京都・清水寺「本堂」【世界文化遺産】【国宝】【西国三十三所観音霊場第十六番札所】【洛陽三十三所観音霊場第十二番札所】

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京都・清水寺「本堂」【世界文化遺産】【国宝】【西国三十三所観音霊場第十六番札所】【洛陽三十三所観音霊場第十二番札所】

創建年

不明
推定:798年(延暦17年)

再建年

1482年(文明14年)
1633年(寛永10年/江戸時代)
2017年(平成28年)※屋根葺き替え工事

大きさ

  • 本堂
    桁行(奥行き):九間(約16m)
    梁間(横幅):七間(約12.6m)
  • 全体(裳階・翼廊含める)
    正面約36m
    側面約30m
    棟高18m
建築様式(造り)

一重・入母屋造・妻入※左右、翼廊
本堂:寄棟造り、縋破風造り
舞台:懸造り(舞台造り)
内陣左右(東西)・局:裳階(もこし)付
正面:左右(東西)両翼廊付
※庇(ひさし)付き

屋根の造り

総檜皮葺

清水寺 舞台の柱の数・素材・広さなど

6本柱・懸造り(かけづくり)
柱の数:約78本(舞台)全体172本
柱の長さ:約12m
柱の直径:約80cmから2メートル
柱の形:平面十六角形
材質(舞台):ヒノキ(約420枚)
材質(柱):ケヤキ(樹齢約400年)
面積:約190㎡(1辺・約19m)/境内全体約13万㎡

御本尊

清水型千手観音像

脇侍

地蔵菩薩(現世を釈迦に成り代わり見守る菩薩さま)
毘沙門天(二十八部衆の一尊・七福神の一尊)
二十八部衆(千手観音の眷属・配下)
風神
雷神

重要文化財指定年月日

1897年(明治30年)12月28日

国宝指定年月日

1952年(昭和27年)11月22日

世界文化遺産登録年月日

1994年(平成6年)12月17日

発願者

坂上田村麻呂※創建
賢心※創建
東福門院(徳川家光の妹)※寛永期再建
徳川家光(寄進)※寛永期再建

清水寺・本堂の読み方

清水寺の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前の仏像や堂舎が存在しますが、本堂はそのまま「ほんどう」と読みます。

京都・清水寺「本堂」の歴史・由来

清水寺の本堂は寺伝によると、798年(延暦17年)に征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、自らの邸宅を賢心(けんしん)という僧侶へ寄進し、さらに金色の十一面千手観音像と脇侍となる地蔵菩薩像、毘沙門天像を造立・祭祀して「北観音寺(のちの清水寺)」を号して、創建に至っています。

創建当初の清水寺は、現在のような舞台付きの巨大な本堂ではなく、敷地面積も狭く、とても境内と呼べるものではなかったと伝わっています。

清水寺が本格的に寺院として始動しはじめたのが、805年(延暦24年)に坂上田村麻呂が朝廷より「国家鎮護のご利益をもつ寺院」のとしてのお墨付きをもらい、天皇の御願寺として「北観音寺」という名前を下賜されてからです。

この後、単立した寺院として歩みはじめますが、近隣にあるかつての祇園社(ぎおんしゃ)、つまり現在の八坂神社や叡山(比叡山延暦寺)との間に抗争が絶えず、焼失や破壊される度に再建するといった歴史を歩むことになります。

現在の清水寺は広大な伽藍を誇り、威容感に満ちた寺観が備わっていますが、現在のような伽藍と寺観が成立したのは1264年~1278年(鎌倉時代)の頃と云われています。

戦国時代には織田信長、安土桃山時代には豊臣秀吉などがスポンサーとなって清水寺に資金提供をしてきましたが、双方がこの世を去った後は再び戦乱の時代に戻り、資金集めもままならず、次第に荒廃していくことになります。

