京都清水寺・成就院「月照上人像」
- 像高:約25㎝
- 造立年代:明治時代
- 安置場所:成就院院内
月照上人とは?
1813年(文化10年)、大坂の町医者「玉井宗江」の長男として讃岐吉原(現在の善通寺市)に生を得た。当初は「宗久」といった。
実はこの玉井宗江の弟こそが、月照を次代の成就院(清水寺)住職へ推した清水寺成就院第23世・住職の「蔵海上人」その人であり、つまりは月照上人からすれば伯父にあたる人物となる。
蔵海上人は1016年(平安時代)に創建と伝わる牛額寺(ぎゅうかくじ)に在籍した僧侶であり、当時10歳だった宗久を弟子にとった後、清水寺成就院へ住職として入山することになる。
蔵海上人は当代では高名の高僧だったようで、諸寺から困窮する清水寺を救済して欲しいと云われたことや、何よりも興福寺・一乗院の伏見宮家出身・宮尊誠法親王たっての特別の思し召しということもあった。
月照、清水寺成就院へ入る
1827年(文政10年)、清水寺の改革の一環で後継者を育てることになり、宗久を成就院へ迎え入れるが、その折、宗久を「久丸」と改名させて青山流生花の家元でもある公家の園家(園元茂/)の猶子(ゆうし/平易に養子のこと)とし、成就院の役人だった「栗山瀬平」の三男・「金弥(のちの近藤正慎)」と共に得度(とくど/僧侶になること)させた。
得度した後、宗久(久丸)は授戒名として「忍介」と名乗るが、1835年(天保6年)5月に蔵海上人が清水寺改革の志半ばで遷化(せんげ/僧侶が死すこと)し、忍介がその跡を継いで成就院の住職に就く。
忍介は師である蔵海の志を受け継ぎ、近藤正慎の助力を得ながら全山の改革に務め、その結果、改革が成就すると、「忍向」と改名した。
忍向(月照)は和歌にも非凡な才を発揮し、当時、公家衆の間で当代きっての歌人と謳われた左大臣(のちの右大臣)・近衛忠煕(陽明公)に師事することになるが、近衛忠煕は勤皇派の第一人者であったこともあり、忍向も次第にその思想に染まっていった。
改革が一時は成ったように見えたが、時経ると次第に勝手気ままな行動を執る塔頭(子院)が後を絶たず、それに追い打ちをかけるかの如く、当時、清水寺でもっとも権威を持った宝性院の院主・義観が病気を理由に隠居すると、興福寺の一乗院宮から月照に対し、執行職と本願職を兼務するようにとの仰せが下った。
月照、隠居し勤皇活動に勤しむ
興福寺・一乗院宮から清水寺の執行職と本願職を兼務するように仰せつかった月照だったが、心が晴れない月照は突如、無断で隠密の旅に出てしまい、その後、1854年(嘉永7年)2月、境外隠居となり、二度と成就院の住職に復任することは無かった。月照この時、42歳。
1854年(嘉永7年)2月2日、この頃、清水寺塔頭の1院となる光乗院に入っていた信海は兄である月照の隠居を知り、自らがその志を受け継ぐべく、成就院住職に就いた。
信海は山内が荒れに荒れた最悪の状況で住職を継承したこともあって、興福寺・一乗院の力を背に受けながら、諸事によく務めた。
一方、その頃、兄の月照はというと、近衛忠煕公とその縁戚関係でもある薩摩・島津家の重臣・西郷隆盛とも関係を持ち、勤皇活動にさらに拍車をかけていた。
近衛家は藤原氏であり、藤原氏といえば奈良興福寺を創建した藤原不比等(ふひと/藤原氏の始祖・藤原鎌足の次男)がいる。また、清水寺は当時、真言宗との兼宗兼学を採っていたため、興福寺の末寺だったことも重なり、近衛家と清水寺とは何かしら深い因縁があった。
そんな月照の動きを危惧し監視していたのが、時の大老であった井伊直弼である。
直弼はどうやら月照が、近衛忠煕と薩摩・水戸の両藩、そして青蓮院宮(青蓮院門跡・尊融法親王)の仲を取り持つ人物だと目をつけ、さらに徳川家定の将軍継嗣問題では一橋派(実は尊王派)に与したため、幕府から尊王思想を強く抱く、危険人物と警戒するよぅになった。
なお、注釈しておくと、この当時、近衛忠煕や青蓮院宮などの公家と大名が幕府に無断で直接、会うことが禁じられていた。そこで清水寺のような寺院を間に挟んで、名目としては寺院への参拝・遊行として、これを密議の場としていた。
月照、安政の大獄で追われる身となる
いよいよシビれを切らした井伊大老は1858年(安政5年)8月より、安政の大獄を打ち出す。
月照上人はたちまちのうちに追われる身となり、ついに西郷とともに京都を脱して土浦藩士・大久保要や、水戸藩京都留守居役の鵜飼吉左衛門らの支援を得ながら、しばらく大坂に居処することになる。
しクぁし!老中・間部詮勝が入京する噂が立つと、西郷の強い申し出により、有村俊斎らの助力を得て海路で西郷の故郷である薩摩藩へ逃避行する計画が練られた。
その後無事に薩摩へたどり着いた一行だったが、西郷を自身の懐刀の如く用いた薩摩藩主「島津斉彬」が不運にも亡くなる。
そこで西郷とは犬猿の仲だった異母弟(いぼてい)の久光が薩摩藩の実権を掌握するようになると、一行は薩摩入りを拒まれ、日向へと追い払われてしまぅ。
ただしクぁし!不幸にもこの当時の薩摩には日向へ追い払わらた者は、日向の地で処刑するという習わしがあった。
そのことを知った月照と西郷はついに覚悟を決め、錦江湾(のちの鹿児島湾)へと進路を変え、入水自殺を図る。
その後、月照はサファイアのような透き通る深海へ露と消え、二度と京都の地を踏みしめることは無かった。享年46歳。
生前の月照の人物像を伝える次のような一文が残されている。
「眉目清秀、威容端厳にして、風采自ずから人の敬信を惹く」
要約すると『超イケメンで、人から尊崇が寄せられるような性格の人物だった。』ということ。
なお、西郷は奇跡的に一命を取り留め、奄美大島の獄へ移送されることになる。
月照の墓の場所
月照の墓は、この清水寺成就院とほかに、西郷の菩提寺である南洲寺(なんしゅうじ/鹿児島市)にもある。
清水寺では月照の命日である毎年11月16日(新暦の毎年同月同日)に「落葉忌」の法要を執行する。
月照上人の尊像が安置される場所(地図)
- 清水寺成就院の内部
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