京都・ 清水寺の本当の歴史を簡単に年表で解説!

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京都・ 清水寺の本当の歴史を簡単に年表で解説!

清水寺の年表と歴史・一覧

 

年月日 内容(起こったこと)
778年(宝亀9年) 子島寺(奈良)賢心が行叡居士と出会い清水寺を草創する。
780年(宝亀11年) 坂上田村麻呂が延鎮(えんちん賢心)に出会い、嫁半の帰依しが行叡居士と出会い清水寺を草創する。
御本尊「十一面千手観音像を祀る。
798年(延暦17年) 「坂上田村麻呂」が御本尊の脇侍として地蔵菩薩・毘沙門天像を祀り清水寺の額をかかげる。
847年(承和14年) 葛井親王(かどいしんのう)、三重塔を創建
1113年(天永4年) 祇園社(現・八坂神社)の神官や比叡山の僧兵が清水寺境内へ押し寄せて境内堂塔を破壊、焼き討ちにする
1188年(文治4年) 浄土宗の元祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が阿弥陀堂で参籠するために不断念仏する
1192年(建久3年) 鎌倉幕府が開かれる
1333年(元弘3年) 鎌倉幕府滅亡
1336年(建武3年) 足利尊氏が参拝に訪れ、自らが出家するので跡継ぎの直義の守護を頼んだ願文を奉納する
1338年(延元3年/建武5年) 室町幕府が開かれる
1469年(文明元年) 応仁の乱の兵火により清水寺伽藍大炎上。仁王門、馬駐、子安塔、鐘楼、春日社以外の堂塔はすべて焼失。
1477年(文明9年)頃 「馬駐(うまとどめ)【重要文化財】」の再建が完了。
1478年(文明10年) 仁王門【重要文化財】の再建が完了。
1478年(文明10年) 「梵鐘(ボンカレー、間違い!ぼんしょう!=鐘)【重要文化財】」の再建が完了。
1500年(明応9年) 「子安塔(こやすのとう/泰産寺)【重要文化財】」の再建が完了。
1520年(永正17年) 応仁の乱後の清水寺伽藍の様子が描かれた「清水寺参詣曼荼羅」が描かれる。
1573年(元亀4年) 室町幕府滅亡
1582年(天正9年) 本能寺の変が勃発、織田信長が散る
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康)が勝利
1607年(慶長12年) 「鐘楼【重要文化財】」が再建される
1629年(寛永6年) 成就院の出火により再び清水寺伽藍大炎上。堂塔ことごとく焼失
1629年(寛永6年) 徳川家光公および東福門院の発願により清水寺伽藍の再建工事が開始される
1631年(寛永8年) 釈迦堂【重要文化財】の再建が完了。
1631年(寛永8年) 西門(さいもん)【重要文化財】の再建が完了。
1632年(寛永9年) 轟門(とどろきもん)【重要文化財】の再建が完了。
1632年(寛永9年) 北総門(きたそうもん)【重要文化財】の再建が完了が完成。
1632年(寛永9年) 三重塔【重要文化財】の再建が完了。
1632年(寛永9年) 阿弥陀堂【重要文化財】の再建が完了。
1633年(寛永10年) 清水寺・本堂(舞台)【国宝】の再建が完了。
1633年(寛永10年) 成就院【国指定史跡名勝天然記念物】の再建が完了。
1633年(寛永10年) 開山堂(田村堂)が完成。重要文化財。本堂と同時に再建。