その後、清水寺が日の目を見ることになったのが、江戸時代前期に徳川家光公による莫大な援助金の寄進があった後になります。

現在みることのできる清水寺の伽藍の寺観は、この家光公による再建後の姿です。

明治時代に再び荒廃した清水寺

江戸幕府が倒れ明治時代に入ると、それまで清水寺のスポンサーであった幕府の庇護がなくなったばかりではなく、さらに神仏分離令が政府より出されこれにより「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の動きが活発になります。

この時の神仏分離令や廃仏毀釈によって清水寺の寺領が一部、没収となり、檀家(だんか)を持たない清水寺は資金を得ることができなくなり、境内の堂舎や仏像を売り払うなどして資金を得ることになります。

こうして次第に廃れていくことになりますが、当時の住職・大西良慶(おおにしりょうけい)の勧進活動や多面的な活動によって窮地を脱し、現在見ることできるような威容に満ちた寺観の回復に成功しています。


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清水寺は創建当初は長野善光寺と同じく「無宗派」だった?!

実は清水寺は創建当初、長野善光寺と同じく「無宗派」だったと云われています。

しかし、清水寺と同様に仏教道場として力を付け始めた比叡山延暦寺が清水寺を傘下に組み入れる動きが活発になったため、清水寺は回避策として奈良・興福寺の庇護のもと、あくまでも単立の寺院としての立場を貫きながら興福寺と同じ「法相宗」の寺院として歩みはじめることになります。

興福寺の傘下におさまった理由は、興福寺の勢力が叡山を上回る趨勢を誇っていたからです。なんといっても興福寺は権力者・藤原氏が創建した寺院であり、歴代の藤原氏が崇敬を寄せた寺院でもあります。

できごと
798年(延暦17年) 千手観音と脇侍に毘沙門天、地蔵菩薩を祀り本堂創建
807年(大同2年) 坂上田村麻呂の嫁・三善高子の寄進により増築
1039年頃(長歴3年/平安時代) 礼堂完成
1063年(康平6年/平安時代) 本堂炎上(8月16日)
1064年(康平7年/平安時代) 再建される
1091年(寛治5年/平安時代) 本堂炎上(3月)
1094年(嘉保元年/平安時代) 再建される(2月)
1110年〜1118年(天永〜元永年間/平安時代) 舞台の存在が確認される
1146年(久安2年) 本堂炎上(4月)
1147年(久安3年) 再建される
1165年(永万年) 本堂炎上(8月)
1173年(承安3年) 本堂炎上(11月)
1220年(承久2年) 本堂炎上(3月)
1349年(正平4年) 本堂炎上(2月)
1469年(文明元年) 再建される
1165年(永万年) 本堂炎上(8月)
1173年(承安3年) 本堂炎上(11月)
1469年(文明元年) 本堂炎上(7月)
1629年(寛永6年) 本堂炎上(9月)
1631年(寛永8年) 東福門院(発願)・徳川家光(寄進)により再建工事開始
1633年(寛永10年) 本堂再建成る(11月)
2017年(平成28年) 本堂再建(1月)

清水寺・本堂の建築様式(造り)

清水寺・本堂の構成

清水寺・本堂は外側(舞台)から「礼堂廊下(南廊下)」「礼堂(外陣)」「内陣」「内々陣」と構成され、内陣と内々陣をもって正堂としています。

清水寺本堂の内部構造と図面

清水寺本堂横側から見た絵図面

画像引用先:京都府教育文化庁文化財保護課

外陣

轟門(とどろきもん)から廊下を進むと少し広い空間が出てきますが、ここが舞台の入り口となる外陣の「車寄せ」になります。

清水寺本堂の外陣部分は礼堂(らいどう/拝殿のようなもの)になっており、天井は格天井が張られ、天井を支える図太い丸柱が西端から東端までの間を等間隔で並び立っています。

この礼堂には相の間が造られており、現在は「板敷き」ですが、江戸初期の再建直後は「石の四半敷き(しはんじき/ひし形の形状の石が並んだ石床)」であったことが明らかにされています。

