「忠僕茶屋」の場所はドコにある?
「忠僕茶屋」は、轟門(中門)から入って舞台を過ぎ、地主神社や阿弥陀堂、奥の院、音羽の滝を経て、清水寺の第四コーナーを過ぎた府中の直線に差し掛かった200mのポール(ハロン棒)あたりに佇む茶屋になる。先行馬有利の展開‥‥ヒヒぃぃぃ〜ン …..総じて意味不明っ!
忠僕茶屋の名前の由来
「忠僕」とは?
忠僕とは、ストレートに直訳すると「忠実な下僕/忠実な召し使い」となるが、現在、忠僕と言えば「大槻重助(おおつきじゅうすけ/1838~1893)」という幕末の人物の名前が挙がる。
大槻重助は、清水寺成就院第24世住職の月照(忍向)師の忠僕と伝えられる。
では、「忠僕茶屋」の名前の由来とは?
後述する重助の故事を鑑み、月照上人に生涯を通して貫いた重助の忠義心を評価し、有村俊斎(後の海江田信義)、西郷花道(西郷従道の弟)が「忠僕茶屋」と命名し、重助へ贈った。
以後、この茶屋は星霜経て今もなお、「忠僕茶屋」として変わらずに当地に佇む。
忠僕茶屋が創業するまでの経緯(忠僕茶屋の歴史)
もともとこの茶屋は「笹屋」と呼ばれる茶屋だったが、第24世清水寺住職の月照上人の付き人であった「大槻重助」が、「笹屋」を買収して名前を「忠僕茶屋」と改めたことが当茶屋の創始となる。
大槻重助は、主人(月照)によく仕え、主人が秘密裏に勤皇活動に加担すると自らも尊王活動の一員として加わったが、秘密裏の活動が幕府に露見してしまぅ。(俗に云われる「安政の大獄」)
月照上人は同じ勤皇活動のメンバーである西郷隆盛の助言を経て、逃避行のために西郷の故郷である薩摩へと海路で進んだ。
しクぁし!当時、尊王思想を核とし、近代化へ向けた薩摩藩の舵を取っていた藩主・島津斉彬が逝去していたことから当主が代替わりしており、月照の保護は拒絶され、日向へ送られる運びとなった。
実はこの当時、薩摩藩の掟で日向送りにされた者は死罪とされており、感の良い月照上人は自らの命は日向で終わることを察知し、ならばということで自ら命を絶つことを決意する。
そして、錦江湾(きんこうわん/現在の鹿児島湾)にて入水自殺を図り、西郷もこれに付き従い入水を図った。
大槻重助はこの時、月照と西郷が入水を図るための船を用意し、2人の最後を看取るのだった。(この後、西郷は奇跡的に一命を取り留める)
主人である月照を失った大槻重助は悲しみに包まれながらも、主人の遺品を京都へなんとか持ち帰ることに成功するのだが、幕府の目は重助へも向けられており、ほどなく幕府に捕縛された京都六角に送られた。
重助は牢獄にブチ込まれて臭いメシを食っていたが、ようやく半年間が経とうとする頃、無罪放免となって釈放されることになる。
釈放後、清水寺へ戻った重助は、月照上人の弟であり第25世清水寺住職の信海上人から、月照の供養と清水寺の護持という遺命を授かった。
実は信海上人は兄の月照に随従し、勤皇活動に参加したことから幕吏に捕縛され、牢獄にブチ込まれ程なく獄死したのだった。享年39歳。
信海上人の遺命どおり、主人(月照)ならびに信海上人の墓守をすることを誓った重助は「笹屋」という茶屋を買い取り、護持の傍ら境内で茶屋を営むことにした。
そのうち奇跡的に一命をとりとめた西郷隆盛と合流する運びとなり、後任の清水寺住職となった園部忍慶師(月照&信海の弟子)は、西郷隆盛の仲介もあり、重助とその子孫の生計のために茶屋の営業権利を保証した。