1633年(寛永10年) 経堂【重要文化財】の再建が完了。
1633年(寛永10年) 朝倉堂【重要文化財】の再建が完了。
1633年(寛永10年) 奥の院(奥の千手堂)【重要文化財】の再建が完了。
1738年(元文3年) 本堂の御本尊「十一面観音像」の御開帳が初めて行われる。以降、33年周期の御開帳が開始される。
1868年(明治元年) 神仏分離令の影響で清水寺の寺領が10分の1に減らされる。同時に地主神社が独立。春日社の名前が「鎮守堂」に改名される。
1885年(明治18年) 真言宗を廃して法相宗のみの所属となる
1897年(明治30年) 本堂が国宝指定を受ける。
1911年(明治44年) 仁王門近くの子安塔が境内南の丘(現在の場所)へ移築される。
1914年(大正3年) 大西良慶和上が成就院へ入る。
1915年(大正4年) 大西良慶和上が盂蘭(うら)盆法話を恒例行事に定める。
1943年(昭和18年) 成就院庭園が「史跡名勝天然記念物」の指定を受ける。
1965年(昭和40年) 清水寺、北法相宗を立宗し総本山となる。大西良慶和上が北法相宗の初代管長に就任。同時に法相宗の所属から外れる。
1966年(昭和41年) 仁王門、三重塔、奥の院、阿弥陀堂、釈迦堂、子安塔が重要文化財の指定を受ける。
1972年(昭和47年) 集中豪雨によって「釈迦堂」が倒壊。
1975年(昭和50年) 釈迦堂の再建が完了する。
1984年(昭和59年) 開創1200年記念事業の一環として大講堂が造営される。
1989年(平成元年) 開創1200年記念「清水寺展」が東京で開催される。
1989年(平成元年) 開創1200年記念「清水寺展」が1991年(平成3年)まで日本全国の主要都市にて開催される。
1990年(平成2年) 本堂舞台、奥の院舞台、全面改修工事
1994年(平成6年) ユネスコ世界文化遺産の指定を受ける。
2000年(平成12年) 本堂の御本尊の御開帳が開催される(3月3日から12月3日)
2003年(平成15年) 奥の院御本尊御開帳が開催される(3月7日から12月7日)
2008年(平成20年) 「平成の大改修」が開始される。対象堂舎:馬駐、北総門、朝倉堂、子安塔、阿弥陀堂、奥の院、轟門、釈迦堂、本堂(9棟)
2010年(平成22年) 馬駐の再建(解体修理)が完了する。(工期:平成20年8月~平成22年11月)
2010年(平成22年) 北総門の再建(補修)が完了する。(工期:平成21年1月~平成22年7月)
2013年(平成25年) 朝倉堂の再建(解体修理)が完了する。(工期:平成22年3月~平成25年8月)
2013年(平成25年) 子安塔の再建(解体修理)が完了する。(工期:平成21年2月~平成25年8月)
2013年(平成25年) 奥の院の再建(大改修)が完了する。(工期:平成23年3月~平成29年6月)
2013年(平成25年) 阿弥陀堂の再建(解体修理)が完了する。(工期:平成23年3月~平成29年6月)
2016年(平成28年) 轟門の再建(解体修理)が完了する。(工期:平成25年1月~平成28年7月)
2016年(平成28年) 釈迦堂の再建(補修・屋根葺き替え)が完了する。(工期:平成25年1月~平成30年7月)
2021年(平成33年) 本堂の再建(大改修)完了予定。(工期:平成29年1月~平成33年※予定)