また、この相の間の天井は化粧屋根裏で造営されていることから、古い時代の様式を踏襲していると考えることができます。

外陣の見どころとなるのが「欄間に飾り立てられた大きな絵馬」と、「御正体(みしょうたい)」もしくは「懸け仏」と呼ばれる御本尊の姿を示した約2mほどの銅の円盤です。

御正体は賽銭箱の真上に3つ取り付けられています。

本堂の御正体
  • 正面中央:11面千手観音/像高73㎝/銅板の直径約2m/重さ400kg
  • 向かって左側:地蔵菩薩/像高49㎝/以下、同じ
  • 向かって右側:毘沙門天/像高41㎝/以下同じ

御正体に関しての詳細は以下の別ページにてご紹介しております。

えぇっ?!京都・清水寺には1000年以上前から伝わる「秘仏」がある?!

尚、一般の参詣者が通常時期に立ち入ることができるのはこの外陣までとなるので、一般参拝者が御本尊の姿を見て祈願できるようにこのような御正体が据えられています。千日詣りの時は内部を特別拝観できます)

礼堂正面の蟇股

ほとんどの方が通りすぎてしまいますが、礼堂を少し上を見上げると正面部分に「極彩色の蟇股(かえるまた)」が据えられています。

この蟇股の中央には御本尊・十一面千手観音を象徴する梵字「キリーク」が刻まれ、その左には御本尊の脇侍となる地蔵菩薩「」、右には毘沙門天「バイ」が刻まれています。

舞台

舞台は本堂・外陣の外側部分となります。

入母屋造りの楽舎(翼廊)が左右(東西)に設けられ、厳密にはその間の部分が舞台になります。

翼廊は部分は舞台の一部を構成していますので、一般の参拝者は翼廊の存在に気づかずに奥の院や阿弥陀堂へ進むと思われます。

舞台下は、「懸造り(かけづくり)」の束柱は、最長約12m、周囲の長さが約2.3mもの「16面造りのケヤキ柱」が据えられています。

内陣

創建当初の清水寺・本堂はかつて長岡京に存在したとされる紫宸殿(ししんでん)を移築し、本堂として使用していたと云われています。

本堂の内陣に見える蔀戸(しとみど)や屋根の檜皮葺(ひわだぶき)、屋根の2段縋破風(すがるはふ)などは、まさにかつての天皇の御所を偲ばせる建造物として捉えることができます。

↑2段になった「すがる破風」

内陣の東西(左右)には局(つぼね)がそれぞれ設けられ主に参籠(さんろう/籠もって祈る場所)する際に使用されます。

この局は正堂部分の両端に設けられており、局の上には裳階屋根が乗り、遠目からみると屋根が二重に据えられているのが視認できます。

内々陣

外陣から内陣が少し見えますが、内陣の奥となる内々陣には横幅16メートル、奥行き3.3メートルもの巨大な須弥壇が設置されており、その上に国宝の厨子(ずし/箱)が置かれ、清水寺の御本尊「清水型千手観音」はこの厨子の中に安置されています。

須弥壇の周りは床が一段低くなっており、他の間とは異なり石が複数敷き詰められた土間になっています。これは創建当初の本堂が土間であった証拠を示すものであり、はたまた、度重なる再建の折、御本尊に配慮して本堂の位置を動かさなかった証拠とも言えます。

内陣と内々陣の間の中央の丸柱6本には漆の下地に金箔押しが用いられ、質素な本堂の中でも、ひときわ煌びやかな空間が創造されています。まさに”ここが清水寺の聖域”であるということを再認識させられます。

本堂の脚元の柱の数の内訳

正堂-丸柱(大):44本
両裳階(もこし)-丸柱(小):17本
礼堂(らいどう)-丸柱(小):30本
西車寄せ-丸柱(小):9本+3本
両楽舎-角柱(四角形):10本+12本
東廊下-角柱(四角形):4本+3本
舞台下-16面柱:18本

  • 合計172本

2017年は本堂の屋根の葺き替えが執り行われた記念すべき年!