重助はその後、冒頭で述べたように有村俊斎(後の海江田信義)、西郷花道(西郷従道の弟)から「忠僕茶屋」の名前を授かり、驚くことに現在進行形で重助の子孫が代々、変わらずに茶屋を切り盛りしてい‥‥‥申す。チャゴクっ(茶ゴっくん….ゔぁっ。/飲む音を表現。最後のはゲップ)
なお、清水寺にはもう1つ、この忠僕茶屋と同様の由緒をもつ茶屋があり、名前を「舌切り茶屋」と云う。
舌切り茶屋については最下記のリンク先を‥要チェックやでぃ!by.彦一
忠僕茶屋の概要(営業時間・定休日・メニューなど)
茶団子を食べてみた
茶団子だけに色を見ても分かるが、抹茶がほどよくブチ入れられてゴニャ♪ゴニャ♪と朝どれ新鮮巨大鼻クソを丸め込むようにして、捏ねくり回したようなお・団・子💕
この団子は驚くことに中身まで抹茶色!まさに茶団子と呼ぶに相応しい出来栄え。
堕落したダレヨー(ヨダレ)があんた誰よ?‥‥と言わんばかりに溢れて出て来て、もぅどうにでもしてぇ💋‥‥状態の愚かな口元へ放り込む‥。
噛み込むと、あの時の去り際の君の悲し気な顔の本当の意味を思わず考えちまぅかのような仄かな抹茶の苦味と、そして1ヶ月放置して押し出したハミガキ粉のような団子特有のネバり感を得ながら、アンガ♪ウンガ♪ググゥォ〜‥‥んゴクっ!あっ!….アヘっ。
‥‥とする。
こホンっ!
そして締めのメーランを送り込むことを胃袋くんへ知らせるかの如く、最後には今は亡きお婆が煎れてくれた、あの縁側で飲んだ茶の味を思い出すようなそれそれは香ばしい‥‥‥グスっ。。ウぇぇぇ〜ん😭
‥‥てな感じの ほうじ茶を胃袋へ流し込んで仕舞いとした。….どんな度合いや ネタのサビ発動までのふり長かったな〜
忠僕茶屋のメニュー一覧
- わらび餅:500円
- 抹茶(お菓子付き):800円
- 茶団子:500円
- ところてん:(三杯酢・黒蜜):500円
- 甘酒:500円
- ひやしあめ:500円
- みたらし団子:500円
- ぜんざい:800円
- きつねうどんorそば:800円
- ソフトドリンク各種:200円
- ビール:700円
夏になると「かき氷」が登場するわヨ💖
- いちご:400円
- レモン:400円
- みぞれ:400円
- 宇治:500円
- ミルク:500円
- いちごミルク:500円
- レモンミルク:500円
- 宇治ミルク:600円
- 金時:600円
- 宇治金時:700円
- 金時ミルク:700円
- 宇治金時ミルク:800円
忠僕茶屋の営業時間・定休日
変更されている可能性もあるので、詳細については下記、食べログを参照💘
忠僕茶屋の前で実施される毎年恒例の行事「採灯護摩供法会」
例年8月16日になると、この忠僕茶屋の前の広場で「採灯護摩供法会(さいとう ごまく ほうえ)」という法会が営まれる。
「採灯」とは、古くは「柴灯」とも書き、意味合いは「神仏の灯明として焚く柴火」のこと。
清水寺ではこの日、代々の住職はじめ数多の祖先の霊を供養するため、聖護院門跡の山伏の方々が参集し、僧侶と共に広場に護摩壇を設けて護摩供養を執行する。
画像は七味屋本舗(清水坂沿い)より
護摩は古くから不動明王の智火とされ、煩悩を焼き尽くし、厄災を退けることもできるとされる。
8月16日といえば「お盆」。京都では伝統の「五山の送り火」が執行されるなど、盛大な祖先の霊を送る儀式も営まれる。
大槻重助の石碑
清水寺境内の北総門をくぐり抜けた先には月照・信海上人と西郷隆盛のどデカイ3つの石碑が佇むが、その手前に今も主人を見守っているかの如く、大槻重助の石碑が建つ。
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