京都・清水寺の歴史を簡単に説明!

「延鎮」と「行叡」の出会い【清水寺の起源】

奈良時代に、大和の国(奈良県)にある「子島寺(こじまてら)」と言うお寺に「賢心」と言う僧侶がいました。

大和の国(奈良県)にある、「子島寺(こじまてら)」と言うお寺に「賢心」と言う、僧侶が↑賢心(延鎮)

子島寺で修行を重ねていた賢心は、ある日の夜、夢をみることになります。

その夢とは、京都の山奥にある「乙輪(現在の音羽)」と呼ばれた場所へ向かって歩いて行く夢です。

翌朝、目が覚めた賢心は、これは夢ではなく仏の導きであると考え、夢で見た通り現在の音羽山に向かう旅に出ました。

そして乙輪(音羽)の山に入った賢心は、そこで滝行して「千手観音」を念じ続ける「行叡居士(ぎょうえいこじ)」という修行者に出会うことになります。

滝行して「千手観音」を念じ続ける、「行叡居士(ぎょうえいこじ)」という修行者行叡

行叡は賢心と会うなりこう言います。

そなたがここに来るのを長年心待ちにしていた」

「私はこれから東の方へ旅立つ。あとをよろしく頼んだ

と、こう言って1本の木(霊木)自分が住まいにしていた「庵」を残し立ち去って行きました。

ここで、子島寺で見た夢のことを思い出した賢心は行叡が「観音の化身」だと悟ります。

そして、行叡が残していった「霊木(れいぼく)」に千手観音像を刻み、行叡が残した旧庵に安置したのです。

この「行叡の旧庵」が、清水寺の始まりと言われています。時に宝亀9年(778年)のことです。


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賢心と坂上田村麻呂の出会い【清水寺創建

行叡が去ってから2年経ったある日、賢心はいつものように音羽山で修行していたところ、のちに征夷大将軍となる「坂上田村麻呂」と出会います。

征夷大将軍となる「坂上田村麻呂」

この時、田村麻呂は妊娠した嫁半の三善高子(みよしたかこ)に栄養を付けさせるために、鹿肉を求めて音羽山に入っていました。

音羽山に入った後、田村麻呂は見事、鹿を狩ることに成功しますが、その時に音羽山で修行をしていた賢心と出会うことになります。

賢心は、鹿を狩った田村麻呂に対して命の尊さと殺生の罪を説くと、田村麻呂は、その話に聞き入ってしまいます。

その後、嫁半の待つ自宅へと到着した田村麻呂は嫁半に音羽山で起こった出来事を話します。

嫁半はその話を聞いて鹿を狩らせた己を恥じ「賢心さんが持つ観音像を祀るために我が家を捧げましょう」と言い、後日、田村麻呂と共に再び賢心のもとを訪れて仏門に帰依することを誓うのです。

賢心は田村麻呂と嫁半の帰依を認めて、田村麻呂の自宅を「観音像」を祀るための「本堂」としました。これが清水寺の誕生です。

征夷大将軍・坂上田村麻呂

一方、この頃の田村麻呂は、日本初の征夷大将軍と称される「大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)」の副将軍を務めていました。

田村麻呂の武勇は凄まじく、次々と実績を積み上げ、いつの間にか田村麻呂は軍しいては国家の軍務の中心的な人物となっていました。

そしてある時、大伴弟麻呂は田村麻呂を陣舎に呼び寄せて、自らが持つ征夷大将軍の号を田村麻呂へ譲ります。

後に田村麻呂は桓武天皇から「蝦夷平定(現在の北海道の平定)」を命じられ、正式に「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任ぜられることとなります。

蝦夷平定

蝦夷に付いた田村麻呂は連日、祈願を続け、2人の仏の化身の加護を受けることになります。

  • 「毘沙門天の化身」である「若武者」
  • 「地蔵菩薩の化身」である「老僧」

この仏身の加護を得た事で、田村麻呂は次々に襲いかかる敵軍を退け快進撃を続けることになります。

当時の蝦夷にも勇猛な族長が2人存在し、名前をアテルイとモレと言いました。

2人の将軍はこれまで幾度も蝦夷を平定しに訪れた朝廷軍を撃退してきましたが、田村麻呂には次々に侵略を許してしまい、ついに本拠地となる地域に城を築かれてしまいます。

本拠地に城を築かれたことで動きが取りづらくなり、いよいよ負けを認めて田村麻呂に降伏することとなります。

そして事実上、田村麻呂は蝦夷を平定することに成功します。

京の都へ戻った田村麻呂は、毘沙門天と地蔵菩薩に感謝の意を表し、金色の十一面観音像と、さらに自らを守護してくれた毘沙門天と地蔵菩薩の像も造立して「賢心」に捧げます。

「賢心」は、田村磨呂から捧げられた3尊を、田村麻呂の元・邸宅である清水寺に祀ることにして田村麻呂と力を合わせて改築に着手します。

改築後、「賢心」は十一面観音像を清水寺の御本尊と定め、田村麻呂を加護した「毘沙門天」と「地蔵菩薩」を脇侍と位置づけて清水寺に祀ることにします。

そしてこの時、賢心も名前を改め「延鎮(えんちん)」と名乗ることになります。時に798年(延暦17年)のことです。

これが清水寺の起源となった3人の物語となります。

このことから、清水寺では上記の物語の3人を以下のように位置づけています。

  • 行叡を「元祖
  • 延鎮を「開山
  • 田村麻呂を「本願

清水寺、天皇御用達の御願寺に定められる【清水寺が有名になるキッカケ】

805年(延暦24年)になると時の天皇である桓武天皇は、清水寺を自らの御願寺と定めて清水寺に寺領を与えて伽藍を築くことを勧めます。

810年(大同5年)には鎮護国家の寺院としても定められ、時の天皇である「嵯峨天皇(さがてんのう)」から「北観音寺」の宸筆(しんぴつ)が贈られます。

北観音寺の「観音寺」の名前の由来は、開山である延鎮(賢心)が元・在籍していた寺院が「観音寺」であったの起因するもので、つまりは「北にある観音寺」として「北観音寺」と命名されています。