ご存知の方も多いと思われますが、清水寺の本堂の屋根は”ヒノキ材”を用いた檜皮葺(ひわだぶき)で葺かれています。

檜皮葺きの屋根は、30年から40年に1度は葺き替えるのが妥当と云われますが、清水寺本堂の檜皮葺の屋根は1964~67年に葺き替えられて以来、2017年で50年目を迎えています。

そして50年の節目となる2017年に約40億円もの総工費をもって、ついに「50年ぶりの葺き替え工事」が実施されています。

工事は2017年1月より開始され「平成の大改修」と銘打って、本堂の屋根を覆い隠す「素屋根」が設けられ、2020年(平成32年)3月の終了で進行されています。

檜皮葺とは?

檜皮葺とは「ひわだぶき」と読み、これはは、檜(ひのき)の樹皮を何重にも重ねて葺かれた屋根のことです。

つまり、屋根の上によじ登って、檜皮を葺く作業を行う前には、まず、ヒノキの樹皮を剥き取る作業から開始されます。

↑ヒノキの樹皮を剥き取る様子

↑ヒノキの樹皮を何重にも重ねて葺き終わったあとの様子

檜皮葺の屋根は、「こけら葺」や「茅葺(かやぶき)」など、同じく植物を使って葺かれた屋根の中でも最も格式の高い技法で、古くから貴族の邸宅や寺社に用いられてきました。

なお、「こけら葺き」とは「板葺き」の総称を言いますが、広義ではこの檜皮葺も「こけら葺き」の1つでもあります。

有名なところでは、長野県の善光寺本堂島根県の出雲大社本殿、広島県の厳島神社の本殿・諸殿などの屋根が檜皮葺となっています。

ちなみに国宝や重要文化財に指定されている檜皮葺の建物は全国に730件ほどあり、その中の150件が京都市内にあるのだそうです!

そして、その中の1つが【国宝】清水寺本堂というわけです。

檜皮葺の特徴

【その1】燃えやすい”火の木”

檜皮(ひわだ)つまり、ヒノキの皮は軽いので、瓦に比べて建物への負荷が少ない反面、時間が経つにつ入れて吸水力が落ちて乾燥し、燃えやすくなるという欠点もあります。

この燃えやすいという特徴が、清水寺の本堂が度重なる火災で焼失した要因の1つとも考えられます。

このため、古来、関係者の間では、別称で「火の木(=ヒノキ)」とも呼ばれるほどです。

【その2】「金属製の釘」ではなく、「竹の釘」が使用される

檜皮葺屋根は、一般的には、長さ75cm、先端の幅15cm、後ろ側の幅10.5cm、厚さ1.5〜1.8mmほどの細長い形に加工された檜皮を、屋根の下から上に向かって、1.2cmほどずらしながら葺いていきます。

もちろん、ただ置いていくだけでははがれてしまいますから、檜皮は竹材を釘に仕立てた長さ約3㎝、直径約2ミリほどの「竹釘(たけくぎ)」で固定されます。

↑竹釘をハンマーで打ち込む瞬間

檜皮を重ねながら竹釘で固定していくと、厚さはおよそ10cmになりますが、軒先だけは10㎝以上(数十センチ)の厚さにすることもあります。

このような竹釘を使ったり、軒先を厚くしたりする技法は、平安時代以降に浸透したようです。

【その3】照り起りの屋根

上述したように屋根に厚みの強弱が付けれるようになったおかげで、瓦葺の屋根では表現しづらい、しなやかで美しい曲線を出すことができるようになりました。

例えば、清水寺の本堂の屋根は、屋根の上の方が膨らみ、下の方が反ったきれいな曲線を描いています。

このような屋根を「照り起り(てりむくり)屋根」と呼びます。

今回の清水寺の工事は”平成の大修理”と呼ばれるだけあって、屋根の檜皮の葺き替え工事は生きているうちで何回も観れるものではなく、次はいつになるか分かりません。

素屋根に覆われた本堂の姿を見るのは、なんだか忍びない気持ちになりますが、考え方によっては、素屋根に覆われた本堂の姿を見れるのは今がチャンスとも言えます。

檜皮葺きや平成の大改修(大修理)の詳細については以下の別ページにてご紹介しています。

京都・清水寺の「平成の大改修工事中」って何?

