぃやめとこか。

国宝指定年月日

  • 1952年(昭和27年)11月22日
世界文化遺産登録年月日

  • 1994年(平成6年)12月17日

清水寺の舞台が由来や語源になった「2つのもの」

1.「狂言や能で用いられる”舞台”」

清水の舞台奥の正堂を参拝する際、御本尊を向かい見て左側(西側)から右側(東側)へ向けて歩むことになりまする。

この時の動きを採り入れたものが、狂言や能で用いられる舞台の起源だとも云われる説がある。

2.「”檜舞台”」

現在でも清水寺の舞台で狂言や能が舞われることがありますが、一説によると「清水寺の観音様の前で舞いを披露(奉納)することができたら一人前」とされ、つまりこれが「檜舞台に出る」の語源になったとも云われる。

このような狂言や能と、清水の舞台との密接な関係性については、江戸時代の元禄期に歌舞伎(狂言)や能が熱狂的に流行したことが理由の1つに挙げられる。

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