清水寺、「法相宗」の寺院へ

実は清水寺は創建当初は十一面観音を祀りながらも、宗派を持たない寺院として無宗派を貫いていました。

しかし、鎮護国家の寺院として指定を受けたことで同様に鎮護国家の寺院として名を馳せていた奈良・興福寺の傘下に入ることになります。

この時、同時に興福寺の宗派である法相宗に属することとなり、さらに平安中期になると真言宗にも属し、「法相宗と真言宗の兼宗」という形にもなっています。

以降、1965年(昭和40年)まで法相宗とは縁が切れること無く、法相宗の寺院として歩んでいくことになります。

応仁の乱後、決死の勧進活動で清水寺を復興に導いた人物

応仁の乱の際、清水寺は兵火によって伽藍全体がことごとく焼失しています。

しかしこの後、それほど時を経ずに見事、清水寺の伽藍は再建に至っていますが、この再建にはある人物の決死の努力が実を結んでいた事実はあまり知られていません。

その人物とは「願阿弥(がんあみ)」という時宗の僧侶です。

この当時、願阿弥の人気は凄まじいものがあり、興福寺も願阿弥を正式に清水寺再興の勧進職に任命して勧進活動にあたらさせました。

願阿弥は資金を集めては再建、集めては再建を繰り返し、見事に清水寺を復興に導いています。

創建より伝わる十一面観音を焼失??

1629年(寛永6年)、境内の成就院から失火が起こり、なんと!!清水寺の伽藍は再びことごとく焼失してしまいます。

この火事は応仁の乱と並ぶほどの規模の大火事で、御本尊「十一面観音像」も燃えてしまったと噂が立つくらいの大規模火災となりました。

しかしこの後、再び時を経ずして再建されることになりますが、この再建にもっとも尽力したのが時の将軍・徳川家光公です。

家光公はこの時、清水寺に巨額の資金提供を行いますが、清水寺もこれに甘えじと1738年(元文3年)に絶対秘仏であった御本尊の御開帳を歴史上、初めて行っています。

清水寺初の御本尊の御開帳はわずか3日間だけだったのですが、予想外の人々が清水寺へドっと押し寄せ、霊験あらたかな御本尊の顔を拝むため、日本全国から清水寺へ殺到することになります。

この御開帳によって莫大な資金を得た清水寺は、観音様の縁日と関わりの深い「33」の数字をとって、以降、33年周期で御開帳を行うことを定めています。

広大な寺領が10分の1に!

明治初頭に差し掛かると、政府によって神仏分離令が出されることになり、神道重視の思想が蔓延しはじめます。

さらに神仏分離令から派生して廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の思想が生まれ、仏堂や仏像は盗難、売買、焼かれたりするなど、混迷の時期を迎えることになります。

そしてこの余波は清水寺にも訪れ、かつて広大な敷地を誇った寺領も、わずか10分の1程度の寺領を残し、すべて没収されることとなります。

真言宗の所属から外れる

1885年(明治18年)になると真言宗を廃して所属から外れ、法相宗のみに所属する形になります。

清水寺の衰退

清水寺は古来、檀家(だんか)を持たない寺院でしたので、寺領を没収されるとたちまちの内に資金繰りに困窮することになります。

境内の堂舎や仏像は売り払われ、さらに一部の土地まで売り払うことで何とか当面の資金を得る状態にまで陥ります。

しかしこの窮地を救う人物があらわれます。

その人物こそが「興福寺第231世・貫主・大西良慶(おおにしりょうけい)和上」です。

大西良慶和上は興福寺の貫主と兼務という形で、まず清水寺の成就院を再興し、以降、成就院を清水寺復興の中心地として定めます。

1965年(昭和40年)には、清水寺を従来の法相宗から独立させて「北法相宗」を立ち上げ初代貫主に就任します。

以降、初代貫主として多くの精力的な活動を多面的に行い、見事、清水寺を再興に導いています。

清水寺、世界文化遺産登録へ・・【清水寺の人気が不動になる】

1994年(平成6年)には「古都京都の文化財」の主翼として、日本で5件目の世界遺産指定を受ける大業を成します。

2000年(平成12年)には、33年周期の御開帳の規則に則り、本堂・御本尊の御開帳が3月3日から12月3日開催され、続く、2003年(平成15年) には、3月7日から12月7日の日程で奥の院の御本尊の御開帳が開催されています。

そして、2008年(平成20年) には、「平成の大改修」と銘打って、境内の堂塔、約9棟を対象に屋根の葺き替えや解体修理が行われています。

現在も工事は続いており、平成33年・春の終了予定で再建工事が進められています。ウフ

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