ところで・・清水寺の舞台が造られたのはいつ??

清水寺の舞台は京都のことを書き記した古書物によると、平安時代後期には歴史上に登場していたことが明らかにされています。

 

清水寺の舞台に関しての詳細は当サイトの以下の別ページにてご紹介しております。

京都・清水寺の舞台の柱には釘が一つもない?!「建てられた理由・歴史・高さ・材木・建築造り(懸造り)」

「清水寺の舞台から飛び降りる」の意味(使い方)・由来・歴史と「飛び降りる理由と生存者数と死者の数」など


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清水寺・本堂の見どころ

清水寺の七不思議?!本堂の長押に注目!

本堂の東と西の裳階窓の下の背の低い位置にある腰長押(こしなげし/太い横木)には、ぬぅあんとぉぅ!「弁慶の爪痕(べんけいのつめあと)」や「弁慶の指跡」と呼ばれる何かで引っ掻いたような傷が付けられています。

弁慶の爪痕」や「弁慶の指跡」と呼ばれる理由は、この舞台でも弁慶と義経が戦ったと伝わっており、その際に怪力の弁慶が爪で引っ掻いたという説や、他には自身が持つ自慢の「七つ道具」で付けたキズだとも云われています。

しかし弁慶が活躍した時代は平安時代であり、この本堂や舞台は江戸初期に家光公の発願によって造営されていることから、時代の整合性がとれませんので事実ではないことが分かります。

本堂の傷の理由

これは実際にあった話ですが、江戸時代には「堂々めぐり(千度参り)」という風習があったようで、この本堂の周囲を1000回、周ることで御本尊の霊験あらたかなご利益が得られると信じた人が朝から晩まで何日もかけてグルグルと周ったと伝えられています。

傷(爪痕)の理由は昼間周るのは明るいので問題がないのですが、真夜中になると周囲が真っ暗になるので、細い串などの棒状のモノを本堂の壁に当てて迷わないようにグルグルと周ったと云われています。

そのため低い位置にある腰長押に引っかき傷が付いていることになります。

驚くのはこの風習が昭和初期まで続けられていたそうで、つまりは江戸初期の再建から昭和初期まで何百万人という人が周ったためにこのような傷になったと云われています。

ただ、別の視点から考えるのであれば、ひょっとするとこの長押の部材だけ江戸期再建以前の腰長押だとすれば、本当に弁慶の爪痕かもしれません。

今となっては過去の確かな真相は闇の中ということでしょうか。ただ弁慶という人物を信じる信じないはあなた次第ということです。ウフ

 

「堂々めぐり(千度参り)」については、以下↓の別ページでもご紹介しております。

京都・清水寺で「堂々巡り」をすれば願いが1つ叶う?!

蔀戸の蝉(せみ)の呪い?

本堂の外陣には細かい格子状の蔀戸(しとみど)が張り巡らされています。

この蔀戸には、落とし錠が付けられており、なんと!「蝉(せみ)」の形状をした金具が取り付けられています。

蝉はご存知の通り、人が近づくとションベンを撒き散らし鳴きながら逃げ去っていきます。

蝉が錠に付けられている理由は明らかにされておらず、これも清水寺の七不思議の1つと云われていますが、一説では、泥棒が侵入しても蝉が鳴くことで人がいることを知らせるので、「不審者の侵入を妨害する意味合いがある」とも考えられています。

出世大黒天

轟門から本堂へ向かうとまず、参拝者を出迎えるのが「出世大黒天」と呼ばれる極上の半笑いをしたカラフルな像です。

洒落たメシ屋やテーマパークの入り口に立っていそうな像ですが、この出世大黒天、なんといっても清水寺を代表するほどの人気とご利益を持っています。

この大黒天像は清水寺に伝わる「清水寺参詣曼荼羅図」によると、応仁の乱後の再建時には清水寺には描かれておらず、鴨川の中の島にある「法城寺の大黒堂(だいこくどう)」で祀られていたことが明らかにされています。

つまり、応仁の乱後の再建後から、江戸初期の再建の間に、法城寺・大黒堂から清水寺へ移されたものだと考えられています。

また、清水寺へ移された際も、この本堂ではなく、かつて轟門の手前に建っていたとされる大黒堂の御本尊として安置されていたようです。

ただ、現在の大黒天像を見るかぎりでは、最近、造られたと思えるほどキっレ~イに実にカラフルな塗装が施されていますが、これは2008年に補修されたからです。

よって現在みることのできるこの大黒天像は、室町時代の法城寺・大黒堂に実在した当時の大黒天像を復原した姿になります。

清水寺・本堂の御朱印「大悲閣」

この本堂では御朱印を授与していただくことができます。

御朱印を授与していただける場所は本堂の舞台を抜けた先の売店の隣りの授与所になります。

いただける御朱印の種類は【西国三十三所観音霊場第十六番札所】と【洛陽三十三所観音霊場第十二番札所】の2種類になります。

ただし、右上の「西国十六番」の押印が異なるだけで他はまったく同じ御朱印になります。

  • 御朱印の値段:300円

 

清水寺本堂の仏像・一覧

清水寺・本堂の御本尊「清水型千手観音菩薩」とは??

清水型千手観音菩薩」とは、清水寺・本堂の御本尊になり、つまりは清水寺の御本尊となります。

「清水型千手観音菩薩」は、通常時は拝観することは叶わず、本堂・内々陣の最奥の須弥壇中央に置かれる厨子(ずし)と呼ばれる豪華な箱の中で安置されています。

須弥壇は横幅約16メートル、奥行き3.3メートルものコノヤローなほど大きな須弥壇で、中央に置かれる厨子は国宝の指定を受けています。

この厨子は方形造りの厨子で全部で3つ存在し、中央に御本尊と左右に毘沙門天像と地蔵菩薩の脇侍が収められています。

しかし御本尊を拝めないので、少しガッカリした気分になるのは否めないのですが、その代わりの代打として御本尊を忠実に模して造立された御前立(おまえだち)と呼ばれる仏像や上述の「御正体」が御本尊の前に立っていますので、御本尊に成り代わって拝むことができます。

尚、御前立でも真摯に拝することで享受されるご利益や功徳は御本尊と同じとされています。

脇侍・「毘沙門天像」「地蔵菩薩像」

御本尊の厨子を挟む形で須弥壇に向かい見て右には厨子があり毘沙門天立像が祀られています。

逆に向かって左の厨子には地蔵菩薩立像が安置され、これら2像とも秘仏となっています。

また本堂の地蔵菩薩は、獅子の頭の彫刻が乗った兜をかぶり、ヨロイを着用しています。両手には錫杖の他、剣を持ち、まさに戦闘モードに入っている地蔵菩薩と言えます。推定戦闘力:210000

「清水型千手観音菩薩」が「清水型」と呼ばれる理由に関しては当サイトの以下の別ページにてご紹介しております。

えぇっ?!京都・清水寺には1000年以上前から伝わる「秘仏」がある?!

脇侍・「二十八部衆」

本尊と上述の毘沙門天像、地蔵菩薩像のさらに両脇には左右それぞれ14体の二十八部衆の像が祀られています。

この二十八部衆の像は28体もあることから、清水寺の過去の火災で焼失した像もあれば、類焼をまぬがれた像もあります。

これがどのようなことを示すのかと言いますと、清水寺の二十八部衆像は焼失する度に再び造立されなおしていますので、28体の年代がバラバラになっています。

大半は室町期造立とされていますが、中には安土桃山時代に造立された像や江戸初期に造立された仏像もあります。

三十三間堂の二十八部衆像は清水寺の像を真似て造られた?!

近年、思いがけないビッグニュースが飛び出しました。

どのようなニュースかお分かりでしょうか?

そのニュースとは、なんと!清水寺近くに位置する三十三間堂の二十八部衆像を修繕したところ、像の中から「清水寺の二十八部衆像を模して造立した」といったような記述が見つかったようです。

三十三間堂の二十八部衆像は鎌倉時代の造立とされることから、鎌倉時代以前の清水寺の二十八部衆像を模造したことになります。

ここから導き出されることは、創建以来受け継がれる二十八部衆像のコピーを造って保存しようとしたとも考えることもできます。

例えば、清水寺は過去に叡山や祇園社(八坂神社)と抗争を繰り返していた歴史があり、1113年(天永4年)に比叡山の僧兵や祇園社(八坂神社)の神職たちによって清水寺境内の諸堂は破壊や焼き討ちにあっています。

つまり、このような惨劇が続くことを想定して、敢えて三十三間堂にコピーの像を残したとも考えられます。

以上の点を絡めて考察すると、ひょっとすると現在の清水寺の二十八部衆像は、三十三間堂の二十八部衆像を模して造像されたとも考えることができます。ウフ

風神像・雷神像

風神像・雷神像の大きな特徴としては、仏像は大抵、人間のように指が5本あるのですが、風神雷神像の指は風神像が4本、雷神像が3本になっています。

また足の指までもが人間と異なり、両足に2本ずつのみになっています。

この理由は未だに解明できない大きな謎となっています。

えぇっ?!御開帳は清水寺が起源だった?!

清水寺は家光公が再建を手がける少し前の寛永期に1度、伽藍が焼失していますが、この時に伽藍再建資金を得るために、苦し紛れに思いついた打開策として絶対秘仏の御本尊を人々に公開するということを行っています。

これは現在で言うところの御開帳となり、3日間限定で拝観料をとって御開帳しています。

この御開帳では予想外の数の参拝者が押し寄せ、莫大な資金が集まったことから、以降、清水寺で周期的に御開帳が行わることになります。

また、この時、清水寺が行った御開帳が日本全国の寺院に伝播し、以降、日本全国の寺院においても御開帳が盛んに行われるようになったと云われています。

このため清水寺で行われる御開帳を「居開帳(いがいちょう)」と呼称し、他所で行われた御開帳を出開帳(でがいちょう)と呼称したようです。

この説が正しいとするのであれば、この時清水寺が行った出開帳の風習が現在まで受け継がれていることになります。

その後の清水寺では上述の3日限定で行われた御開帳を皮切りに以降、御本尊・千手観音に通じる観音経の「三十三の教理」に基づき、33年周期で御開帳されることになっています。

観音経の三十三の教理とは、千手観音を含めた観音菩薩は三十三もの姿に変身することができ、救済する者の姿に合わせて容姿を变化させて救済すると云われています。..変っ身っ!とぅ!

【補足】清水寺・本堂の次回の御開帳はいつ??

2000年代に入って行われた御開帳がちょうど2000年(平成12年)であり、33年周期で計算すると次回、御開帳されるのは2033年になります。

本堂にまつわる清水寺の取り組み

ご存知の通り、清水寺境内の堂舎の屋根は大半が檜皮葺で葺かれています。

また舞台の柱にはケヤキ材が使用されています。

一般的に建築に使用できるまでの用材になるには最低でも樹齢300年以上、適したもので400年以上の歴史が必要であると云われています。

そこで清水寺は京都府下の山々にケヤキを約3000本以上植林し、はたまた、屋根の葺き替えに使用するヒノキ材も植林しています。

清水寺・本堂の場所

清水寺の本堂は経堂前の窓口で拝観券を購入して、その付近に位置する轟門をくぐり、直進した先に位置します。

舞台の後方が本堂になります。

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